父のいない夜に2016年11月20日 00時30分46秒

★父、初めてのデイケアお泊りに

 淋しさなのか、疲れからなのか何か興奮してちっとも眠くならない。日付も変わって真夜中だが、ブログを書く。

 いろいろまたご心配頂いたが、我が人生も続けて、やり直すためにも「定点観測」の意味でもブログがないとならないと気づいた。
 もし、お一人でもこの拙い「覚書き」のようなものを楽しみにしてくれて、読み続けてくれる方がいるのだとすれば、有難いことだし、励みにもなる。そう、誰かは知らないし生涯会うことはないとしても、どこかで誰かが見ていてくれるのだ。まさに有難いことだ。どれほど祈っても何も言葉を返してくれない神よりもはるかに実際的ではないか。

 また、ゼロから再スタートだ、始め直したいとか書いた。が、それも大きな間違いで、実のところゼロではなく、今はマイナスなのである。
 つまり母の死で、この家はめちゃくちゃになってしまい、母が生きていた頃、元気だった頃どころか、死近く迄にも状況は戻っていない。
 今夏、癌が悪化して突然の高熱で救急車で搬送されて入院し、家に戻るのならば自宅介護のためには電動介護ベッドなど入れないとならないとされて、母が入院している間に、玄関わきの四畳半の板の間を空にすべく、そこにあったものを山梨の倉庫と化した古民家やこの家の廊下、二階の広間に「とりあえず」移動させた。

 山梨に運んだ分はともかくも、そんなわけで今二階の、かつては広く、イベントなどで客を招いたスペースも、様々なガラクタやオーディオ機器、本類等で足の踏み場がない。まずそうした場所を片付けない限り、ゼロにも、最初のスタート地点にも戻れない。まずはマイナスからまた元の位置へ戻していく。それからが本当のスタートなのだった。
 今年の23日までに、そうして再び、元の位置、ゼロに戻せるか正直わからない。が、ともかく目標を決めて、期日を設けて作業を進めない限り、いつまでもこのままでこれが常態化してしまう。その日までに片付きイベントができるか以前に、これでは身動きがとれず不便でたまらない。自分だってうんざりだ。

 結婚式とコンサートが重なり大忙しだった今日、いや、昨日19日が終わったので、もう今は年内何の予定もない。すべきことは父の介護だけだ。ならば、家の片付けに専念もできるし、その日誰も来ないとしても、我一人でもささやかに、ゼロに戻したお祝いをしみじみやるつもりでいる。

 その父だが、今晩は民家型デイケアにショートステイで泊まりに行ってこの家にいない。何だか不思議な感じがしている。淋しさは、常に煩い父が今ここにいないということもあるのだろうか。

 今年は春頃から、母と父が交互に入退院を繰り返していて、最悪の時は、夫婦二人して共に同じ立川の病院に同時に入るというW入院ということすらあった。
 だから、親たちが入院して、父と母のどちらかが家にいないということは常だった。しかし、母がいないときは父はいたし、父が入院していたときも母は家にいたので、数週間のW入院時を除けば親たちが二人ともいないことはなかった。また二人で病院に入っていた時も、病院という安全な場所にいるのはわかっていたから、不安も寂しさもなかった。彼らは今いなくてもやがては戻ってくるとわかっていたから。

 が、母が死に、この家から永遠にいなくなってしまい、父と二人だけの暮らしになってから、その父も夜いないことは一度もなかった。
 今晩初めて、外から戻ってきて、戸を開けて、ああ、父も誰もいないんだと気づいた感覚は、淋しさとはちょっと違うが何とも言えない空漠としたものであった。空虚といった方が近しい。むろん犬や猫は喜び歓迎してくれたけれど。
 父が母の後を追って死ねば、こうした感覚は日常的なものになるのか。誰もいない家に一人で帰って来る。やがてはそれにも慣れてしまうのかもしれないが、今考えただけでちょっと耐え難いように思える。
 人生とは究極、そうした孤独なものなのであろうか。

 我が夕方犬の散歩や買い物などで出かけて、夜暗くなってから戻ると、この家は、街灯から玄関から廊下、居間も台所もどこもかしこも灯がついている。父は裏の自室でまた電気つけて何かやってたりする。
 我は、電気代がもったいないから、そこにいるならともかく、いない部屋には明かりをつけるな、と何度も厳しく父に命じている。叱りもした。しかし、なかなか改まらないだけでなく、何故か夜外から帰ってくると我が家は庭先からどこも煌々と明るい。それは母が死んでから顕著だった。
 でも今晩、我は帰って来て、気がつけば父と同じように、玄関や廊下、あちこちに電気をつけまくっている。何でだろう?ああ、そうか、何で父は電気を付けてしまうのか、はたと気づいた。それは息子が居る時はともかく、いないときは不安で寂しいからなのだ。
 その淋しさ故、暗いのが無意識的に辛く、ともかく明るく電気をつけてしまうのだった。ならば父を叱るわけにもいかない。

 人を動かしているのは、喜びでも怒りでも哀しみでもなく、実は淋しさなのではないか。喜びなら満たされ、怒りなら爆発し、哀しみなら自失する。そこには持続的行動はない。
 淋しさだけが、何かでそれを埋めようと、人を過食や衝動買いや繁華街の出歩き、他者を求めたり、何かを集めたり固執したりメールや電話かけたりとアクティヴに走らせる。

 淋しい気持ちで、それを抱えて夜通し歩こうか。いくら歩いてもそれは変わりはしないだろう。しかし、もう季節は冬を迎える。夏向きだった生活の柄も変えねばならないのであった。
 それが人生を生きていくということだろう?

 父がいない夜は、一人で自由に何でもできる、のんびりできると思っていたが、淋しくて仕方ない。この淋しさはどこから来るのだろう。

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