そして、一緒に歩こうよ、国分寺の町をね2014年06月10日 23時26分41秒

★死んだ人と死んでいく人と アクセスランキング: 139位

 今日は梅雨の中休み。今年の梅雨は梅雨入りしたとたん、全国的に記録的豪雨となったから、空梅雨どころか異常に雨の多い年となるかと思う。幸い曇りがちではあるが、今日は晴れたので、午後から国分寺に住む女友達のところに別の女友達を誘って遊びに行った。渡すものものもあったし相談ごとがあった。

 その人Sさんとはもう学生の頃からだから30年以上の付き合いか。マス坊は男おばさんだから、女の友だちは多い。むろん皆さん結婚されているし、その旦那とも親しく家族ぐるみの付き合いしている関係だ。そうした一人で手作り味噌などの相方でもあるそのSさんの家に、中学校の先生で、先日の山梨行には行けなかった彼女を連れて行った。二人とも旧知であるし向こうで買ったものなどを手渡す用事もあったのだ。

 で、国分寺の彼女の家でお茶でも飲みながらあれこれ雑談してそれから夕方までその近所をぶらぶら三人で散策した。国分寺というのは昔ながらの農家もかなりまだ残っていて、田畑や竹藪や蛍が飛び交う湧き水の用水などもある、野趣ある田舎的風景と駅前の繁華と武蔵野の自然が共存したとても面白い町なのだ。
 そして思い出したのは、先日亡くなられたことがはっきりしたTさんもその家に連れてきたことがあったし、もう5年ほど前に病気で亡くなられた大学時代の後輩の女性ともそこではないが近くのSの実家に遊びに来て、やはり三人で国分寺の街道筋をぶらついたことを思い出した。そしてTさんも後輩のそのNちゃんも既にこの世にいないことに思い至り愕然とした。

 人生の黄昏とか夕暮れ時という言葉があるが、間もなく還暦を迎えていく自分にはこうして先に逝った友たちがこれからはさらに増えるのであろう。そのどちらもが、うんと年上ならまだしもともに年下であることが何とも哀しい。
 ならば自分もいつ死んでもおかしくないわけで、生きているといってもむしろこれから死んでいくと考えたほうが正しいと思った。死んだ人と死んでいく人。そこに何も差などありゃしない。ただ死んだ人はまだ生きている我々の心の中にありありと在りし日の姿、思い出は残っている。国分寺の町を歩きながら死んでしまった彼らのことを語り合った。

 が、彼や彼女たちを知る、親しくしていた我々も死ねば、やがて故人は忘れ去られ祖父や祖母、またそのまた上の曽祖父たちのように、子孫にだけはそうした人がいたから自分がいるという程度の関係、存在となっていく。まあ、それも「子孫」がいればの話であって、自分のようにやがては天涯孤独で子孫もなく死ぬ者は親しくしていた友たちがいなくなれば存在していたことすら雲散霧消するだろう。
 何ともやりきれない虚しい気もするが、死んだ後のことなどどうでも良いわけでこうして今、女友達たちと生きてお茶飲み話できる幸せを感謝するしかない。

 ♪僕を残してあの娘は行っちゃった、で始まる「サンフランシスコ・ベイ・ブルース」は、故若林純夫さんの名訳詞で知られているが、その曲は今でも多くのシンガーがそれぞれの訳で唄っている。残念だが、ご当人が既になく、ほとんど録音も残っていないので今ではその訳ではあまり唄われない。だが、自分にとってはやはりこの曲は、うんと若いとき聞いたレコードで若林さんから教わったようなものであるし、その訳が今でもいちばんしっくりくる。
 彼は京都でのフォークキャンプで演った時は、最後は「そして一緒に歩こう、京都の町をね」と結んでいたし、武蔵野たんぽぽ団とか、こちらで唄っているときは「吉祥寺の町をね」と唄っている。※余談だが、彼が訳して唄ったバンドの「The Weight」の訳を誰かご存知か。先日シバと話したときもその訳は素晴らしいと語っていたし、京都のオクノ修さんも同様のことを話していた。一部分でも構わないのでご教示願いたい。

 そう、ならば、自分はこう唄おう。
♪僕を残してあの娘は行っちゃった。天国の向こうまで。とってもいかした娘だったが、さよならの一言、言わないで。《略》でも戻っておいでよ、機嫌を直し、そして一緒に歩こうよ、国分寺の町をね、と。