すべてを終わらせようと考えた ― 2016年11月18日 10時21分13秒
★母を喪った先の地獄
よく歌の世界や映画の中では、大失恋や悩み苦しんだ末の離婚、そして愛する人との死別など、心に大きな痛手を負った男が、今ある現実をすべて投げ捨てて、誰も知り合いのいない新たな土地に旅立つというストーリーが見受けられる。
新しい土地で、まったく新しい人生を一からまた始められたらどんなに楽だろうか。我もそう強く願うが、現実はそう簡単に何もかもかなぐり捨てて旅立つことも出家することも何一つできやしない。
この数日、咳が止まらず、ひどいときは吐いたりと体調も最悪だったところに、一昨日の夜、突然父がまた「発狂」して、真夜中近くまで大騒ぎしたりしたので、どうして良いかわからなかった。誰もこの親子を救う者はいない。
父を殴り殺して、我も自殺してこの家に火をつけることも頭をよぎったが、興奮している父を残して、我は外に出、犬たちと深夜2時間近く外で散歩して戻ったら父はようやく自らベッドに入って眠っていたので大事に至らなかった。
認知症の父に、少しは何か作業をさせようと、母の葬儀関連の雑事もようやくほぼ終わったので、頂いた香典袋などを片付けるため整理させていた。
そしたらば、葬儀にかかった費用、収支などを記録したノートをしげしげと見ていた父は、突然、大変だっ!ワシはお寺さんに納骨法要の時のお金を払っていない、今気づいた、と騒ぎ出した。
父曰く、彼の手帳には、墓石に新たに母の名前を刻むなどの代金は石屋に5万円払ったことは記してある、が、お寺の住職に支払ったかは書いていない。だから、払っていないのか、どうなんだ、と我に問う。
むろん、その場で、妹の手から住職にはお布施として渡してある。が、お寺からは領収書など貰えないし、収支の記したノートにもうっかりまだその金額は記していなかった。
その代金は払ってあるとこちらが言っても、父は、ならば何でワシの手帳には書いていない、ワシは払った記憶がない、お前たちはうっかり忘れているんだ、どうしよう、大変だ! といくら言っても納得しない。今晩は心配で眠れないと興奮しまくりである。※代金については、当日の帰り道から父には支払ったことはもう何度も話したのに、また呆けてすっかり失念しているのだ。
こんなとき、第三者がいて、我と父の間に入って興奮する父をとりなしてくれる人がいれば良いのだが、夜中でもあり、九州の妹に電話しても繋がらない。誰か事情を知る人が説明してくれれば収まるのに、この親子二人だけではどうにも収拾がつかない。昼間ならお寺に父は自ら電話かけて確認したことだろう。
母がいれば、そんな父をなだめて父も納得しておとなしくなったのだが、その母はもうこの世にいない。何しろこれはそもそも母の葬儀に関しての騒動なのだ。
母が死んで、それだけでも地獄だと思っていたらその先にまださらにこんなに地獄が待っているとは、と、犬たちと夜道を涙をぽとぽと落としながら歩いた。
翌朝は、もう父を起こさないでいた。いつもデイケアなど迎えがあるときは、出る時刻に合わせて無理やりでもたたき起こして着替えさせ食事とらせて送り出す。が、昨日は、デイケアのない日だったので、もう知ったことかとほったらかしにしていた。
そしたら昼近くまで起きてこない。こちらも心配になった11時過ぎ、ようやく自ら起きてきて、よく寝たなあ、こんな時刻か、とまったく臆面がない。訊けば、昨夜何かあったのか!?、ワシは何かしたのか、と前夜の騒動はまったく記憶にない。呆れ果てた。
ちょうど妹から電話もかかってきて、妹から、お寺にはもうお金は払った、だから心配しないでと、伝えてもらったらようやく思い出して、ワシは安心したと言う。ならばまたそのことを忘れないうちに、手帳にその件についてきちんとでかく書いておけ、と命じても、今度は、逆に、お前は払ったことをワシにきちんと伝えたのか、では、何でワシはそれがわからないんだろう、と、昨晩騒いだことについて記憶がないのも含めて自ら不審でたまらない様子。そして、そのことについても息子に、なんで、ワシは聞いてもわからないんだ、おかしい、何でだ!? とまたさらに問い続けてくる。
問われたってこちらこそ何で言ってもわからないのか聞きたい話で、ようするにそれだけ呆けてしまい、そのときは発狂したような状態なのだから、一度思い込んで興奮してしまえば、もはや息子がどれほど説明しても聞く耳持たないのである。
しかし当人は、「正気」のときは、「発狂」しているときのことは覚えていないし、もうすべて何もわからない。だが、そうしたお金のことだけは、自らが関わり管理しているつもりでいるから、わからないことや納得しないことがあると不安になってパニック障害を起こす。
何だか今日は字が書けない、手帳もつけられないと言うので、着替えさせて病院に連れて行き、ともかく脳のCT撮るか、医師に相談しようかとも考えて父を車に乗せたが、本人は行ったって無駄だ、もうどうにもならない、と抗っている。
けっきょく病院はやめて気分転換に、まず外で遅い食事、父にとっても我にとってもこの日初めての食事をして、近くのホームセンターで買い物している間、父をペットコーナーに置いてきたら、ケージに入ってる子犬や子猫を見てすっかりご満悦である。機嫌もなおった。そして手帳にも書いたと本人は言ってるので、この件はとりあえずしばらくはまた騒ぎ出すことはないかと思える。
もう心底疲れた。その後、妹とケアマネと電話で話して、父をまず今週末、今通っている民家型デイサービスのところに一泊お泊りさせてもらうことにした。
特養に勤めている妹からは、そうした認知症の人のことは詳しい者として言われたのは、もうこれは病気なのだから理屈で説明しても無駄、だから、そうしたときは、こちらが父に合わせて、あっ、支払い忘れていた、明日払いに行くね、とか言って騙して場を収めるしかないと。どうせすぐにまた忘れるのだから。
だが、我はそれしかないとしても、そうしたほうに与することは今はし難いと思う。いや、できない。事実は事実として噛んで含めるようにして何とか理解させることはできないものか。それとももう父は本当に言葉の通じない犬猫の類、あるいは狂人と成り下がってしまったのか。
そしてまたこうもずっと考えている。それが出来ないから願うのだろうが、母を喪ってしまったのだから、もう今はすべてこれまでの人間関係も何もかも終わりにしたい、と。このブログも終わりにしようかと。
父と二人暮らしのこの地獄で、誰も助けてくれる者はいないのだから、もうすべてさらに失くしていくべきではないのか。今さら一人になって何もかも今抱えているものを投げ捨てる事はできやしない。ならばこそ、もう一度、1からではなく、ゼロから新たに人生を始めたい。
そのためにもすべてを終わらせたい。それがどこまでできるかはわからない。が、今はもう、すべてを終わらせてそこから新たに出直し始めたいと思っている。
よく歌の世界や映画の中では、大失恋や悩み苦しんだ末の離婚、そして愛する人との死別など、心に大きな痛手を負った男が、今ある現実をすべて投げ捨てて、誰も知り合いのいない新たな土地に旅立つというストーリーが見受けられる。
新しい土地で、まったく新しい人生を一からまた始められたらどんなに楽だろうか。我もそう強く願うが、現実はそう簡単に何もかもかなぐり捨てて旅立つことも出家することも何一つできやしない。
この数日、咳が止まらず、ひどいときは吐いたりと体調も最悪だったところに、一昨日の夜、突然父がまた「発狂」して、真夜中近くまで大騒ぎしたりしたので、どうして良いかわからなかった。誰もこの親子を救う者はいない。
父を殴り殺して、我も自殺してこの家に火をつけることも頭をよぎったが、興奮している父を残して、我は外に出、犬たちと深夜2時間近く外で散歩して戻ったら父はようやく自らベッドに入って眠っていたので大事に至らなかった。
認知症の父に、少しは何か作業をさせようと、母の葬儀関連の雑事もようやくほぼ終わったので、頂いた香典袋などを片付けるため整理させていた。
そしたらば、葬儀にかかった費用、収支などを記録したノートをしげしげと見ていた父は、突然、大変だっ!ワシはお寺さんに納骨法要の時のお金を払っていない、今気づいた、と騒ぎ出した。
父曰く、彼の手帳には、墓石に新たに母の名前を刻むなどの代金は石屋に5万円払ったことは記してある、が、お寺の住職に支払ったかは書いていない。だから、払っていないのか、どうなんだ、と我に問う。
むろん、その場で、妹の手から住職にはお布施として渡してある。が、お寺からは領収書など貰えないし、収支の記したノートにもうっかりまだその金額は記していなかった。
その代金は払ってあるとこちらが言っても、父は、ならば何でワシの手帳には書いていない、ワシは払った記憶がない、お前たちはうっかり忘れているんだ、どうしよう、大変だ! といくら言っても納得しない。今晩は心配で眠れないと興奮しまくりである。※代金については、当日の帰り道から父には支払ったことはもう何度も話したのに、また呆けてすっかり失念しているのだ。
こんなとき、第三者がいて、我と父の間に入って興奮する父をとりなしてくれる人がいれば良いのだが、夜中でもあり、九州の妹に電話しても繋がらない。誰か事情を知る人が説明してくれれば収まるのに、この親子二人だけではどうにも収拾がつかない。昼間ならお寺に父は自ら電話かけて確認したことだろう。
母がいれば、そんな父をなだめて父も納得しておとなしくなったのだが、その母はもうこの世にいない。何しろこれはそもそも母の葬儀に関しての騒動なのだ。
母が死んで、それだけでも地獄だと思っていたらその先にまださらにこんなに地獄が待っているとは、と、犬たちと夜道を涙をぽとぽと落としながら歩いた。
翌朝は、もう父を起こさないでいた。いつもデイケアなど迎えがあるときは、出る時刻に合わせて無理やりでもたたき起こして着替えさせ食事とらせて送り出す。が、昨日は、デイケアのない日だったので、もう知ったことかとほったらかしにしていた。
そしたら昼近くまで起きてこない。こちらも心配になった11時過ぎ、ようやく自ら起きてきて、よく寝たなあ、こんな時刻か、とまったく臆面がない。訊けば、昨夜何かあったのか!?、ワシは何かしたのか、と前夜の騒動はまったく記憶にない。呆れ果てた。
ちょうど妹から電話もかかってきて、妹から、お寺にはもうお金は払った、だから心配しないでと、伝えてもらったらようやく思い出して、ワシは安心したと言う。ならばまたそのことを忘れないうちに、手帳にその件についてきちんとでかく書いておけ、と命じても、今度は、逆に、お前は払ったことをワシにきちんと伝えたのか、では、何でワシはそれがわからないんだろう、と、昨晩騒いだことについて記憶がないのも含めて自ら不審でたまらない様子。そして、そのことについても息子に、なんで、ワシは聞いてもわからないんだ、おかしい、何でだ!? とまたさらに問い続けてくる。
問われたってこちらこそ何で言ってもわからないのか聞きたい話で、ようするにそれだけ呆けてしまい、そのときは発狂したような状態なのだから、一度思い込んで興奮してしまえば、もはや息子がどれほど説明しても聞く耳持たないのである。
しかし当人は、「正気」のときは、「発狂」しているときのことは覚えていないし、もうすべて何もわからない。だが、そうしたお金のことだけは、自らが関わり管理しているつもりでいるから、わからないことや納得しないことがあると不安になってパニック障害を起こす。
何だか今日は字が書けない、手帳もつけられないと言うので、着替えさせて病院に連れて行き、ともかく脳のCT撮るか、医師に相談しようかとも考えて父を車に乗せたが、本人は行ったって無駄だ、もうどうにもならない、と抗っている。
けっきょく病院はやめて気分転換に、まず外で遅い食事、父にとっても我にとってもこの日初めての食事をして、近くのホームセンターで買い物している間、父をペットコーナーに置いてきたら、ケージに入ってる子犬や子猫を見てすっかりご満悦である。機嫌もなおった。そして手帳にも書いたと本人は言ってるので、この件はとりあえずしばらくはまた騒ぎ出すことはないかと思える。
もう心底疲れた。その後、妹とケアマネと電話で話して、父をまず今週末、今通っている民家型デイサービスのところに一泊お泊りさせてもらうことにした。
特養に勤めている妹からは、そうした認知症の人のことは詳しい者として言われたのは、もうこれは病気なのだから理屈で説明しても無駄、だから、そうしたときは、こちらが父に合わせて、あっ、支払い忘れていた、明日払いに行くね、とか言って騙して場を収めるしかないと。どうせすぐにまた忘れるのだから。
だが、我はそれしかないとしても、そうしたほうに与することは今はし難いと思う。いや、できない。事実は事実として噛んで含めるようにして何とか理解させることはできないものか。それとももう父は本当に言葉の通じない犬猫の類、あるいは狂人と成り下がってしまったのか。
そしてまたこうもずっと考えている。それが出来ないから願うのだろうが、母を喪ってしまったのだから、もう今はすべてこれまでの人間関係も何もかも終わりにしたい、と。このブログも終わりにしようかと。
父と二人暮らしのこの地獄で、誰も助けてくれる者はいないのだから、もうすべてさらに失くしていくべきではないのか。今さら一人になって何もかも今抱えているものを投げ捨てる事はできやしない。ならばこそ、もう一度、1からではなく、ゼロから新たに人生を始めたい。
そのためにもすべてを終わらせたい。それがどこまでできるかはわからない。が、今はもう、すべてを終わらせてそこから新たに出直し始めたいと思っている。
STOP!教育の貧困2016 コンサート ― 2016年11月19日 05時02分57秒
★本日、午後3時から新大久保の旧労音会館、アールズ・アートコートで。
先に拙ブログでもお知らせしたかと思うが、再度また。
本日、19日土曜、中川五郎を中心に、これまでも回を重ねて来た「STOP!教育の貧困」のトーク&ライブのイベントが、前回と同じ場所、新大久保のアールズ・アートコートで催される。
いつの間にかマス坊も賛同人として関わっているようで、裏方としてお手伝いに行かねばならない。明日は午前に、お世話になってきた女友達シンガーの結婚式があるし、夜まであれこれ慌ただしい。
正直なところ体調に不安もあるけれど、そのどちらも義理ある、責任を伴うことだからきちんと向き合わねばならない。がんばりたい。
外はまた強い雨が降っている。また一雨ごとに寒くなっていく。
この秋は母の死の後始末などで大忙しで、まだ何の冬支度もしていない。我はともかく、父の冬物が何も出していない。このままでは風邪ひいてしまう。喪中ハガキも早く出さねばならない。この秋は特に忙しい。
さておき、ともかく明日をまず終わらせてからだ。これでようやく少しは時間もできるかと思う。それから今後のこと、ゆっくり考えたい。
明日会場で、ビデオ撮影など担当している男がいたら、マスダなので、休憩時間などにお気軽に声かけてください。
先に拙ブログでもお知らせしたかと思うが、再度また。
本日、19日土曜、中川五郎を中心に、これまでも回を重ねて来た「STOP!教育の貧困」のトーク&ライブのイベントが、前回と同じ場所、新大久保のアールズ・アートコートで催される。
いつの間にかマス坊も賛同人として関わっているようで、裏方としてお手伝いに行かねばならない。明日は午前に、お世話になってきた女友達シンガーの結婚式があるし、夜まであれこれ慌ただしい。
正直なところ体調に不安もあるけれど、そのどちらも義理ある、責任を伴うことだからきちんと向き合わねばならない。がんばりたい。
外はまた強い雨が降っている。また一雨ごとに寒くなっていく。
この秋は母の死の後始末などで大忙しで、まだ何の冬支度もしていない。我はともかく、父の冬物が何も出していない。このままでは風邪ひいてしまう。喪中ハガキも早く出さねばならない。この秋は特に忙しい。
さておき、ともかく明日をまず終わらせてからだ。これでようやく少しは時間もできるかと思う。それから今後のこと、ゆっくり考えたい。
明日会場で、ビデオ撮影など担当している男がいたら、マスダなので、休憩時間などにお気軽に声かけてください。
この淋しさを大事にして忘れず抱えていこう ― 2016年11月19日 21時37分57秒
★長い長い一日が終わって帰ってきた。
今年は我にとって大きな転機の年になると、予感はしていたが、母をはじめいろいろんなものを失った。
それは自らの失態もあるけれど、原因はそれだけではなく、要するに時節、そのタイミングが重なったということだと思える。だからそれは一概に悪いことでも嘆き悲しむべきことでもないはずだ。
しかし、人の心はやはりどうしても何かを失うとその後に、一抹どころか、かなりの淋しさが残る。心が瓶の形をしていたら、その底の部分に澱のようにたまっている。だが、今は、それを無理やり綺麗に片づけるのではなく、哀しみは哀しみとしてきちんと受け止めるように、その淋しさを大事に、忘れずに抱えてこれからも生きていこうと思った。
そのひとと知り合ってからどのくらいになるのだろうか。中川五郎がメインのコンサートの前座に出ていて、その比類ない独特のうたのスタイルに興味を持って声かけて知り合った。もう10年は経つかと思う。
それからこちらが企画した様々なコンサートに出てもらったり、ウチでのライブにも登場したり、毎年恒例のクリスマス謝恩ライブにもほぼ毎年来てくれるようになった。
我にとって何よりの幸福は、一緒に、我のギターとうたに合わせて彼女もバイオリンを弾いてうたってくれたことだ。その瞬間はまさに至福の「快楽」を味わった。感動が電気のように体を走った。
ときに恋人のように、妹のように、そして娘のように思い、仕事に追われて体調が良くないときもあれば心配し常に気にかけて来た。
そして何より有難いのは、彼女と出会わねば、我は自ら唄い出すことはなかっただろう。彼女に我の作曲したうたを唄ってもらおうと思ったら、うたはまず作者自らが唄うべきだ、私はそのお手伝いはする、と言ってくれて、励まされ彼女のバイオリンのサポートで、拙くも我は「うた」を唄うことを始めたのだった。
自らでは、中坊の頃やってたギターやハーモニカは、昔取った杵柄で、その頃ぼちぼち岡大介の影響で始めてはいたが、まさか人前で我が唄うことなんて、その頃は考えたこともなかった。
そうしたきっかけを作ってくれた言わば恩人でもあるのだから、結婚式のお知らせが届けば、当然式には参列しないわけにはいかない。もちろんそれは突然ではなく、彼と交際していることは聞かされていたし、二人で出かけた旅行先から貰ったハガキなどで順調に愛を育んでいることも窺い知れていたから驚きではなかった。
それが今日、午前11時から阿佐ヶ谷の教会であって、昨今流行りの形式だけのインチキ教会での西洋式婚礼ではなく、二人ともクリスチャン同士、牧師様がきちんと式を司ってしめやかに、だが簡素に、讃美歌を皆で唄いながら神の恵みと愛に満ちた素晴らしい結婚式は滞りなく行われた。
相手の方も何度かお会いしたが、印象は非常にしっかりした真面目な熱血漢で、この人ならば大丈夫だと心から喜ばしくおもった。参列者皆に祝福された良い結婚式であった。我は感動した。
それから、新大久保の「教育の貧困」コンサートにかけつけ、まあ何とか任されたビデオ撮影と録音は、失敗せずにできたかと思う。終えてほっとしたものの、午前の我が撮った結婚式の写真を、デジカメのモニターの中から、よしこさんや五郎氏ら、ミュージャンとしての新婦を知る人たちにお見せした。そしたら反応は、マスダさん淋しいでしょう、とか、これで寂しくなるね、と皆に言われて、五郎氏に至っては、「マスダは、ダスティン・ホフマンの映画みたいに結婚式に乱入しなかったの?」とちゃかされ、冗談交じりにその場は終わった。が、帰りの電車ではよしこさんたちに言われたことがひしひしと思い返されてきた。そして我は冗談でなく「淋しい」気持ちになっていることにはたと気がついた。
ずっと大切に思い心配してきた人がようやく幸せな結婚に至ったのだから、本当に喜ばしい。喜ぶべきことだ。そして今我は心から祝福している。が、何故か淋しい。少しだけ泣きたいような気さえする。これは「花嫁の父」的心境なのだろうか。それともふられた気持ち、「失恋」のようなものなのか。
ただ、ひとつだけはっきりしているのは、たぶんもうこれで「とうぶん」の間、もう我は彼女と一緒に音楽活動はすることはないということだ。新居で夫君との新生活が始まるわけだし、まずは仕事もお互い続けていながらその新ライフスタイルを軌道に乗せねばならない。
プロの生業としてのミュージシャンなら結婚しようが音楽活動は変わらず続く。しかし、彼女はあくまでも日曜画家ならぬ休日シンガーだったし、本業の仕事も続けつつ家庭を持てば、趣味の音楽活動のための時間はなかなかとれないだろう。それは良き夫の理解があったとしてもだ。よしこさんからは、また、うたいたいときが来るから、と慰められたが、その日まで我々は待ち続けるだけだ。
母のように死によって永遠に喪ったわけではないし、まして これは結婚という祝福すべき新たな旅立ちで、彼女にとって最大の幸福のときなのだ。良いことなのだから、失ったと思うほうがおかしい。ただ喜ぶべきだけで淋しいなんて思わずにいようと考えるが、覗きこむ空っぽの心の奥底には淋しさしかみつからない。結婚して良かったという気持ちはもちろんある。が、それとは別に、秋の夜中のようなこの寂寥感は何なのだろう。
再び、いつかまた彼女と、あるいはぶらいあんずの皆と共に、音楽活動をやれる日が来ることを期待し、信じて待ち願いながら我は我の拙いうたを唄い続けていこう。今日帰りの電車でそう誓った。まずギターの練習からだ。
オレも結婚したいよう。
今年は我にとって大きな転機の年になると、予感はしていたが、母をはじめいろいろんなものを失った。
それは自らの失態もあるけれど、原因はそれだけではなく、要するに時節、そのタイミングが重なったということだと思える。だからそれは一概に悪いことでも嘆き悲しむべきことでもないはずだ。
しかし、人の心はやはりどうしても何かを失うとその後に、一抹どころか、かなりの淋しさが残る。心が瓶の形をしていたら、その底の部分に澱のようにたまっている。だが、今は、それを無理やり綺麗に片づけるのではなく、哀しみは哀しみとしてきちんと受け止めるように、その淋しさを大事に、忘れずに抱えてこれからも生きていこうと思った。
そのひとと知り合ってからどのくらいになるのだろうか。中川五郎がメインのコンサートの前座に出ていて、その比類ない独特のうたのスタイルに興味を持って声かけて知り合った。もう10年は経つかと思う。
それからこちらが企画した様々なコンサートに出てもらったり、ウチでのライブにも登場したり、毎年恒例のクリスマス謝恩ライブにもほぼ毎年来てくれるようになった。
我にとって何よりの幸福は、一緒に、我のギターとうたに合わせて彼女もバイオリンを弾いてうたってくれたことだ。その瞬間はまさに至福の「快楽」を味わった。感動が電気のように体を走った。
ときに恋人のように、妹のように、そして娘のように思い、仕事に追われて体調が良くないときもあれば心配し常に気にかけて来た。
そして何より有難いのは、彼女と出会わねば、我は自ら唄い出すことはなかっただろう。彼女に我の作曲したうたを唄ってもらおうと思ったら、うたはまず作者自らが唄うべきだ、私はそのお手伝いはする、と言ってくれて、励まされ彼女のバイオリンのサポートで、拙くも我は「うた」を唄うことを始めたのだった。
自らでは、中坊の頃やってたギターやハーモニカは、昔取った杵柄で、その頃ぼちぼち岡大介の影響で始めてはいたが、まさか人前で我が唄うことなんて、その頃は考えたこともなかった。
そうしたきっかけを作ってくれた言わば恩人でもあるのだから、結婚式のお知らせが届けば、当然式には参列しないわけにはいかない。もちろんそれは突然ではなく、彼と交際していることは聞かされていたし、二人で出かけた旅行先から貰ったハガキなどで順調に愛を育んでいることも窺い知れていたから驚きではなかった。
それが今日、午前11時から阿佐ヶ谷の教会であって、昨今流行りの形式だけのインチキ教会での西洋式婚礼ではなく、二人ともクリスチャン同士、牧師様がきちんと式を司ってしめやかに、だが簡素に、讃美歌を皆で唄いながら神の恵みと愛に満ちた素晴らしい結婚式は滞りなく行われた。
相手の方も何度かお会いしたが、印象は非常にしっかりした真面目な熱血漢で、この人ならば大丈夫だと心から喜ばしくおもった。参列者皆に祝福された良い結婚式であった。我は感動した。
それから、新大久保の「教育の貧困」コンサートにかけつけ、まあ何とか任されたビデオ撮影と録音は、失敗せずにできたかと思う。終えてほっとしたものの、午前の我が撮った結婚式の写真を、デジカメのモニターの中から、よしこさんや五郎氏ら、ミュージャンとしての新婦を知る人たちにお見せした。そしたら反応は、マスダさん淋しいでしょう、とか、これで寂しくなるね、と皆に言われて、五郎氏に至っては、「マスダは、ダスティン・ホフマンの映画みたいに結婚式に乱入しなかったの?」とちゃかされ、冗談交じりにその場は終わった。が、帰りの電車ではよしこさんたちに言われたことがひしひしと思い返されてきた。そして我は冗談でなく「淋しい」気持ちになっていることにはたと気がついた。
ずっと大切に思い心配してきた人がようやく幸せな結婚に至ったのだから、本当に喜ばしい。喜ぶべきことだ。そして今我は心から祝福している。が、何故か淋しい。少しだけ泣きたいような気さえする。これは「花嫁の父」的心境なのだろうか。それともふられた気持ち、「失恋」のようなものなのか。
ただ、ひとつだけはっきりしているのは、たぶんもうこれで「とうぶん」の間、もう我は彼女と一緒に音楽活動はすることはないということだ。新居で夫君との新生活が始まるわけだし、まずは仕事もお互い続けていながらその新ライフスタイルを軌道に乗せねばならない。
プロの生業としてのミュージシャンなら結婚しようが音楽活動は変わらず続く。しかし、彼女はあくまでも日曜画家ならぬ休日シンガーだったし、本業の仕事も続けつつ家庭を持てば、趣味の音楽活動のための時間はなかなかとれないだろう。それは良き夫の理解があったとしてもだ。よしこさんからは、また、うたいたいときが来るから、と慰められたが、その日まで我々は待ち続けるだけだ。
母のように死によって永遠に喪ったわけではないし、まして これは結婚という祝福すべき新たな旅立ちで、彼女にとって最大の幸福のときなのだ。良いことなのだから、失ったと思うほうがおかしい。ただ喜ぶべきだけで淋しいなんて思わずにいようと考えるが、覗きこむ空っぽの心の奥底には淋しさしかみつからない。結婚して良かったという気持ちはもちろんある。が、それとは別に、秋の夜中のようなこの寂寥感は何なのだろう。
再び、いつかまた彼女と、あるいはぶらいあんずの皆と共に、音楽活動をやれる日が来ることを期待し、信じて待ち願いながら我は我の拙いうたを唄い続けていこう。今日帰りの電車でそう誓った。まずギターの練習からだ。
オレも結婚したいよう。
父のいない夜に ― 2016年11月20日 00時30分46秒
★父、初めてのデイケアお泊りに
淋しさなのか、疲れからなのか何か興奮してちっとも眠くならない。日付も変わって真夜中だが、ブログを書く。
いろいろまたご心配頂いたが、我が人生も続けて、やり直すためにも「定点観測」の意味でもブログがないとならないと気づいた。
もし、お一人でもこの拙い「覚書き」のようなものを楽しみにしてくれて、読み続けてくれる方がいるのだとすれば、有難いことだし、励みにもなる。そう、誰かは知らないし生涯会うことはないとしても、どこかで誰かが見ていてくれるのだ。まさに有難いことだ。どれほど祈っても何も言葉を返してくれない神よりもはるかに実際的ではないか。
また、ゼロから再スタートだ、始め直したいとか書いた。が、それも大きな間違いで、実のところゼロではなく、今はマイナスなのである。
つまり母の死で、この家はめちゃくちゃになってしまい、母が生きていた頃、元気だった頃どころか、死近く迄にも状況は戻っていない。
今夏、癌が悪化して突然の高熱で救急車で搬送されて入院し、家に戻るのならば自宅介護のためには電動介護ベッドなど入れないとならないとされて、母が入院している間に、玄関わきの四畳半の板の間を空にすべく、そこにあったものを山梨の倉庫と化した古民家やこの家の廊下、二階の広間に「とりあえず」移動させた。
山梨に運んだ分はともかくも、そんなわけで今二階の、かつては広く、イベントなどで客を招いたスペースも、様々なガラクタやオーディオ機器、本類等で足の踏み場がない。まずそうした場所を片付けない限り、ゼロにも、最初のスタート地点にも戻れない。まずはマイナスからまた元の位置へ戻していく。それからが本当のスタートなのだった。
今年の23日までに、そうして再び、元の位置、ゼロに戻せるか正直わからない。が、ともかく目標を決めて、期日を設けて作業を進めない限り、いつまでもこのままでこれが常態化してしまう。その日までに片付きイベントができるか以前に、これでは身動きがとれず不便でたまらない。自分だってうんざりだ。
結婚式とコンサートが重なり大忙しだった今日、いや、昨日19日が終わったので、もう今は年内何の予定もない。すべきことは父の介護だけだ。ならば、家の片付けに専念もできるし、その日誰も来ないとしても、我一人でもささやかに、ゼロに戻したお祝いをしみじみやるつもりでいる。
その父だが、今晩は民家型デイケアにショートステイで泊まりに行ってこの家にいない。何だか不思議な感じがしている。淋しさは、常に煩い父が今ここにいないということもあるのだろうか。
今年は春頃から、母と父が交互に入退院を繰り返していて、最悪の時は、夫婦二人して共に同じ立川の病院に同時に入るというW入院ということすらあった。
だから、親たちが入院して、父と母のどちらかが家にいないということは常だった。しかし、母がいないときは父はいたし、父が入院していたときも母は家にいたので、数週間のW入院時を除けば親たちが二人ともいないことはなかった。また二人で病院に入っていた時も、病院という安全な場所にいるのはわかっていたから、不安も寂しさもなかった。彼らは今いなくてもやがては戻ってくるとわかっていたから。
が、母が死に、この家から永遠にいなくなってしまい、父と二人だけの暮らしになってから、その父も夜いないことは一度もなかった。
今晩初めて、外から戻ってきて、戸を開けて、ああ、父も誰もいないんだと気づいた感覚は、淋しさとはちょっと違うが何とも言えない空漠としたものであった。空虚といった方が近しい。むろん犬や猫は喜び歓迎してくれたけれど。
父が母の後を追って死ねば、こうした感覚は日常的なものになるのか。誰もいない家に一人で帰って来る。やがてはそれにも慣れてしまうのかもしれないが、今考えただけでちょっと耐え難いように思える。
人生とは究極、そうした孤独なものなのであろうか。
我が夕方犬の散歩や買い物などで出かけて、夜暗くなってから戻ると、この家は、街灯から玄関から廊下、居間も台所もどこもかしこも灯がついている。父は裏の自室でまた電気つけて何かやってたりする。
我は、電気代がもったいないから、そこにいるならともかく、いない部屋には明かりをつけるな、と何度も厳しく父に命じている。叱りもした。しかし、なかなか改まらないだけでなく、何故か夜外から帰ってくると我が家は庭先からどこも煌々と明るい。それは母が死んでから顕著だった。
でも今晩、我は帰って来て、気がつけば父と同じように、玄関や廊下、あちこちに電気をつけまくっている。何でだろう?ああ、そうか、何で父は電気を付けてしまうのか、はたと気づいた。それは息子が居る時はともかく、いないときは不安で寂しいからなのだ。
その淋しさ故、暗いのが無意識的に辛く、ともかく明るく電気をつけてしまうのだった。ならば父を叱るわけにもいかない。
人を動かしているのは、喜びでも怒りでも哀しみでもなく、実は淋しさなのではないか。喜びなら満たされ、怒りなら爆発し、哀しみなら自失する。そこには持続的行動はない。
淋しさだけが、何かでそれを埋めようと、人を過食や衝動買いや繁華街の出歩き、他者を求めたり、何かを集めたり固執したりメールや電話かけたりとアクティヴに走らせる。
淋しい気持ちで、それを抱えて夜通し歩こうか。いくら歩いてもそれは変わりはしないだろう。しかし、もう季節は冬を迎える。夏向きだった生活の柄も変えねばならないのであった。
それが人生を生きていくということだろう?
父がいない夜は、一人で自由に何でもできる、のんびりできると思っていたが、淋しくて仕方ない。この淋しさはどこから来るのだろう。
淋しさなのか、疲れからなのか何か興奮してちっとも眠くならない。日付も変わって真夜中だが、ブログを書く。
いろいろまたご心配頂いたが、我が人生も続けて、やり直すためにも「定点観測」の意味でもブログがないとならないと気づいた。
もし、お一人でもこの拙い「覚書き」のようなものを楽しみにしてくれて、読み続けてくれる方がいるのだとすれば、有難いことだし、励みにもなる。そう、誰かは知らないし生涯会うことはないとしても、どこかで誰かが見ていてくれるのだ。まさに有難いことだ。どれほど祈っても何も言葉を返してくれない神よりもはるかに実際的ではないか。
また、ゼロから再スタートだ、始め直したいとか書いた。が、それも大きな間違いで、実のところゼロではなく、今はマイナスなのである。
つまり母の死で、この家はめちゃくちゃになってしまい、母が生きていた頃、元気だった頃どころか、死近く迄にも状況は戻っていない。
今夏、癌が悪化して突然の高熱で救急車で搬送されて入院し、家に戻るのならば自宅介護のためには電動介護ベッドなど入れないとならないとされて、母が入院している間に、玄関わきの四畳半の板の間を空にすべく、そこにあったものを山梨の倉庫と化した古民家やこの家の廊下、二階の広間に「とりあえず」移動させた。
山梨に運んだ分はともかくも、そんなわけで今二階の、かつては広く、イベントなどで客を招いたスペースも、様々なガラクタやオーディオ機器、本類等で足の踏み場がない。まずそうした場所を片付けない限り、ゼロにも、最初のスタート地点にも戻れない。まずはマイナスからまた元の位置へ戻していく。それからが本当のスタートなのだった。
今年の23日までに、そうして再び、元の位置、ゼロに戻せるか正直わからない。が、ともかく目標を決めて、期日を設けて作業を進めない限り、いつまでもこのままでこれが常態化してしまう。その日までに片付きイベントができるか以前に、これでは身動きがとれず不便でたまらない。自分だってうんざりだ。
結婚式とコンサートが重なり大忙しだった今日、いや、昨日19日が終わったので、もう今は年内何の予定もない。すべきことは父の介護だけだ。ならば、家の片付けに専念もできるし、その日誰も来ないとしても、我一人でもささやかに、ゼロに戻したお祝いをしみじみやるつもりでいる。
その父だが、今晩は民家型デイケアにショートステイで泊まりに行ってこの家にいない。何だか不思議な感じがしている。淋しさは、常に煩い父が今ここにいないということもあるのだろうか。
今年は春頃から、母と父が交互に入退院を繰り返していて、最悪の時は、夫婦二人して共に同じ立川の病院に同時に入るというW入院ということすらあった。
だから、親たちが入院して、父と母のどちらかが家にいないということは常だった。しかし、母がいないときは父はいたし、父が入院していたときも母は家にいたので、数週間のW入院時を除けば親たちが二人ともいないことはなかった。また二人で病院に入っていた時も、病院という安全な場所にいるのはわかっていたから、不安も寂しさもなかった。彼らは今いなくてもやがては戻ってくるとわかっていたから。
が、母が死に、この家から永遠にいなくなってしまい、父と二人だけの暮らしになってから、その父も夜いないことは一度もなかった。
今晩初めて、外から戻ってきて、戸を開けて、ああ、父も誰もいないんだと気づいた感覚は、淋しさとはちょっと違うが何とも言えない空漠としたものであった。空虚といった方が近しい。むろん犬や猫は喜び歓迎してくれたけれど。
父が母の後を追って死ねば、こうした感覚は日常的なものになるのか。誰もいない家に一人で帰って来る。やがてはそれにも慣れてしまうのかもしれないが、今考えただけでちょっと耐え難いように思える。
人生とは究極、そうした孤独なものなのであろうか。
我が夕方犬の散歩や買い物などで出かけて、夜暗くなってから戻ると、この家は、街灯から玄関から廊下、居間も台所もどこもかしこも灯がついている。父は裏の自室でまた電気つけて何かやってたりする。
我は、電気代がもったいないから、そこにいるならともかく、いない部屋には明かりをつけるな、と何度も厳しく父に命じている。叱りもした。しかし、なかなか改まらないだけでなく、何故か夜外から帰ってくると我が家は庭先からどこも煌々と明るい。それは母が死んでから顕著だった。
でも今晩、我は帰って来て、気がつけば父と同じように、玄関や廊下、あちこちに電気をつけまくっている。何でだろう?ああ、そうか、何で父は電気を付けてしまうのか、はたと気づいた。それは息子が居る時はともかく、いないときは不安で寂しいからなのだ。
その淋しさ故、暗いのが無意識的に辛く、ともかく明るく電気をつけてしまうのだった。ならば父を叱るわけにもいかない。
人を動かしているのは、喜びでも怒りでも哀しみでもなく、実は淋しさなのではないか。喜びなら満たされ、怒りなら爆発し、哀しみなら自失する。そこには持続的行動はない。
淋しさだけが、何かでそれを埋めようと、人を過食や衝動買いや繁華街の出歩き、他者を求めたり、何かを集めたり固執したりメールや電話かけたりとアクティヴに走らせる。
淋しい気持ちで、それを抱えて夜通し歩こうか。いくら歩いてもそれは変わりはしないだろう。しかし、もう季節は冬を迎える。夏向きだった生活の柄も変えねばならないのであった。
それが人生を生きていくということだろう?
父がいない夜は、一人で自由に何でもできる、のんびりできると思っていたが、淋しくて仕方ない。この淋しさはどこから来るのだろう。
ようやくすべてを受容できるときが来た。 ― 2016年11月21日 18時07分16秒
★全てそういう運命、定めだったのだと。
犬でも猫でも、鳥でさえも愛するペットと死に別れると、ペットロス症候群になるとよく言われている。立ち直るには一定の時間が必要で、それはおおよそ二か月はかかるとか何かで読んだ。
ペットでさえもそれだけの時間を要するのならば、ヒト、それも長年共に暮らして来た家族ならどれほどの時間が経てば、死の痛み、ショックから立ち直れるのか。
母がしだいに病み衰えてきた頃、不安で我は眠れぬ夜に、もしこれで母を喪ってしまったらば、きっと自分はショックで発狂するか自殺するしかないのではないかと、「その後」のことを強く怖れた。
そして母をじっさいに喪い、しばらくは慌ただしさと事後処理に追われつつ毎日泣き暮らしていた。あまりに死後の煩雑事が多くて、母の死を現実のこととして哀しみきちんと受け止めることすらできなかった。でも、だからショックのあまり自殺しないで済んだのだとも思える。
二か月半が過ぎて、今ようやく、頭の中も心もすっきりしてきて、収拾がつかないでいた気持ちも落ち着いて来た。そのことをまずこのブログをお読み頂いた皆さんにお知らせしたい。そして励まし応援して頂いたことに心から感謝いたしたい。
死とは、その本人にとっても周囲の者にとっても、本来は平穏と慰安をもたらす、ある意味恵みであるはずだと思う。特に長く病み苦しみ疲れた者にとっては、安らぎである事は間違いない。それは介護していた者にとっても。
しかし、我にとって、今回の出来事は、悔恨と憤怒のような悲憤しか残らず、癌によってなすすべもなく母を奪われてしまったことへの怒り憤り、我の非力さ、迂闊さをただ噛みしめるだけであった。日々自らを責め続けた。
しかし、一昨日19日、大事に思い続けていた女(ひと)の結婚式と長年関わってきた好きな音楽のコンサートに久々に出かけて向き合い、その日を境に、母の死も含め全てはそう定まっていたのだと思えるようになった。偶然その日一日、重なった二つの出来事が我に新たな視界を開かせてくれた。
つまりそれは運命であり、縁であり、神の計らいであり、予めそう決まっていたことなのだった。ならば人はそれに抗うこともできないし、認めたくはなくても受け入れるしかないのであった。
母の死から二か月、季節は夏から秋へと変わったのだけれど、去年の秋頃から母の体調が悪くなったこともあって、この一年はやたら忙しく、季節をよく味わうことがなかった。
そのまま年が明けて春が来て、母も父もやたら入退院を繰り返して、我は毎日立川の病院を往復して、夏となり、父の骨折も癒え、ようやくまた再び親子三人での暮らしが再開できたと思った束の間、母は42度という高熱を出し救急搬送されてしまい、以後、寝たきりとなって自宅に戻れても二か月も持たなかったのだ。
だからこの秋は、雨がやたら多かったこともあるけれど、今は秋で、そう認識しても今年の秋なのか去年の秋のことなのか、記憶がはっきりしないほど意識が混乱していた。
毎日ともかく何とかやるべきことは終えて生きてはいたけれど、まさに五里霧中の感じで、怒りと哀しみだけは常に傍らにあり、感情も不安定で父に怒り泣き叫び発狂寸前のときもあった。
何ヵ月も誰にも会えず、実のところ誰にも会いたくなく、会うのも怖くなって、もうこのまま社会復帰はできないかとも思っていた。
すべてのことが母の死と共に失い、変わってしまったと思えた。母がいない新たな世界が自分に築けるか不安でならなかった。その恐怖は今も強くある。
しかし19日以降、心は不思議に平穏で、山奥の澄み切った湖のように森閑として静まっている。むろん母のことを思い出したり、母を知る人と話したりするだけで、また哀しみが湧き出て涙が溢れてくる。哀しみ、それは淋しさというものなのだろう、たぶん癒えることはない。
が、いくら悔やんでも自らを責めても母はもう戻らない。ずっと受け入れられずに認めたくなかったが、そういう運命だったのだとやっと思えて来た。そこが母にとっての終着点、終着駅だったのだと。
繰り返しになるが、人は日々生きているとき、動いているときはどこに向かっているのか、いつ終わりが来るのかわからない。ようやくその日、そのときが来て、ああ、と驚き、溜息と共に「了解」する。そしてすぐ事態を承諾できる人もいれば、我のように抗い続けて起きてしまった結末に苦しむ者も多々いよう。
だが、それもこれも、この世のすべてのことは、予めそう定まっていたことなのだった。むろん、ならば人は努力したって無駄だということはない。その努力をしたとしても、努力も含めて、決まっていることがあり、それが「運命」ということなのだとわかってきた。
宿命という言葉がある。運命に近いが、そこには変えられない感じがしているからあまり使いたくない言葉だ。運命は変えられる。しかし、その努力の結果も含めて、行きつく先、終着点は決められていて、その時が来たらもうどうしようもない。
「その時」がきて、ようやくわかる。すべてが見えてくる。良いことも悪いこともそう定められていたのだと。ならどんなに辛くても、認め難くても受け入れるしかない。
今我は、すべてを受け入ようと思う。認めたくない気持ちはまだあるし、認めるのは辛いことだ。しかし今はそう考えた方が楽になって来た。哀しみは哀しみとして抱えながら、淋しさは淋しさとして大事に保ち運命を受け入れて、我は我が定めに向かってけんめいの努力をしていこう。ようやくそう思えて来た。
自分でも思う。よく母の死をこんな弱虫が乗り越えることができたあと。それは我が一人ではなかったからだが。
犬でも猫でも、鳥でさえも愛するペットと死に別れると、ペットロス症候群になるとよく言われている。立ち直るには一定の時間が必要で、それはおおよそ二か月はかかるとか何かで読んだ。
ペットでさえもそれだけの時間を要するのならば、ヒト、それも長年共に暮らして来た家族ならどれほどの時間が経てば、死の痛み、ショックから立ち直れるのか。
母がしだいに病み衰えてきた頃、不安で我は眠れぬ夜に、もしこれで母を喪ってしまったらば、きっと自分はショックで発狂するか自殺するしかないのではないかと、「その後」のことを強く怖れた。
そして母をじっさいに喪い、しばらくは慌ただしさと事後処理に追われつつ毎日泣き暮らしていた。あまりに死後の煩雑事が多くて、母の死を現実のこととして哀しみきちんと受け止めることすらできなかった。でも、だからショックのあまり自殺しないで済んだのだとも思える。
二か月半が過ぎて、今ようやく、頭の中も心もすっきりしてきて、収拾がつかないでいた気持ちも落ち着いて来た。そのことをまずこのブログをお読み頂いた皆さんにお知らせしたい。そして励まし応援して頂いたことに心から感謝いたしたい。
死とは、その本人にとっても周囲の者にとっても、本来は平穏と慰安をもたらす、ある意味恵みであるはずだと思う。特に長く病み苦しみ疲れた者にとっては、安らぎである事は間違いない。それは介護していた者にとっても。
しかし、我にとって、今回の出来事は、悔恨と憤怒のような悲憤しか残らず、癌によってなすすべもなく母を奪われてしまったことへの怒り憤り、我の非力さ、迂闊さをただ噛みしめるだけであった。日々自らを責め続けた。
しかし、一昨日19日、大事に思い続けていた女(ひと)の結婚式と長年関わってきた好きな音楽のコンサートに久々に出かけて向き合い、その日を境に、母の死も含め全てはそう定まっていたのだと思えるようになった。偶然その日一日、重なった二つの出来事が我に新たな視界を開かせてくれた。
つまりそれは運命であり、縁であり、神の計らいであり、予めそう決まっていたことなのだった。ならば人はそれに抗うこともできないし、認めたくはなくても受け入れるしかないのであった。
母の死から二か月、季節は夏から秋へと変わったのだけれど、去年の秋頃から母の体調が悪くなったこともあって、この一年はやたら忙しく、季節をよく味わうことがなかった。
そのまま年が明けて春が来て、母も父もやたら入退院を繰り返して、我は毎日立川の病院を往復して、夏となり、父の骨折も癒え、ようやくまた再び親子三人での暮らしが再開できたと思った束の間、母は42度という高熱を出し救急搬送されてしまい、以後、寝たきりとなって自宅に戻れても二か月も持たなかったのだ。
だからこの秋は、雨がやたら多かったこともあるけれど、今は秋で、そう認識しても今年の秋なのか去年の秋のことなのか、記憶がはっきりしないほど意識が混乱していた。
毎日ともかく何とかやるべきことは終えて生きてはいたけれど、まさに五里霧中の感じで、怒りと哀しみだけは常に傍らにあり、感情も不安定で父に怒り泣き叫び発狂寸前のときもあった。
何ヵ月も誰にも会えず、実のところ誰にも会いたくなく、会うのも怖くなって、もうこのまま社会復帰はできないかとも思っていた。
すべてのことが母の死と共に失い、変わってしまったと思えた。母がいない新たな世界が自分に築けるか不安でならなかった。その恐怖は今も強くある。
しかし19日以降、心は不思議に平穏で、山奥の澄み切った湖のように森閑として静まっている。むろん母のことを思い出したり、母を知る人と話したりするだけで、また哀しみが湧き出て涙が溢れてくる。哀しみ、それは淋しさというものなのだろう、たぶん癒えることはない。
が、いくら悔やんでも自らを責めても母はもう戻らない。ずっと受け入れられずに認めたくなかったが、そういう運命だったのだとやっと思えて来た。そこが母にとっての終着点、終着駅だったのだと。
繰り返しになるが、人は日々生きているとき、動いているときはどこに向かっているのか、いつ終わりが来るのかわからない。ようやくその日、そのときが来て、ああ、と驚き、溜息と共に「了解」する。そしてすぐ事態を承諾できる人もいれば、我のように抗い続けて起きてしまった結末に苦しむ者も多々いよう。
だが、それもこれも、この世のすべてのことは、予めそう定まっていたことなのだった。むろん、ならば人は努力したって無駄だということはない。その努力をしたとしても、努力も含めて、決まっていることがあり、それが「運命」ということなのだとわかってきた。
宿命という言葉がある。運命に近いが、そこには変えられない感じがしているからあまり使いたくない言葉だ。運命は変えられる。しかし、その努力の結果も含めて、行きつく先、終着点は決められていて、その時が来たらもうどうしようもない。
「その時」がきて、ようやくわかる。すべてが見えてくる。良いことも悪いこともそう定められていたのだと。ならどんなに辛くても、認め難くても受け入れるしかない。
今我は、すべてを受け入ようと思う。認めたくない気持ちはまだあるし、認めるのは辛いことだ。しかし今はそう考えた方が楽になって来た。哀しみは哀しみとして抱えながら、淋しさは淋しさとして大事に保ち運命を受け入れて、我は我が定めに向かってけんめいの努力をしていこう。ようやくそう思えて来た。
自分でも思う。よく母の死をこんな弱虫が乗り越えることができたあと。それは我が一人ではなかったからだが。
「その日」が来る前に、来るまでに・前 ― 2016年11月23日 18時34分03秒
★人はどれだけ「気づく」か。
このところようやく時間ができてきた。父も週に四日、デイケア、デイサービスに通うようになり、事前にお願いすれば夜をまたいで「泊まり」で預かってもらえる民家型デイホームもみつかった。
だいぶ一時期よりは父の世話に煩わされる手間と心労は減りつつある。やっと自分のことに時間を割き、向き合えるときができてきたわけだが、まだ落ち着いて「我が事」に取り組み始めるところまでいっていない。
先にも書いたが、母の死という大事件後の混乱収拾に今も追われて、我が人生の再建はようやく緒についたところだ。さあ、これからだ。
そして気がつけば、あまりに長く友人知人たちとも疎遠になってしまったためか、我の周りにはもう誰もいない。メールを送っても誰からも返事はないし、届くのは相も変わらぬ安易な金儲けや性欲をあおる陳腐かつ下劣なスパムメールだけ。
むろん、また人の集まるところに自ら出向けば良いだけの話だ。しかし、今は無理して淋しさを紛らわすため繁華なところに出向くより、その時間、まずは家の片付けや我が事にこの機会にじっくり取り組もうと思っている。自分がマスターできるかわからないが、新しい楽器も手に入れたし、これまでやっていたギターやハーモニカのテクもすっかり衰えてしまったので、またあらためて練習しないとならない。
今さらながら、こんなときが来るなんて。父はまだ生きているけれど、その父だけを抱えてたった一人になるときが来るとは思ってもいなかった。しかしそういう定め、運命であったのだ。
絶望はしないし、諦めもしないから大丈夫なわけなのだけど、まだ死ねないし、即死ねないのならともかく生きて残りの人生をやっていかねばならない。
先のことはまったくわからないし、目途も立たない。例えば、学校に通っているならば、その期間、卒業までは「学生」でいるはずという予定も目安も立つ。会社勤めならまた同様に、定年までは、とか数えたりする。
フリーランスというか、基本無職のような身には、そうした目安は何一つない。まあ、家だけあるから家賃の心配などはないのが救いなだけで、抱えている父が死ねば、改めてまた家計の心配、「収入」を再考しないとならない。しかし、今はまずそれよりも我家の混乱、混沌状態からの脱出だ。
そうして家にこもりつつ、「一人」でこれからどうしようかと漠然と考えている。「内」のことを進めつつ、これから「外」のことは、まず何を、どうやっていこうかと。
誰と、どう、何を始めていけば良いのか。我に求めてくれる人があらば真摯に応えるつもりでいるが、もう今の我には誰もいないのである。ただ「自分」と向き合い、これまでの人生を見つめ直している。
さて、以上は、前置きというか、うたで言えば、ヴァース、前奏のようなもので、本筋はこれから書く。途中まで書いてたら、父が下で徘徊しはじめた音がして慌てて止めに降りたら知り切れトンボになってしまった。
誰にとっても当たり前のことだが、人は「先のこと」はまったくわからない。逆に、過ぎたこと、過去のことについては実によくわかる。
今、母とのこと、一連の癌に関する体調の変化から死に至るまでの出来事を振り返ると、その時々はわからなかったけれど、今はすべて、その時々一つ一つのことの意味がはっきりわかる。
今年の春先、湯治滞在中の山梨県増冨の温泉旅館で、体調を崩してろくに食事もできなくなり帰り際に吐いたりして、我は大慌てで迎えに行ったことがあった。
そのときは、食べられなくなった理由も体調崩した原因も何もわからなかった。しかし、その後さらに家で食事がとれなくなって、病院で検査したら、癌が肥大して腸管を圧迫してきていて、それで腸閉塞気味になっていたため、増冨でも体調崩したのだと判明した。
そうした母の死に至るまでの癌という病との闘病中の出来事は、そのときは事態が良く理解できず、何であれ常に困惑するばかりであったが、母が死んだ今過ぎたことを振り返ってみて「そういうことだったのか!」とはっきりと理解できる。
もう少し「そのとき」に事態が理解できていたらまた対処の仕方も違っただろうし、母もまだ生きていたかもしれないと悔やむけれど、先の事、「結果」はそのときはわからないし見えないものなのだから仕方ない。
ゆえに我に限らず人は常に判断を誤り、過ちを繰り返すのだとわかる。
では、そうした「事実」を踏まえて、人はいったいどうすべきなのか。何かもう少し未来に対して、対処することはできないものか。どうしたら「失敗」を最小限にとどめられるか。そのことについて考えたことを書きたい。
このところようやく時間ができてきた。父も週に四日、デイケア、デイサービスに通うようになり、事前にお願いすれば夜をまたいで「泊まり」で預かってもらえる民家型デイホームもみつかった。
だいぶ一時期よりは父の世話に煩わされる手間と心労は減りつつある。やっと自分のことに時間を割き、向き合えるときができてきたわけだが、まだ落ち着いて「我が事」に取り組み始めるところまでいっていない。
先にも書いたが、母の死という大事件後の混乱収拾に今も追われて、我が人生の再建はようやく緒についたところだ。さあ、これからだ。
そして気がつけば、あまりに長く友人知人たちとも疎遠になってしまったためか、我の周りにはもう誰もいない。メールを送っても誰からも返事はないし、届くのは相も変わらぬ安易な金儲けや性欲をあおる陳腐かつ下劣なスパムメールだけ。
むろん、また人の集まるところに自ら出向けば良いだけの話だ。しかし、今は無理して淋しさを紛らわすため繁華なところに出向くより、その時間、まずは家の片付けや我が事にこの機会にじっくり取り組もうと思っている。自分がマスターできるかわからないが、新しい楽器も手に入れたし、これまでやっていたギターやハーモニカのテクもすっかり衰えてしまったので、またあらためて練習しないとならない。
今さらながら、こんなときが来るなんて。父はまだ生きているけれど、その父だけを抱えてたった一人になるときが来るとは思ってもいなかった。しかしそういう定め、運命であったのだ。
絶望はしないし、諦めもしないから大丈夫なわけなのだけど、まだ死ねないし、即死ねないのならともかく生きて残りの人生をやっていかねばならない。
先のことはまったくわからないし、目途も立たない。例えば、学校に通っているならば、その期間、卒業までは「学生」でいるはずという予定も目安も立つ。会社勤めならまた同様に、定年までは、とか数えたりする。
フリーランスというか、基本無職のような身には、そうした目安は何一つない。まあ、家だけあるから家賃の心配などはないのが救いなだけで、抱えている父が死ねば、改めてまた家計の心配、「収入」を再考しないとならない。しかし、今はまずそれよりも我家の混乱、混沌状態からの脱出だ。
そうして家にこもりつつ、「一人」でこれからどうしようかと漠然と考えている。「内」のことを進めつつ、これから「外」のことは、まず何を、どうやっていこうかと。
誰と、どう、何を始めていけば良いのか。我に求めてくれる人があらば真摯に応えるつもりでいるが、もう今の我には誰もいないのである。ただ「自分」と向き合い、これまでの人生を見つめ直している。
さて、以上は、前置きというか、うたで言えば、ヴァース、前奏のようなもので、本筋はこれから書く。途中まで書いてたら、父が下で徘徊しはじめた音がして慌てて止めに降りたら知り切れトンボになってしまった。
誰にとっても当たり前のことだが、人は「先のこと」はまったくわからない。逆に、過ぎたこと、過去のことについては実によくわかる。
今、母とのこと、一連の癌に関する体調の変化から死に至るまでの出来事を振り返ると、その時々はわからなかったけれど、今はすべて、その時々一つ一つのことの意味がはっきりわかる。
今年の春先、湯治滞在中の山梨県増冨の温泉旅館で、体調を崩してろくに食事もできなくなり帰り際に吐いたりして、我は大慌てで迎えに行ったことがあった。
そのときは、食べられなくなった理由も体調崩した原因も何もわからなかった。しかし、その後さらに家で食事がとれなくなって、病院で検査したら、癌が肥大して腸管を圧迫してきていて、それで腸閉塞気味になっていたため、増冨でも体調崩したのだと判明した。
そうした母の死に至るまでの癌という病との闘病中の出来事は、そのときは事態が良く理解できず、何であれ常に困惑するばかりであったが、母が死んだ今過ぎたことを振り返ってみて「そういうことだったのか!」とはっきりと理解できる。
もう少し「そのとき」に事態が理解できていたらまた対処の仕方も違っただろうし、母もまだ生きていたかもしれないと悔やむけれど、先の事、「結果」はそのときはわからないし見えないものなのだから仕方ない。
ゆえに我に限らず人は常に判断を誤り、過ちを繰り返すのだとわかる。
では、そうした「事実」を踏まえて、人はいったいどうすべきなのか。何かもう少し未来に対して、対処することはできないものか。どうしたら「失敗」を最小限にとどめられるか。そのことについて考えたことを書きたい。
「その日」が来る前に、来るまでに・中 ― 2016年11月24日 12時50分04秒
★それは、正しい選択なのか
よもやの11月の積雪である。明け方は雨が降っていて、いつものように早暁に目覚めてはベッドの中で、読み進めている聖書を開いていた。旧約中の『サムエル記Ⅱ』のダビデ王が主人公の頃である。
雨の音がしなくなったので、やんだかと思い、犬たちの散歩に行こうと起きだして外を見たら雨はいつしか雪に変わっていた。驚いた。
予報では、関東も積雪かもと注意報が出ていたが、まだ霜も降りていない11月なのだ。そんなバカなことがあるものかと高を括っていた。
黒犬が白くなるほど降りしきる雪の中を、犬たちと傘もささずに歩いて、人生とはこうしたものだなあとつくづく思った。何が起こるか先のことは誰もわからない。トランプ大統領誕生のように。
外に出しっぱなしだった、亡き母が手入れしていた寒さに弱い観葉植物の鉢を大慌てで玄関の中に取り込んだが、雪を被ったが大丈夫か。もうこれでプランターの野菜や地植えのハヤト瓜などは全滅だろうと諦めた。異常気象故の事だと思うが、自然のことなのだ仕方ない。
雪は今、昼過ぎてもせっせっと降り続いている。都心部より気温の低い多摩地方は、溶けつつも数センチにも積もってきた。
人は常に様々な選択や判断を迫られる。そしてそれが正しいものか、後にならないとわからない。いや、正しくは、多くのことは後になってもわからない。何故なら人生に起きる出来事はたいていは一度限りだし、間違えたからといって、違う選択、やりなおしが許されることはまずないし、人は死んで人生を〆ない限り、最終的「評価」は出ないからだ。
ただ、後になれば、トータルに過ぎたことを振り返ってみて、それが正しかったか、結果として誤り、失敗であったかは、またある時点では判明する。
歴史家というのは実に楽な仕事だとも思える。というのも過去は変えようがないから、個々の事件を点と点を先で結ぶようにして、「今」の視点で俯瞰すれば、そこに確実に因果関係は見いだせるからだ。
しかし、逆に、未来は同様には予期も予測できない。ある程度、過去の事例、経験や統計から天気図のように、「こうなればこうなる」と予想はつく。しかし、それだって未来は何のデータも示してくれないから、何が起きるか、先にいけばいくほど何もわからない。
聖書の中では、特に旧約の登場人物こそ、常に神に祈り、戦をすべきか迷った折など神に問いかけては神自身が様々な指示を彼らに与えてくれる。何故ならそれこそが神の御心、考えであり、逆に神を怒らせるような不正をして神の逆鱗にふれれば子々孫々大変な事態に陥る。
ただ神が直接、その姿を現し、語ることは一度もなく、たいていは、モーセなどの預言者が、神の声を聞くことができ、それを人々にそのまま語るのである。民はそれに従うしかない。
ここでいう「預言」とは、未来を予測する「予言」とは違う。まさに字のごとく、神の言葉を預かることであって、どうやら古代にはそうした巫女的な人々がどこの国でもいたことがわかる。
そして王や為政者はそうした預言者から神の方針を聞き、戦争や政治を行っていたし、預言者自身が、神に命じられて民を率いることも多々あったことは旧約に記されている。
ただそれは、新約の時代となって、ナザレのイエス昇天の後には、もはや預言者は登場しないし、神は、ごく一部の弟子や後の大使徒パウロとなるサウロには現れ語ったと記されているが、もう人には何も語らなくなってしまう。
今もキリストの教会は教義をめぐって多種多様に世界中に存在しているが、旧約のように、神自身が人に直截語ることも預言者の口を通して何かを示してくれこともなくなってしまった。神の不在とか、神は死んだと言われる所以である。
ならば人は迷ったとき、道が定かでないとき、いったいどういう判断を下せば良いのだろうか。神には祈る。しかし、神は何も答えてくれないし、この世は次々と神の御心にかなうとは到底思えない最悪な事態が続していく。世界は破滅へと向かっていると考えるのは我だけではないだろう。
個人も然りだが、国家が選ぶ、その判断、選択は果たして本当に正しいのであろうか。それは取り返しもつかない誤り、失敗かどうかいつかはわかるのだろうか。
そして往々にして、結果が出たときは既に本当に取り返しがつかない事態になっているのではないか。
我々は祈っても何も答えを返してくれない神に祈るしかないのか。
「その日」は必ずやってくる。その日の前に死んだ者は幸運だったと思えるようなことが起きるその日、そのときがきっと来る。
よもやの11月の積雪である。明け方は雨が降っていて、いつものように早暁に目覚めてはベッドの中で、読み進めている聖書を開いていた。旧約中の『サムエル記Ⅱ』のダビデ王が主人公の頃である。
雨の音がしなくなったので、やんだかと思い、犬たちの散歩に行こうと起きだして外を見たら雨はいつしか雪に変わっていた。驚いた。
予報では、関東も積雪かもと注意報が出ていたが、まだ霜も降りていない11月なのだ。そんなバカなことがあるものかと高を括っていた。
黒犬が白くなるほど降りしきる雪の中を、犬たちと傘もささずに歩いて、人生とはこうしたものだなあとつくづく思った。何が起こるか先のことは誰もわからない。トランプ大統領誕生のように。
外に出しっぱなしだった、亡き母が手入れしていた寒さに弱い観葉植物の鉢を大慌てで玄関の中に取り込んだが、雪を被ったが大丈夫か。もうこれでプランターの野菜や地植えのハヤト瓜などは全滅だろうと諦めた。異常気象故の事だと思うが、自然のことなのだ仕方ない。
雪は今、昼過ぎてもせっせっと降り続いている。都心部より気温の低い多摩地方は、溶けつつも数センチにも積もってきた。
人は常に様々な選択や判断を迫られる。そしてそれが正しいものか、後にならないとわからない。いや、正しくは、多くのことは後になってもわからない。何故なら人生に起きる出来事はたいていは一度限りだし、間違えたからといって、違う選択、やりなおしが許されることはまずないし、人は死んで人生を〆ない限り、最終的「評価」は出ないからだ。
ただ、後になれば、トータルに過ぎたことを振り返ってみて、それが正しかったか、結果として誤り、失敗であったかは、またある時点では判明する。
歴史家というのは実に楽な仕事だとも思える。というのも過去は変えようがないから、個々の事件を点と点を先で結ぶようにして、「今」の視点で俯瞰すれば、そこに確実に因果関係は見いだせるからだ。
しかし、逆に、未来は同様には予期も予測できない。ある程度、過去の事例、経験や統計から天気図のように、「こうなればこうなる」と予想はつく。しかし、それだって未来は何のデータも示してくれないから、何が起きるか、先にいけばいくほど何もわからない。
聖書の中では、特に旧約の登場人物こそ、常に神に祈り、戦をすべきか迷った折など神に問いかけては神自身が様々な指示を彼らに与えてくれる。何故ならそれこそが神の御心、考えであり、逆に神を怒らせるような不正をして神の逆鱗にふれれば子々孫々大変な事態に陥る。
ただ神が直接、その姿を現し、語ることは一度もなく、たいていは、モーセなどの預言者が、神の声を聞くことができ、それを人々にそのまま語るのである。民はそれに従うしかない。
ここでいう「預言」とは、未来を予測する「予言」とは違う。まさに字のごとく、神の言葉を預かることであって、どうやら古代にはそうした巫女的な人々がどこの国でもいたことがわかる。
そして王や為政者はそうした預言者から神の方針を聞き、戦争や政治を行っていたし、預言者自身が、神に命じられて民を率いることも多々あったことは旧約に記されている。
ただそれは、新約の時代となって、ナザレのイエス昇天の後には、もはや預言者は登場しないし、神は、ごく一部の弟子や後の大使徒パウロとなるサウロには現れ語ったと記されているが、もう人には何も語らなくなってしまう。
今もキリストの教会は教義をめぐって多種多様に世界中に存在しているが、旧約のように、神自身が人に直截語ることも預言者の口を通して何かを示してくれこともなくなってしまった。神の不在とか、神は死んだと言われる所以である。
ならば人は迷ったとき、道が定かでないとき、いったいどういう判断を下せば良いのだろうか。神には祈る。しかし、神は何も答えてくれないし、この世は次々と神の御心にかなうとは到底思えない最悪な事態が続していく。世界は破滅へと向かっていると考えるのは我だけではないだろう。
個人も然りだが、国家が選ぶ、その判断、選択は果たして本当に正しいのであろうか。それは取り返しもつかない誤り、失敗かどうかいつかはわかるのだろうか。
そして往々にして、結果が出たときは既に本当に取り返しがつかない事態になっているのではないか。
我々は祈っても何も答えを返してくれない神に祈るしかないのか。
「その日」は必ずやってくる。その日の前に死んだ者は幸運だったと思えるようなことが起きるその日、そのときがきっと来る。
長い冬を前にして ― 2016年11月26日 22時48分31秒
★夢も希望もないねって
雪は二日でほぼ消えた。まだ植え込みの日陰の隅にはほんの少し残っているが、記憶にもない、観測史上初の11月の積雪はあっけなく消えた。昨日はカラッと朝から晴れたので外は、終日溶けた雪が滴り落ちる音がしていた。
東京では、雪はこのところ年内に降ることはまずなく、降らない年もままあり、降ったとしても二月か三月、春先にどかっと降るものであった。
それがこうしてまだ紅葉の頃、落葉の前に積もるほど降ると、昨日など溶けていく雪を見ていると、このまま春になっていくような錯覚を覚えた。
しかし、まだ12月にもなっていないのである。冬はこれからが本番であっていよいよこれから本格的な冬が来るのだった。考えただけでうんざりする。
この感じでは今年は厳しい寒さの長い冬になるのではないだろうか。
このところ少しづつでも人生がやっとまた動き出したと思えていたのだが、昨日は、また体調悪くて、起きてられずブログも書けなかった。大して疲れるようなことは何もしていない。父と犬の世話だけで倦み疲れて、この寒さのせいもあるが、またメマイとふらつきがあって、犬たちと夜の散歩していたら、咳が止まらなくなって道端でげえげえ夕食に食べたものを吐いてしまった。
戻って、強い酒を流し込んで、また咳が出ないうちにと倒れ込むように寝てしまったのだ。
そしたら寝ながら突然こんな言葉が頭に浮かんだ。「夢も希望もないね」と。そう、ずうずう弁で呟いて、笑いをとったのは、東京ぼん太であったか。
そんな大昔の、とっくに死んだ芸人の言葉をなんで今頃思い出したのか訝しく思うが、確かに夢も希望もないのであった。困ったなあと思う。
以前も、若い時からもだが、大志というようなものは我になく、~だったらいいなあ、というぼんやりとした願望と思いつきはいくらでもあったが、将来的な夢とか希望と呼べるようなものは何もなかった。
が、やりたいことや行きたいところはいくらでもあったし、また、それが我にとって、役割だとかやるべき使命だとか思えたことも多々あった。
しかし、このところ母が死んでから特に、そうしたものはなくなってしまい、我を突き動かす「思いつき」でさえわかなくなってしまった。
何かに夢中になる、「情熱」というものが我が内になくなってしまったと気づく。かつての我には、何かに夢中になれる「情熱」だけは誰よりもおおくあったと自負している。それはバカだったからだが、なくなって利口になったとはとても思えない。
今は、ほぼすべてがどうでもいい感じで、無頼というのと虚無は違うと思えるが、虚しさと淋しさがカードの裏表のように、我が心の中で、カラカラと回っている。
父のことも含めてまだまだやるべきことは山積みだから、簡単に死ぬわけにはいかないが、我が身我が事ながら困った事態だと自ら思う。こんな気持ちだとうっかり迂闊に死んでしまうかもしれない。
今週中に病院に行けば良かったのだが、雪が降ったりあれこれ慌ただしくて週末になってしまったのだ。
むろん他人様とのことで果たすべき義理はいくらでもあるけれど、我において我に成すべきことはまだあると思いたい。
前回の続きも書くべきだったが、まだ咳が続いていて根気強くきちんと書けない。今晩もこのままお休みしようかとも考えたが、間が空くよりも現状報告だけしようと考えた。
この冬は生涯で一番長い冬になりそうで今から憂鬱だ。ささやかでも夢と希望をみつけたい。成すべき義務ではない、もっと楽しい、考えだけでワクワクして夢中になれるようなことを。
雪は二日でほぼ消えた。まだ植え込みの日陰の隅にはほんの少し残っているが、記憶にもない、観測史上初の11月の積雪はあっけなく消えた。昨日はカラッと朝から晴れたので外は、終日溶けた雪が滴り落ちる音がしていた。
東京では、雪はこのところ年内に降ることはまずなく、降らない年もままあり、降ったとしても二月か三月、春先にどかっと降るものであった。
それがこうしてまだ紅葉の頃、落葉の前に積もるほど降ると、昨日など溶けていく雪を見ていると、このまま春になっていくような錯覚を覚えた。
しかし、まだ12月にもなっていないのである。冬はこれからが本番であっていよいよこれから本格的な冬が来るのだった。考えただけでうんざりする。
この感じでは今年は厳しい寒さの長い冬になるのではないだろうか。
このところ少しづつでも人生がやっとまた動き出したと思えていたのだが、昨日は、また体調悪くて、起きてられずブログも書けなかった。大して疲れるようなことは何もしていない。父と犬の世話だけで倦み疲れて、この寒さのせいもあるが、またメマイとふらつきがあって、犬たちと夜の散歩していたら、咳が止まらなくなって道端でげえげえ夕食に食べたものを吐いてしまった。
戻って、強い酒を流し込んで、また咳が出ないうちにと倒れ込むように寝てしまったのだ。
そしたら寝ながら突然こんな言葉が頭に浮かんだ。「夢も希望もないね」と。そう、ずうずう弁で呟いて、笑いをとったのは、東京ぼん太であったか。
そんな大昔の、とっくに死んだ芸人の言葉をなんで今頃思い出したのか訝しく思うが、確かに夢も希望もないのであった。困ったなあと思う。
以前も、若い時からもだが、大志というようなものは我になく、~だったらいいなあ、というぼんやりとした願望と思いつきはいくらでもあったが、将来的な夢とか希望と呼べるようなものは何もなかった。
が、やりたいことや行きたいところはいくらでもあったし、また、それが我にとって、役割だとかやるべき使命だとか思えたことも多々あった。
しかし、このところ母が死んでから特に、そうしたものはなくなってしまい、我を突き動かす「思いつき」でさえわかなくなってしまった。
何かに夢中になる、「情熱」というものが我が内になくなってしまったと気づく。かつての我には、何かに夢中になれる「情熱」だけは誰よりもおおくあったと自負している。それはバカだったからだが、なくなって利口になったとはとても思えない。
今は、ほぼすべてがどうでもいい感じで、無頼というのと虚無は違うと思えるが、虚しさと淋しさがカードの裏表のように、我が心の中で、カラカラと回っている。
父のことも含めてまだまだやるべきことは山積みだから、簡単に死ぬわけにはいかないが、我が身我が事ながら困った事態だと自ら思う。こんな気持ちだとうっかり迂闊に死んでしまうかもしれない。
今週中に病院に行けば良かったのだが、雪が降ったりあれこれ慌ただしくて週末になってしまったのだ。
むろん他人様とのことで果たすべき義理はいくらでもあるけれど、我において我に成すべきことはまだあると思いたい。
前回の続きも書くべきだったが、まだ咳が続いていて根気強くきちんと書けない。今晩もこのままお休みしようかとも考えたが、間が空くよりも現状報告だけしようと考えた。
この冬は生涯で一番長い冬になりそうで今から憂鬱だ。ささやかでも夢と希望をみつけたい。成すべき義務ではない、もっと楽しい、考えだけでワクワクして夢中になれるようなことを。
もう大丈夫です。長い間ご心配おかけしました。 ― 2016年11月30日 05時47分30秒
★母は我が内で生きていると。
今月11月も終わる。9月8日に母が死んでから間もなく三か月。ずっとご心配おかけしてきたが、ようやく心の傷は癒えたと思えてきた。もう大丈夫だとはっきり思える。
今、明け方六時前。東の空はようやく白みだして来た。つい今さっき見た夢の中に母が出て来た。それは母が棺の中から生き返って来る夢だった。
葬儀会場ではない、どこだかわからないやや広いところで、死んで棺に納められた母の遺体にたくさんの母の友人たち、女のひとが寄り添いすがって泣いていた。
見ていたら、死んでいるはずの母の目から涙が出て来たかと思うとしだいに体が動き出して、皆はびっくりして大騒ぎとなる。夢の中でも死んでずいぶん経っていると思えるのにいきなり立ち上がったかと思うと、友人の一人を追いかけて、驚いたその人が逃げ回るのを母が生きていた頃とは比べ物にならないスピードで走って捕まえようとしている。
その場の騒動に我も驚き、半信半疑で、母を取り押さえて問いた。「ばあさん、生きているのか!」と。すると母は、元気にはっきりと、「生きているよ!」と答えた。そこでようやく喜びが沸き上がってきて、生き返った、ああ良かった!と思った。そこで夢は突然終わってしまった。
「現実」に戻りつつ~夢から醒めながら、でも母は生き返ってももはや身体がないことに思い至った。もう焼かれて骨になってしまったのだ。そして今のは「夢」だったんだとはっきりわかった。
でも泣きはしなかった。以前なら布団の中で「現実」に打ちのめされて、何十分も枕を濡らしていたことだろう。そして時計を見たら、午前五時半頃で、今見た夢についてしばらく考えた。
そして起きだして、このブログを書き記している。
母が死んでから初めて夢の中に母が出て来た。夢らしい夢をのんびり見ることも少なかったが、夢の中にはどこにも母はいなく、母の夢は一度も見なかった。
夢の中で生き返った母が言った言葉、「生きているよ!」という力強い声が今もはっきり残っている。久しぶりに母の声を聞いた。
母は死んだ。もう現実の世界にはとごにもない。昨日も母と親しかった人から電話がかかってきて、その後そちらはどうしてるかと問われたが、以前なら母の事を語ればすぐ泣いてしまったはずの我ももう泣くことはなかった。
ヘンな夢を見た。でも母は、夢の中で生き返って、我に生きていることを告げてくれた。今また実は少し泣きつつこれを書きながら、そう、母は生きている、我が内で、はっきりといつまでも生きていることを「認識」している。
これからも体調悪い時や、何かショックな出来事に遭えば我はまた弱気になろう。人生に意味を失い自暴自棄的にもなるかもしれない。
しかし、もう心は定まった。モヤモヤしていた頭もすっきりしてきた。母は死んだという現実を受け止められる。そのうえでしっかり生きて行こうと思う。母は死んだが、我の内に常に生きている。きっとこれからも夢の中に出てきて我を励まし見守ってくれることだろう。母は我が内で生きている。ならばもう大丈夫だ。我も生きなければならない。
今月11月も終わる。9月8日に母が死んでから間もなく三か月。ずっとご心配おかけしてきたが、ようやく心の傷は癒えたと思えてきた。もう大丈夫だとはっきり思える。
今、明け方六時前。東の空はようやく白みだして来た。つい今さっき見た夢の中に母が出て来た。それは母が棺の中から生き返って来る夢だった。
葬儀会場ではない、どこだかわからないやや広いところで、死んで棺に納められた母の遺体にたくさんの母の友人たち、女のひとが寄り添いすがって泣いていた。
見ていたら、死んでいるはずの母の目から涙が出て来たかと思うとしだいに体が動き出して、皆はびっくりして大騒ぎとなる。夢の中でも死んでずいぶん経っていると思えるのにいきなり立ち上がったかと思うと、友人の一人を追いかけて、驚いたその人が逃げ回るのを母が生きていた頃とは比べ物にならないスピードで走って捕まえようとしている。
その場の騒動に我も驚き、半信半疑で、母を取り押さえて問いた。「ばあさん、生きているのか!」と。すると母は、元気にはっきりと、「生きているよ!」と答えた。そこでようやく喜びが沸き上がってきて、生き返った、ああ良かった!と思った。そこで夢は突然終わってしまった。
「現実」に戻りつつ~夢から醒めながら、でも母は生き返ってももはや身体がないことに思い至った。もう焼かれて骨になってしまったのだ。そして今のは「夢」だったんだとはっきりわかった。
でも泣きはしなかった。以前なら布団の中で「現実」に打ちのめされて、何十分も枕を濡らしていたことだろう。そして時計を見たら、午前五時半頃で、今見た夢についてしばらく考えた。
そして起きだして、このブログを書き記している。
母が死んでから初めて夢の中に母が出て来た。夢らしい夢をのんびり見ることも少なかったが、夢の中にはどこにも母はいなく、母の夢は一度も見なかった。
夢の中で生き返った母が言った言葉、「生きているよ!」という力強い声が今もはっきり残っている。久しぶりに母の声を聞いた。
母は死んだ。もう現実の世界にはとごにもない。昨日も母と親しかった人から電話がかかってきて、その後そちらはどうしてるかと問われたが、以前なら母の事を語ればすぐ泣いてしまったはずの我ももう泣くことはなかった。
ヘンな夢を見た。でも母は、夢の中で生き返って、我に生きていることを告げてくれた。今また実は少し泣きつつこれを書きながら、そう、母は生きている、我が内で、はっきりといつまでも生きていることを「認識」している。
これからも体調悪い時や、何かショックな出来事に遭えば我はまた弱気になろう。人生に意味を失い自暴自棄的にもなるかもしれない。
しかし、もう心は定まった。モヤモヤしていた頭もすっきりしてきた。母は死んだという現実を受け止められる。そのうえでしっかり生きて行こうと思う。母は死んだが、我の内に常に生きている。きっとこれからも夢の中に出てきて我を励まし見守ってくれることだろう。母は我が内で生きている。ならばもう大丈夫だ。我も生きなければならない。
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