砂川秋祭りのお知らせ2016年11月01日 10時08分16秒

★今年も定例の秋のイベントがいくつも。

病んで知る、健康の身の有難さ2016年11月02日 08時33分05秒

★たかが風邪だが、久々の本格的な風邪をひいて

 我マス坊は、自堕落で健康には無頓着だから始終風邪をひく。亡き母も、そんな恰好でいたらあんたはすぐ風邪ひくんだから、と我のことを常に心配していたが、よくその通りであった。
 が、このところはたいがい鼻風邪程度で、風邪ひいたと思えば、一日二日葛根湯など飲んで家でじっとしていれば悪化せずにすぐに治っていた。じっさいメマイも含めてフラフラになり起きてられなくなることはよくあったが、一日大人しくベッドに横になればすぐ回復できていた。

 母の納骨を先日30日、町田にある菩提寺で無事済ませたことは記した。妹も九州から今年5度目となる上京してくれ親戚だけでごく内々に四十九日と納骨の儀は終えられてようやくほっとできた。
 そろそろ香典返しの品やカタログも届いたとご香典いただいた方から連絡もあった。母の死から二か月近くたち、ようやく一通りの騒動は収拾ついてきたかと思える。

 が、妹が29日に羽田から来たとき、中央線のどことから風邪をひいたと言い、お寺にいったときも咳して鼻水をぐずぐすさせていたのだが、それが我にも伝染ったらしく、同様の事態となってしまった。
 最初はくしゃみが止まらない程度だったが、鼻水がいくらかんでもかんでもポタポタ垂れて来て、喉も痛く体の節々が痛い。息するのも苦しい。どうやら熱も出たようだ。
 妹は31日の夕方帰ったのだが、要するに疲れが出たのであろう。この休みをとるために、勤めている介護施設で何週間も休みなしで働いたと言っていた。翌日からもまた仕事だとのこと。
 我もまた納骨までやっとのことたどり着き、気が緩んだということもある。しかし久々の本格的、本物の風邪にはまいった。

 母が生きていれば、ふだんは家事も担当している我は、母にそちらと父のことは任せて、薬飲んでひたすら眠ることもできた。
 しかし父との二人暮らしなった今、我はどんなに調子悪くても父を起こして食事させ着替えさせてデイケアに送り出さねばならない。
 特に昨日はそのデイケアの日で、体中腰も肩も首も痛く、怠くて体起こすのも歩くのもやっとという感じであったが、ぼうっとしながら何とか父を迎えの車に乗せてまたひたすら帰宅するまで眠った。
 そして思った。気づいた。精神的に辛い時や悩みもあってもこうした肉体の不調に比べればそれは大して事態ではないなと。


 昨日はそんなで体調は最悪だったが、今はようやく風邪は峠を越えた感じがしている。止まらない鼻水も粘度を増してきたし出続ける激しい咳にも淡がからむようになってきた。が、未だ体中の節々が痛く怠いし全身のふらつき、倦怠感など風邪特有の不快症状は残っている。何よりも喉が痛くて口がカラカラ、何食べてもおいしくないし、吐き気もしている。熱もまだあるようだ。
 久々に本格的な風邪をひいてある意味新鮮に感じている。病気の人、病むということはどれだけ身体的、精神的苦痛にあるのであろうか。特に癌など不治の病苦に見舞われた人に、周囲の健康な者はどれだけ親身になってその人に寄り添い、その苦痛を理解できるのであろうか。
 たかが風邪でもこんなにしんどく苦しいのである。癌の痛み、癌を病む苦しみ辛さはどれほどであろうか。

 我が母は、癌そのものから来る慢性的、恒常的な痛みはなかったと思いたいが、けっきょく癌を患ったことにより何度も腸管の手術を繰り返し最後は食事が摂れなくなってきて栄養失調で衰弱して死んだ。
 むろんのこと、痛みは食べたときや排尿、排便時には常にあり、また栄養失調で手足や腹部にむくみが強く出て、パンパンに膨れた部位はちょっと触ってもイタイイタイと騒いでいた。看護師たち我ら看る者たちは何とか静かにマッサージをして血流を動かして腫れを減らすよう努めたが、一時的にはその浮腫はひいてもまた同様の事態があちこちで起き、もう治らなかった。治すためにはもっと栄養をとるしかないのだが、食べさせようにも日々量は減っていく。もはや体が食事を受け付けなくなってきていたのだ。

 母は死ぬ前の日近くに、もう寝てばかりいるのにも飽きた、と言ったこともあるし、寝ながら、苦しいよう~とかしんどいと言っていたことを思い出す。そのとき我は、痛いならそこをマッサージもしてやるけど、苦しいって、いったいどこが苦しいんだと訊いた。そしたら母はどこだかわからない。でも苦しいの、と答えていた。
 我はうーむ、それでは困ったなあと思ったもののあまり深くそれ以上問わずどこが痛いか言ってくれと逆に責めさえした。母の苦しみに無頓着でいた。今そのことを思い出して悔やんでいる。我は根本的に健康であったから、癌に病む母の身、その苦しく辛い体調を思いやる事、想像することができなかったのだ。実に可哀想なことをした。もっともっとやさしく母の苦痛に寄り添って励ましてやらねばならなかったのだ。近づく死を前にしてその不安はいかほどであったのだろう。

 しかし、健康な人、健常な人はこうして常にその病み苦しむ者の苦しさは真に理解できないのであろうと思う。我もまたやがては癌など病苦で最後は寝たきりになり死に臨むかと想定している。今はそのことも考えてていてもそれは健康な身で考えその体調で漠然と想像しているに過ぎない。
 じっさいのそのとき、死を控え病苦にあるときの気持ちや体調は今考えても絶対にわかりはしない。せいぜいこうして軽い風邪をひいてもこれだけ苦しむことから「想定」することぐらいしかできやしない。
 人は人の痛みに敏感であれと言われる。まさにその通りである。しかし、実際の病苦にあるときの気持ちは、そのとき当人になるまで本当に理解できないのだと嘆息するしかない。
 それでも人はどれだけ人にやさしくできるか、我が事をさておきその人の身になって考えることに近づけるかが問われている。そう、その人の身になって、我のしてほしいことをその人にしてやれるかだ。

 風邪にしろ病気は様々なことを考えさせ教えてくれる。しかしこの世には治らない病気や障害も多々存在している。ならば健常な人こそ彼らのために、彼らと共に生きねばならないのだと気づかされた。たとえその苦しみは体感できないとしてもだからこそだ。

父を特養に入れる前に2016年11月03日 23時26分59秒

★お泊りもできるデイケアがみつかった。

 それが良いことか、正しい選択かはモノゴトが確定、終わってからでないと何事もわからない。そのときはベストだと思い、それが正しいと信じて行ってもおうおうにして間違いであることもよくある話だ。人は後からわかる。後になって気づく。

 母を自宅で看護してこの家で送る事ができたのは良かったと誰もが言ってくれる。男なのに息子なのに良く面倒みたと皆が誉めてもくれる。※女=娘ならば当然なのか!?
 が、我の判断やその時々の行為は往々にして間違い、もしくは適切でなかったと今にしてはっきりわかってきた。介護にあたって素人で技術も知識もないのだからそれは仕方ないのだと慰労してくれる手紙も頂いた。そう慰めて頂き本当に救われもした。
 その通りだと思う反面、やはりもっと適切な正しい判断と行為、その選択はあったわけで、全ては運命だと思うもののやはり結果としての反省を含んだ総括はしないとならない。

 それは一個人の家庭内の問題にとどまらず、人の集団であるとある地域、例えば市町村、「都」や「国家」がどのような選択をしていくかも全く同様だと思い至る。つまりそこに住む人たちがその時々にどのような選択をしたかということで、その判断が正しかったかは、安倍晋三がよく言うように、後世の歴史家の判断に委ねることも大事だとしても、まず自ら責任もって終わった、ある時点で「総括」していかないとならない。それは、「したこと」について、また常に変わりゆくうつりゆく状況の中で自問し続けることに他ならない。
 何事であれ終わったのだから、もう過ぎてしまったことは戻らないのだから仕方ないとか、結果オーライであっては絶対にしてはならないのだと思う。でないと人は常にまた過ちを繰り返す。それでは人として、人類としての進歩はないだろうが。
 ただ何事も一つだけはっきりしていることはある。人は常に新たな「経験」の場に出会う時のみ、その判断や選択の機会を与えられるということだ。我もまた老親の真の介護とその死を通して新たな機会を与えられそこから新たに学ぶところは大であった。
 この世には知らないでいたほうが良い、とされるものもあるのかもしれない。よくそういう言い方をする人もいる。が、それは間違いだと我は思う。すべては知ったほうが良いし知った人は知らしめるほうが正しいのだと信ずる。
 
 けっきょく、父を特養に入れる話はとりあえず立ち消え、まずは新たなデイサービスに通うこととなった。

これからのこと2016年11月04日 07時24分37秒

★少しづつでも我が人生を再構築させていく

 母が突然死んで間もなく二か月となる。この間実に慌ただしくともかく忙しかった。
 我が24時間介護していた母がいなくなったのだから、もう時間は自由にとれるかと思っていたら、事態は全くそうならず、いろいろ諸般の死後の事務的手続きに追われ、ご香典など頂いた方へのお返し作業などもあったうえ、父もまた認知症が一気に進みさらに手がかかるようになってしまい心身さらに疲弊した。母がいなくなっても相変わらず身動き取れないのは全く変わらない。
 まだ保険や銀行口座の「相続」などの手続きはいくつか残っているが、母の交友関係や親戚などに対しての諸連絡、香典などのお返しはほぼ終わりが見えて来たのでやっと気持ちは一段落である。
 父も新たなデイケアが見つかり、土日中心に「お泊り」も頼めることになったので、ようやくまた音楽イベントなどに関わること、集会も含めてそれに出かけることができるものと思う。やれやれだ。

 それにしてもつい先日までハローウィンで街はバカ騒ぎしていたと思ったらもう早くもスーパーではクリスマス商戦、お歳暮の賑いである。そう、気がつけばもう11月なのだ。今年も残すところもう二か月もない。時の経つ速さに驚かされる。
 今年、母が死んだ2016年という年は、我は生涯忘れないだろう。先に「突然」死んだと書いた。じっさいは末期癌で余命僅かと宣告されていたのだからちっとも突然でもなかった。しかし、我の気持ちとしては、そう簡単に本当に、母が死んでしまうとは全く考えてもなかったし、やはり60年もずっと傍らに、離れていた時も常に「存在」していた人が消えて、この世からいなくなってしまったという現実はまだまだとても信じられない。ちっとも受け入れられていない。長い覚めない夢を今も見ているような気がする。
 だが、現実の話、この世に残っていた母の唯一の肉体、焼かれた骨は、町田の我が墓所の墓石の下に我の祖父母たちと共に収めてしまったし、にこやかに微笑む遺影はあっても、もはやこの家のどこにも母はいないし、二度と帰ってこないし会えないのである。
 そしてその現実を踏まえて、呆けて手のかかる老いた父とアラ還の息子は、これからもあまり仲の良くない二人だけでこの家で生活して行かねばならない。いったいどうしたもんだろう。母のいない、妻のいない人生を。

 これまでは母と父と老いても両親健在という想定で、我は我がこと、世間は趣味道楽と揶揄されるようなことを好き勝手、自由気ままにやってきた。親の家で暮らしていたから、恥ずかしい話、「生活苦」というのは、本質的には感じていなかった。この歳で親の脛齧るニートだとは自認はしないが、本来は真剣に働いて家に金を入れるべきところ、親たちの世話する名目でそれは免除され、ネット古書店などで稼いだ僅かな収入はそのまま道楽で散財してきていた。
 家のこと、様々な支払いや手続き、税の申告など一番根幹の大事なことは、全て母に任せて、我は単純労働的家事だけに専念してきた。すべては母が生きてこの家にいてこそ、そうした家計運営システムは成り立ち得た。
 今、母がいなくなり、環境は一変して、ならばこれからどういうシステムでこの家を維持していくか、我はきちんとどこから収入を得ていくかようやく考える時間もできてきた。そして家計管理も全て担当してみて、生活というのがこれほど大変で面倒なものかと痛感している。母が死んで母の分の年金は消滅したので入る金より出る金のほうが多い。生活苦を今になって噛みしめている。
 認知症かつ、大腿骨骨折が完治せず、今も杖と介助なしには自力歩行が困難な92歳の父を我一人で抱えてしまえば、たとえバイトでも外に勤めに出るのは難しい。父がいると何しろ目と手が離せない。デイケアなどの通所サービスでは、こちらの時間も制約されてしまう。

 もしバリバリの会社員ならば、おそらくこうした事態には、もはや会社は辞めざるえないわけで、そうしない限り父を特養などの介護施設に入れるしかすべはない。お金はかかってもそうした介護専門施設に手に余る老親を預けてしまえば、たまの休みに見舞いに行けば良いだけで子は自らの仕事、己の人生に専念できる。
 ならば父の年金は全て特養につぎ込んで、我はこの歳では難しいのは承知のうえ、「就職」して自ら我が生活分は稼いでいこうかと、母の死後この間ずっと考えていた。真に新しい我が人生、面倒な親のいないマイ人生を始めたいと。

 しかし、父はもう92歳なのである。どんなに元気な人でもまず百までは普通は生きられない。ましてこんなヨタヨタかつ、だいぶ呆けてきた人が生きたとしてもあと数年であろう。まあ、父は母の分までも頑張って生きると、会う人に励まされる都度そう答えているが、本当に先のことは定かでない。
 これからさらにボケも進めば体もさらに弱り、ふらつき転んだりしてあっけなく事故死するかもしれないし、また誤嚥から肺炎に至り、最後は病院任せで送ることにもなろうかと考える。
 場合によっては意外としぶとく持ち直して百近くまで生きてしまうかもしれない。
 ならば、父と暮らせる日々、先の事が見えないからこそ、ともかくできるだけ長くいっしょにこの家でやっていくべきではないのか。むろんのことものすごく大変だと思う。今だって、その世話に疲弊して来ている。息子はキレまくりである。
 だからこそうまくデイサービスなどを利用して、父と息子が24時間顔突き合わせて過ごさないような日をうまく生み出していく。

 母の時も思ったが、我に妻子あらばともかくも、我一人だけで誰かの面倒を始終看ることは絶対できやしない。母の時は末期癌で、自宅で最期を、と家族で願ったから我はともかくやったしやるしかなかった。 
 しかし、父のことはまだ先が何も出ていないのだ。妻を先に喪った男はすぐ後を追ってあっけなく死んでしまうとよく聞かされる。ならば父もまたこの先一年がまず勝負かもしれない。
 来年の母の命日9月8日まで、入院などもせず父が無事にこの家で我、息子と暮らせたらばたぶんこの先もあと数年は生きるものと想定してもよいかと思える。
 むろんかなりの高齢、超老人なのだからいつ何が起きてもちっともおかしくない。朝は元気でも夜には倒れたり、前の晩は何ともなくても翌朝はもう目覚めないことだって予測もしておかねばならないだろう。

 というわけで、母が死んだからこれまで我がやってきたこと、活動がまたそのまま再開できるわけもなく、父という重荷を背負いつつうまく我が人生をもやっていくにはどうしたら良いか、再構成、再構築せねばならない。どうあがいても前と同じ生活には戻れない。

 漱石の句に、菫程な小さき人に生まれたし というのがある。明治の男としては珍しく乙女チックな、やや気恥ずかしい感もある俳句だが、今の我もまた実にそう思う。強く共感する。
 いつの間にか人はどんどん大きくなって、その人生は肥大し手に余るものとなってしまう。どんどん抱えるものは増え続けるからこそ、できるだけシンプルに、小さいがしっかりと根を下ろし可憐な花を毎年咲かせる菫のように生きられたらと願う。そう、憧れる。人生がもしやり直せるならば。菫のように生き直したい。

12/23日を再出発の日としたい2016年11月05日 10時03分03秒

★今年もその日、ささやかに拙宅にて皆で集うことができたらと

 やたら雨や曇りの日が多い天候不順の今年の夏~秋であったが、ようやく11月に入ってカラッと晴れた良い天気が続くようになってきたようだ。今日も朝から晴れて陽射しは明るく爽やかだ。過ごしやすいが少し肌寒く、少ししみじみ寂しい感じがしている。願わくば我はこんな日に死にたい。
 
 ようやく母の死~葬儀関連のなすべき事案はほぼ終わりが見えてきた。が、今日もまだご香典をいただいた方残り何人かに発送するものもあるし、「お返し」を辞退すると記したうえ葬儀に来られてお花代を頂いた方には直接出向き、無事納骨も済ませたことなど御礼の気持ちを伝えねばならない。
 そうした案件の人がまた数人残っていて、それらをすべて片づけてようやく対社会的な母の死というものの事後処理は終了となる。
 それらと並行して少しづつでも我が人生の再スタート、再構築を考えて、それに向けて作業も初めて行かねばならない。が、まだ友たちと個別に連絡とってお会いして今後のこと等相談するまでに至っていない。
 まだまだやるべきことがいっぱいあって、落ち着いて腰据えて自分のことに向き合えないというのが正直なところだ。
 どうかもう少し待っていてもらいたいと願う。

我に、喪中とか忌中という感覚はないし、母が死んだからといって静かにじっと喪に服さねばならないとは考えていない。が、やはり例年通りの新年の年賀状は来年度は控えるのが常識だと思うし、母の死を知られた方は当然出すのは憚ることだろう。よって年賀状は欠礼する。
 だから2017年の正月が来ても、いつも通りごく簡単なお節料理とお雑煮は作るし食べるとは思うし特に何か違うことはしないつもりでいる。しかし、もう今年はそれを作る人がいないのだから、父と二人の食べるぶん近所のスーパーで出来合いのを贖ってそれで済ませようと思う。

 正月はともかく、その前にクリスマスがある。拙宅無頼庵ではこの10年ほど、毎年12月23日の天皇誕生日に、クリスマスにかこつけて、年末謝恩ライブパーティを続けて来た。
 今年もそれはやるべきか迷っていたが、問い合わせもあり、母が死んだこととそれはまた別な次元の話だと割り切って、今年も変わらず開催することにした。
 詳しいことはこのブログでお知らせする予定だが、あまり何も凝らずに、料理やお酒だけは用意しておくので、どなたでもお気軽にお越し頂きたい。
 生前の母を知る人も、まったく面識のないひとも故人の供養だと思ってお気軽にご参加頂ければと願う。まだ何の準備も計画も何一つない。ともかくそうして先に予定を入れないことにはこのゴミ屋敷と化したこの家は片付けることができやしない。

 我としてはその日を、新しい人生再出発の日として位置付けたい。別にしんみりすることは何もない。唄いたい人、騒ぎたい人、話したい人、淋しい人、どなたでもご自由にまずは集って、これからのこと、来るべき来年に向けて鋭気を養いたい。
 そして我は皆さんから元気をもらいたい。一区切りつけて気持ちを切り替えて新しい人生をスタートさせる日としていこう。

久々の山梨へ行ってきた2016年11月08日 22時52分31秒

★母亡きあと、父を連れて

 昨日の午後から一泊二日で、数か月ぶりに山梨の古民家へ行ってきた。増冨のラジウム温泉にも久々に入ってきた。
 天気にも恵まれ、向うはそろそろ紅葉が盛りとなってきていて、爽やかで快適な秋の山里を満喫してきたものの母の不在という意味を嫌でもひしひしと感じて淋しさと哀しみをまた確認する小旅行であった。

世界はさらに破滅へと向かっていく~トランプ氏当選に思う2016年11月09日 22時25分07秒

★米国型資本主義の矛盾の落とし子、トランプ新大統領で、世界はどうなるのか

 あろうことか、世界中がまさかと思った、政治家ではないタレント大富豪が地球最大の超国家を率いる大統領にまさかの当選である。何の政治経験もない暴言だけが取り柄の男が核兵器発射のボタンをまんまと手に入れたのだ。ならばもう少し知恵ある大人しいチンパンジーを大統領に仕立て上げたほうが安心であったかもしれない。
 しかしこれは悪夢か近未来SF映画のようだが、現実のはなしであって、我々地球に生きる者は、超大国アメリカを手中に収めたトンデモない男の一挙一動をこれからは常に注視していかねばならない。
 が、これもまたサプライズというだけにすまされぬ根深い政治問題の表れであって、先の英国のEU離脱とも多いに重なる、愚かだが当然の結果であった。我は今日午前からずっとテレビを観て開票を注視していたが、もう開票当初からトランプ氏が当選だろうと確信していた。
 誤解されるのは心外だが、もしヒラリーとトランプのどちらを選べ、棄権、白票はないとするなら今の我はトランプ氏を選ぶ。何故なら、ヒラリー・クリントン女史では何一つ政治は、世界は大きく変わらないからだ。これまでも書いた来たが、我はオバマ現大統領をほとんど評価することがでない。その路線を踏襲するのならば、日米関係は現状と何一つ変わらないし、まずそれを肯定することができないからだ。

 このところ先の都知事選からずっとずっと考えていることがある。「よりましな選択」というのは本当に「よりまし」なのであろうかと。
 例えば、Aという絶対的な悪があるとする。それに対して、そのAの行う悪行を阻止するため、Bという、それよりはマシな者を選ぶべきだという方法論がある。それは間違いではないはずだ。が、Bも実は、Åよりはマシだというだけで、ちっとも良くはないのである。
 本来はAでもBでもない、ほんとうにもっと良い、正しい第三の選択をすべきなのである。しかし、そのCでは当選できないし、結果としてAの悪政が続いてしまうならば、ともかくまずはBという、よりマシのところで皆で結託しまずはAという最悪を終わらせようではないかという案である。でもそれは本当に正しいのか。我はまだその答えを持たない。
 いっそのこと、本当に正しい常にCだけをずっと支持し続けて、Aが自然に内部崩壊的に破滅するのを待つべきではないかとも考えもする。姑息な「よりマシ」こそが、結果として、本来の変革への足踏みかつ、回り道ではないのか。

 今回のアメリカの大統領選では、ともかくヒラリーもトランプも共に嫌われ者でそれぞれ問題を抱えて、どちらも大統領候補最悪の類ではあったが、どちらがよりマシかと問われれば、政治経験も豊富なヒラリーに本来軍配は上がるはずであった。暴言留まるところ知らず品性も下劣だと目される、単に金持で有名人だというだけのトランプは本来万に一つも勝ち目はなかった。
 しかし、民主党オバマ政権の八年間の政治、それはその前のブッシュ共和党政権からずっと引き継いできた、貧富の差が開く一方のアメリカ社会の閉塞状況であって、いつまでも先の見えぬどんづまり社会に憤懣を抱く白人層の心をつかみ、この国を再生すると威勢の良い言葉を連ねる口先男の吹く笛に皆が踊らされたのであろう。つまり、このまま民主党政権、新味のないヒラリーに任せていては、アメリカは何一つ変わらない、ならばいっそまずトランプに期待してみようかと、国民は賭けてみたのである。それは国民投票でEU離脱を決めた英国大衆も同様であり、何か変革を、国民自らが求めたのだからそれはちっとも悪いことではない。

 確かにヒラリーではおそらく景気も含めて今後も大きな変化はないと我も思う。彼女こそ旧来の体制保守派であり、全く新味はなく、あるのはその夫同様、公私混同という脇の甘さだけならば、オバマ的耳に心地よいキャッチフレーズをいくら並べたところで、その現実味には疑問を持たれても仕方あるまいと思える。
 政治家として、人間として最凶最悪のトランプ氏を大統領にしないためにも、彼よりは「よりマシ」なヒラリー女史を選べといわれてもまさに苦渋の、究極の選択であっただろう。
 ならば政治家としては未知数でも、経営者としては剛腕で鳴らしたタレントとしても知名度の高い「大富豪」のほうが、期待をこめてはるかに魅力的ではないか。彼なら不動産で成功したように、米国を再び立て直して偉大な強い国家に戻してくれるだろうと。
 
 世界最大の先進国、超大国アメリカは、国内産業が衰退し、雇用が流出し、しかも人材サービス業は不法移民やヒスパニックらに奪われ、ごく一部の金持ち以外、ブルーカラーの労働者に至っては仕事がなく貧困に喘いでいる。
 しかし、それこそが資本主義の結果、顛末であり、資本主義とは、ご一部の富める者がより儲けて、富が蓄積していくためのシステムなのだから当然なのである。そしてそのごく一部の富裕層、その代表の一人がトランプ氏であって、その男がヒラリーたちを、エスタブリッシュメント、富裕層と批判することこそが矛盾であり、その男に米国のかじ取りを託すこと自体もまた矛盾かつ限界があると我は考えている。

 いずれによ、このままトランプ氏が新大統領になっても選挙戦中ずっと訴えて来たことを公約として、現実にやればすぐさまあちこちから突き上げをくらい、議会とトラブルを引き起こし、立ち行かなくなろう。かといって、大人しく、勝利演説で見せたようなまっとうなこと、軋轢を避けてどの陣営とも協力しあってやっていこうとしたら、すぐさま彼を支持し大きな変革を期待した投票者たちからブーイングを受けるだろう。
 ならばトランプ氏に未来はない。政治経験がない者はいくらでも候補者のときは威勢のいい言葉を「放言」できよう。しかし、大統領となってしまえばその言葉はとてつもなく重い。気軽に、思い付きで出来ないこと、する気のないことをリップサービスでは口にできないはずだ。何よりも現実的行政手腕が問われる。メキシコとの国境に作る壁をつくるのは誰がつくる?白人労働者を雇うならばその賃金は誰が出す?それとも安く作るにはヒスパニックを使うのか?
 どこそかの、某小説家都知事のように、ほとんど都庁に顔出すこともなく、都の役人たちに任せきりにしてしまえばやがては大変な不祥事が起きてしまう。トップの責任は限りなく重い。果たして不動産王としてテレビでタレント活動で人気者になった者に政治未経験で超大国のトップが務まるのであろうか。

 世界は破滅に向かっていると書いた。しかし、破滅に向かってみないと、人類はその危機を知り、こりゃ大変だと危機意識を本当に持たないし実感しないのではないか。
 トランプ新大統領の登場はその意味で、世界が真に破滅に向かうためにも避けて通れない関門であり、我はそこから人類がもう一度学び再生するためにも、このアメリカの選択は良いことに繋がってほしいと願っている。

建前の理念なき新たな時代を2016年11月10日 21時32分05秒

★トランプ氏と共に、新しい全く違う時代を生きていく。

 我はトランプ氏ととはまったく考え方も違うし彼の存在自体認め難いと思う者だが、今は超大国アメリカの次期大統領として、彼の当選を認めて祝意を奉じたいと思う。
 世界はどこへ向かうのか、いったいこれからどうなっていくのか、誰もが不安に思っている。しかしそれはトランプという人物の登場で、そうなったのではなく、そもそも発達した資本主義社会の行き詰まり、極端な貧富の差が生み出した全世界的閉塞状況、一国家間においてさえ人々の間における格差と「分断」によって、もはやその不満は限界点に達していて、その結果としてイギリスのEU離脱という選択、そして米国はトランプ大統領の誕生に至ったのだと考える。

 つまりそれは歴史的必然であり、変革を求める国民の大きな怒り、その流れがまだ及んでいない日本はずいぶんまだ恵まれ安定した良い状況なのだと気づく。国民の社会的不満は、自公政権にさらに国政を任せることで吸収、消滅していくのならばだ。

 ある国家の中、社会の「分断」は、トランプ氏が選挙戦でことさら荒立てて問題化、表面化したことは確かだが、それは今世界中、米国だけでなくほぼ先進国すべてに及んでいる。
 英国も同様であるし、フランスもまた「自由」「平等」「博愛」という国家の持つ基本理念が繰り返されるテロ事件で今大きく揺らいでいる。そしてそこに移民排斥を訴える極右政党が台頭する。そうした分断に乗じて、彼らは人々の不満や怒りを糧にして今やどこも一定の大きな支持を集めている。米国のトランプ氏もまた同様の手法でまったくの政治素人でありながらついに大統領の座を射止めたというわけだ。
 しかし、それは、かつてナチスがヒトラーという天才的デマゴーグによって、ドイツ帝国を合法的に選挙で手中に収めたように、つねにいつの時代も起こり得る繰り返すことなのである。その結果については歴史が示すところであるからもう説明の必要はない。

 情けないのは、今やどの国家も社会の分断という「目先の現実」の対応に追われて、国家の理念、国として対外的に示した来た建国理念が形骸化してきていることだ。
 そもそもある公的集団、社会的組織では常に、その存在について「理念」というものが必要とされ、なくてはならないもののはずなのである。それは、会社ならば、「社是」であり、つまり我々はどういう意識をもって何を目的に会社組織を築くかという、世に示す「理念」である。※電通の「鬼十則」などの「社訓」と「社是」はまた異なる。社訓とは会社内に向けて、社員に求める通達・規範的理念であり、社是はもっと対社会的なものだ。まあ、その二つが合わさって会社の場合は経営理念となるのであろうが。

 国家もまた然りで、米国もまた、フランスに倣って、自由と平等、そして人権というものが国家の基本理念であり、さらにそこに民主主義国家としての自負から、世界の安定平和に貢献する「世界の警察官」としての役割まで公言してきてじっさいに行動に起こしてきたのだ。
 むろんそこに国益が絡んでの行為であるのは当然だとしてもそれはある意味おせっかいであり、その理念によって戦争国家アメリカは常にあちこち海外に進駐、侵攻してはドンパチ紛争の火種を撒き散らかしてきた。それもまた国家としての理念があったからだ。
 しかしトランプ氏は、どうやらこれまでの外交政策も大きく見直すと公言しているし、「世界の警察官」としての幟り旗も下ろすらしい。日本がさらに駐留経費を求められるのはまっぴらごめんだが、ならばまず沖縄から米軍は撤退して辺野古の新基地建設も不要ゆえ中止としてもらいたい。が、自公政権が続く限り、求められるままに金を積み、土下座しても米軍に駐留してもらおうと腐心することであろう。

 トランプ氏の選挙戦での公約ならぬ「契約」とした、大量の不法移民排斥とメキシコとの国境に壁を築く、だって、まさにこれまでのアメリカの国家理念、アメリカ人の持っていた価値観とは真逆である。そもそもがアメリカは移民の国であり、元々住んでいた旧インディアン、つまりネイティブアメリカンの土地を収奪して、イギリスやフランス、アイルランドやユダヤ系ドイツ人、イタリア、そして中国、韓国、ベトナムまで、まさに人種のるつぼと呼ばれるほど、他民族を次々受け入れて自由と平等を保証し人権を尊重してきたのだ。
 それを中南米系の人々が不法入国して雇用を奪い居座るからといって今さら彼らだけを排斥したり差別するのはまさに国家理念に反する。
 トランプタワーの前で、選挙後に、多くの若者たちが、トランプは我々の価値観と異なると抗議のデモを行っていたのをテレビで見たが、それもまた当然であろう。

 問題なのは、今や世界各国でそうした建国理念、国家理念、その国の人たちが誇ってきた、国としてあるべき理念が形骸化してきていることだ。
 もともとそうした理念とは理想であり、ある意味スローガン的建前でもあった。しかし米国などの場合は、それがある故、移民の人々は自由と平等を求めて新天地に渡り、誰もが自助努力によって成功者となれるアメリカンドリームを夢見たのである。そしてそれがじっさいに可能なはずの国家がアメリカであった。
 トランプ氏の描くアメリカは保護主義的な経済政策で、自国のことだけまず最優先という非常に内向きな国である。アメリカを再び偉大な国へ!という彼の選挙でのキャッチフレーズは非常にわかりやすいが、果たしてそのために移民排斥や保護主義的貿易が効を奏すとは誰一人考えていない。我もまたそう思う。英国のEU離脱もだが、一時の感情に駆られた考えなしの愚かな選択のように見える。

 江戸時代の頃ならば、鎖国したまま国家はその国家だけで他国と関わらずに生きていけただろう。しかしこれだけ地球規模ですべてのモノゴトが進んでしまえば、良くも悪くもグローバルに、国家は相互協力と依存しあってやっていくかない。自国のことだけ考えていては貿易が成り立たない。
 トランプ氏は成功したクレバーなビジネスマンだから、早くも当選後は過激な発言は封印し、まさに君子豹変するの喩え通りに、しおらしく協調路線を口にし始めている。
 しかし、ビジネスマンにとっては国家理念より、まずは儲け最優先であり、会社経営ならぬ国家経営をどう成功させるかだけに頭を絞るはずだ。我はそれを怖れる。

 それはまた実に中国的であり、中国人こそ、かつて鄧小平が言ったように、白い猫だろうが黒だろうが、ネズミをとるのが良い猫だ、との謂いの通り、常に目先の実利だけを追っていく。彼らはいかに儲かるかだけしか頭にない。そこには国家の理念はないし、あっても後回しにされていく。※だいたい資本主義経済下の社会主義国ってどう考えても矛盾でないですか。
 問題は今や世界中がそうした理念や理想よりも自国の儲け最優先で動いていくことだ。しかもそれは常に刹那的で、国民の高まる不満をかわすためだけのその場しのぎでしかないのである。そしてそれまで大事にされてきた崇高な国家理念はまさに、建前、単なる非現実的理想と化していく。ではその先に何が待っているか。

 そう、日本の国家理念もまた同様の危機にさらされている。おわかりの通り、平和憲法の基本的理念である。まず憲法九条が今や形骸化されてしまった。その先に何が待っているか。
 世界はトランプ新大統領と共にどこに向かうのか。

心の穴を埋めるすべを2016年11月12日 22時19分40秒

★これからいったいどうしたものか

 誰にとっても生きていくのは大変だとつくづく思う。金持であろうが、若く健康であろうが大変じゃない人生なんてこの世にないはずだ。
 しかし、その辛苦を上回る生の喜びがあるから人は生きていけるし、生きていく意味も価値もそこにあるのだと思う。

 先に本格的な風邪をひいたと記した。それから10日過ぎてようやく風は癒えたが、我の持病である咳が残っていて喘息的発作が続いて苦しい思いをしている。夜も咳が出ると深く眠れない。
 体調すぐれずブログも一度にまとめて書けなかった。

 昨日今日と、父はデイケア、デイサービスの日だったので、父を送り出してから合間をみては横になって体を休めていた。ようやくそれで休息がとれた。まだ鼻水も出て咳に淡がからむけれど、ようやく今回の風邪も終息にむかってきている。
 それでもがんばって今週は、母の死後の諸々煩雑な手続き、その最後の後始末を終えることができた。母の郵貯の口座の相続手続きと簡保の名義書き換えである。
 いったい何度郵便局に足を運び、書類に住所氏名を何枚も書き込み、何回市役所に行って戸籍謄本を何枚も請求し印鑑登録証も請求したことだろうか。何度も何度も書いたことだが、人が死ぬとその後始末はともかく面倒かつ煩雑な手続きが必要なのである。心底うんざりした。

 よく人が死ぬと、その当人の銀行口座は凍結されると言われている。が、犯罪性のある不審死で警察などが動き出さない限り、普通はそんなことはない。戸主として資産がある人ならともかく、ろくに収入のない妻的立場の人が死んだからといって、死亡届を役所に出したとしても銀行などに役所から通達はないだろう。
 今回も気にはなっていたが、母の郵便局の口座は何も問題なく死後も使えていたので、我はそこから葬儀費用などを50万と40万、二回に分けて死の当日から二日かけて下ろして支払いに充てた。
 父名義の定期を下ろすことも考えたが、銀行に行って窓口で手続きするのが面倒だったし、幸い母の郵貯の普通口座には百万を超す金があったので簡単にカードで下ろせたからだ。
 しかし、母にはそれとは別に郵貯で定期の積み立て口座があって、母が死んでからそのままにしてはおけず、葬儀関連の雑事も一段落したので郵便局に行って母が死んだので名義書き換えたいと伝えた。するとその時点で即、口座は締結されてしまいもう下ろすことも入れることもできなくなってしまった。

 郵便局に行ったのは、それとは別に、母が母の名義でかけていた簡保の生命保険もあって、それは二口ありその手続きもあったからだ。
 一つは、母がかけて、母死亡の際は受取人が息子、=我になっていた小口のがあった。それは幸い問題なく支払われて、有難くも我には哀しくも嬉しい臨時収入となった。むろんそんな金より母が今も生きていてくれたほうがどれほど有難いか言う迄もないことだ。
 それとは別に、母がかけて、父が死んだときに、母が受取人となるやや大きい額の生命保険があって、その扱いがともかく面倒だった。
 手短に説明すれば、世間では妻より夫のほうがたいてい早く死ぬゆえ、母もそう考えて夫が死んだ場合に備えて、自らが受取人として契約を結んだ。ところが、その当人が先に死に、夫、つまり我の父が生き残ってしまったため、その保険の名義から受取人まで新たに変えて誰にするか指定しないとならなくなった。むろん父は受取人にはならない。

 また、先の郵貯の母の口座さえも簡単に、名義が変えられると思っていたらば、母が死んだのでその口座自体失効したものとみなされ、その額は「相続」となるのだという。けっきょく、相続人として権利のある者の全員の署名と捺印、さらにには印鑑登録証まで求められ、そこに母の出生から死亡まで全てがもれなく記載されている全戸籍謄本が必要だと言われて頭痛めた。
 そうした手続きのため妹にまで先日書類に記入してもらい、印鑑登録証を送ってもらい、父のと我のも含めてもろもろの書類を集めてまた郵便局の簡保と郵貯の窓口にそれぞれ行き、書類の漏れなど確認してもらった。
 木曜に行ったときは、何とか郵貯口座のほうは、受理されて上のほうに回してもらえることになったが、簡保は書類不備でダメ。しかたなくまた書き直して、金曜昼に簡保の窓口にまた行って、向うでもいろいろ上に電話して確認とってようやく提出となったのは3時であった。待たされているだけで疲弊した。

 簡保の場合、名義変更と、母の死に関しての保険から入院などの治療費などの請求で、立川の病院にまた出向き、この何年間の入院などの記録を全部書類に打ち出してもらうだけで、病院に6480円も支払う羽目に。果たして、保険金はそれより多く支払ってもらえるのだろうか。
 問題あればまた向うから問い合わせが来るだろうが、とにもかくにも郵便局関係の、ようやく面倒だがしなければならない死後の請求手続きは一通り終えられた。

 父が死んだときは、またさらに様々な名義変更や相続の手続きに追われることになる。それである程度のまとまった金が我にも入って来るのかと思える。ほとんど他に収入のない我にとって、その金は有難いが、今のような低金利時代、生きていればすぐに日々の生活で消えてしまうだろう。本来そんな金はアテにすべきでないし、我が長患いして死にゆくとき、また金がかかるのは確実なわけで、できれば手つかずでとっておきたいと思う。何しろ我は老いたとき、年金が一円も入ってこない無年金者なのだから。

 正直に告白すれば、母が我に残してくれた生命保険の金で、今我は少しだけゆとりができた。といってもこれまでネットで買い物したカードの引き落としの日に、金の工面で頭を痛めないで済む程度のことで、某不動産王のように急に羽振りが良くなったわけではない。
 が、親は、母とは実に有難いものだと思う。もしものときに、とかけていた各種保険のおかげで、幸いにして母の死関連の費用はトータルにして赤字にはならないですんだ。そのことは有難くとも母の死という痛手とは相殺どころか比べものにならない。
 
 生活費にはほんの少しゆとりができたけれど、じっさいの我が生活は破綻をきたしいつまでも再建が出来ないでいる。未だ何もかも元通りに戻らないどころか、新たにまたモノゴトを開始することができない。
 どこそこの陥没事故のように、心の中に大きな穴がぽっかり空いたままでその穴を埋めるすべがみつからない。
 いったいどうしたらよいのだろう。

心の穴を埋めるすべを・続き2016年11月13日 00時13分59秒

★死の世界から戻って来たが

 母が死んでから、いや、正しくは、死に行く母と何ヵ月か過ごし、看取って葬儀など後始末を終えてから、我はまた生の世界へ戻って来た。が、どうしてか、前と同じ感情、日常に戻れない。
 かつて自分が関わったり関心を持ち、大事なことと思っていたことすべてが、価値と意味を失ったというのは大袈裟だけど、前のようには向き合えない。あんなに好きで大事だと考えていた「うた」や音楽、ライブイベントでさえも今は前のように熱い関心が持てない。何故かと自問している。
 それはこの数か月の間にいつの間にか失ってしまったものだ。

 よくベトナム帰還兵たちや、戦地に赴いて苛烈な死ぬような体験、周囲に死が満ちた経験をした人は、平穏な内地戻ってきてもなかなか元の生活には戻れず精神的に病み苦しむことが多いときく。
 それは一種のPTSDなのかと思うが、今の我もそれに近いような気がしている。

 このところ街に出ると食べもしないのにやたら食料品を買い込んだり、ネットで大して必要ではない買い物ばかりしている。音楽はまったく聞かないし、本も落ち着いて読み進められない。
 常に何かに追われているような焦りや不安はあるが、それが何かわからないし、何かの拍子に感情が爆発したりともかく落ち着かない。
 いったい何がしたいのか自分でもわからない。何をすべきかははっきりしているが、それに落ち着いて向き合うことができない。つい無意味な消費でそうした苛立ちを発散させてしまう。どうしたことか。

 もう一度かつての日々のように、音楽やそれに関係したことに夢中になりたいと思う。我の居場所、使命はそこにあるように思えていた。が、常に身近にいた最愛の人の死を体験してしまうと、死の前では、全てが無意味にも思えてしまう。
 どうせ我も、誰もがやがて死んでしまうのだから、今、この生すら意味を持たないと思える。今は何も強い関心をひくものがない。

 ただ全てが虚しい。死の前には何もかも無意味、無価値に思えてならない。
 母と共に、母の死に関連して何かが消えてなくなってしまった。今、心の中に大きな穴が空いている。それを埋めるすべが見つからない。何で埋めていけば良いのだろうか。それともその穴を抱えて生きていかねばならないのか。

 自分にとって生きがい、生きる目的、生きる指針がほしい。何でもいい、夢中になれるものがほしい。

 いっぽうこうも考える。父も含め、どうしようもない情けない人生だが、ともかくまだ生きている。ならば投げ出さず、生き続けて、生きていることの意味と価値をみつけて、示さないとならない。

 我にとって生きていくための支えとなるような、熱く夢中になるものがほしい。それでこの心の穴を埋めていく。早くそれをみつけたい。
 このままではその穴に我もが落ちてのみ込まれてしまう。