「本」というメディアの終焉・後2015年04月21日 21時26分51秒

★紙の本はその役割を終えた。           アクセスランキング: 135位

 本とは、そもそも記録・伝承として書かれた文字、文章を後代に残すためにまとめたものであった。が、最終的には、知識の容れものとして出版、流通していったと断じてかまわないかと思う。
 むろん、楽しみ、娯楽の読み物としての本もあった。全体の割合からすれば小説も含めれば、そちらの方が多いかと思える。

 しかし、ハウツー本や実用書、新書の類も含めて、教科書、学術書、各種マニュアル、解説・説明書なども全て「知識」を得るためのもので、本とは、娯楽以前にそうした実用書であった。

 ちなみに試みに、「~がわかる本」というタイトルの本がいったい何冊あるのかとAmazonのマーケットで検索すれば、8000冊という数字で出てくる。本当に本で何かがわかるかは別として、人はわからないことがわかりたい、知りたいが故、そうした本を求めるのだとわかる。需要があるから安直なタイトルながら「ナニナニがわかる本」が世にあふれるのである。

 我々の世代は、学生の頃など、何かわからないこと、知らないことがあるときは、図書館にまず行った。図書館は本の倉庫であったから、レポートを書くにしろ、大学の図書館や、大きな図書館に足を運べばそこの本からたいていのことは知識を得ることができた。

 しかし、今の人たち、学生であってもあまり図書館などへは行かないのではないか。むろん話題の新刊書が読みたいが、買うまでもないと考える人は今だって図書館を利用するだろう。
 が、何かを調べるとか知識を得たいというときに、今は図書館に行って調べるという人は少ないと思う。なぜならインターネットで、検索すればほぼ全てのことはすぐヒットする。それが正しいかどうか、じっさいに役立つかは別として、家にいながらでも出先からでもいくつかの語句を並べて検索かければ、それについて書かれているページが即表示される。図書館の本よりはるかに効率よい。

 また、ネットの世界では親切なヒマ人も多いから、質問投稿サイトに、わからないことを書き込めば、回答の返事もあるだろうし、また、それぞれある話題についてスレッド立てて関心ある人なら誰でも語り合う掲示板だってある。
 昔を思えば実に便利な夢のような時代になったと思う。世界のどこにいてもネット環境さえあれば、あらゆる情報がたちどころに得られる。

 ということは、「知識」の容れものとしての「本」はもはやあまり必要ないのである。むろん体系的、統合的に学び知るためには本のほうが効率は良いだろう。しかしネットの情報のほうが新しくより実用的ということも多々ある。
 一度世に出た本はアップデイトされない。つまり日進月歩の世の中で、常に最新版を出している本だって、「今」には永久に追いつけない。世の中の新しい動きや情勢に関して、ネットの情報に勝るものはない。日々発行される新聞だって追いつけない。むろん紙のメディアの方が深く掘り下げ思索することはできよう。しかし「知識」という情報のみならその量はネットや電子書籍に紙の本は勝てやしない。

 仮に、電子辞書を例にとれば、そうした端末一つあれば、もう各国語ごとの紙の厚く重たい辞書は必要ないのである。電子辞書機には紙の辞書が何冊も入っている。さらに辞書的機能は、ネットでも事足りる。わからないことは事象であれ言葉であれ、何でもネットから知り得られるのである。

 では、自分はそうした電子端末一台あれば、紙の辞書は全て処分できるかと問われればそんなことはない。今も広辞苑や辞林の類は何十冊も持っている。全ての辞書、事典を数えれば何百冊になるかと思う。時間さえあればページを繰って調べものをしている。
 ただ、それはそうした嗜好の人間であるから故で、世間の流れだけ捉えれば、調べものにせよ何か知識を得たいときは、世人の多くが、もはや「本」でなくてもネットでほぼ全て事足りると考えるのも当然だと理解できる。

 繰り返しとなるが、だから紙の本はもう必要ないのである。やがては娯楽としての本もほぼ全てダウンロードして読むようになるだろう。つまり村上春樹の新刊が読みたい人は電子書籍版を購入してパソコンやkindleのような端末で読むしかなくなる。
 それは極端な話ではない。じっさい、もう音楽も含めてダウンロードして「購入」するしかないアイテムがやたら増えている。
 そうした時勢に憤りを覚えるし良しとはしえないが、それもまた時世なのだと嘆息せざるえない。
 かつてはキセルを掃除する羅宇屋(ラオや)や、渡し船の船頭、村々に鍛冶屋もいた。が、今は観光的なものはともかく、それを専業に商売としてやっている者は一人もいないはずだ。理由は簡単で、利用者がなく商売として成り立たないからである。
 それと同じように、やがては新刊の本屋や街の古本屋も消えてしまうだろう。※書画骨董の類として古物商として古本を扱う人たちは残るとは思うが。

 だいぶ前に一時、「誰が本を殺すのか」という論争が喧しかったことがあった。読み手がいけないのか、書き手のせいか、出版社がいけないのかとあれこれ話題になった。今ならその「犯人」ははっきりわかる。
本を殺した直接の犯人は、インターネットであるが、先の消えた業種をみればわかるように、真の犯人は「時代」だとしか言いようがない。
 つまり紙の本は、時代によってインターネットにとって代わられ、その必要性を失ったのである。残念だが、その流れは歴史がそうであるように過去へは後戻りはできない。