死に行く者を死なせていく勇気を2017年03月06日 06時27分59秒

★半年が過ぎ、今年も新たに春が来て

 昨年9月の初旬に、母が急逝してから間もなく半年が過ぎようとしている。
 母のいない生活、老いてボケが進みさらに手がかかるようになった父との二人暮らしもある程度は慣れて来た。
 が、混乱は相変わらず続いていて、未だ人生再建途中どころか、しっちゃかめっゃかな状態、全てに収拾がつかない状況は相変わらずである。
 おまけに年明けから18歳となる老犬が弱って来て、父に加えてさらにその世話に煩わされるようになってきた。
 餌を食べなくなって痩せて弱り散歩も手がかかるようになっただけでなく、この冬は、玄関わきの小部屋に暖房いれて夜は寝かせているのだが、夜寝る前に散歩させても、ときに午前過ぎ、深夜、明け方、そして朝と、数時間おきに鳴いて吠え騒ぐこともあって、その都度起こされて外に連れ出しまた軽く散歩させ糞尿など済ませて寝かせたりもする。
 それではこちらも断続的にしか眠れないし、昼間もふらふらメマイや耳鳴りに苦しめられる。母の最期のほうも同様の状況となったから、人も犬も死ぬまでに、やたら手がかかるのは仕方ないのだと覚悟するしかない。
 犬が吠えてもほったらかしにしておけば、室内で糞尿を撒き散らしたり、部屋の隅に潜り込み抜け出せなくなって苦しがったりしていたりと、また面倒な事態となる。彼は紙パンツも履いていないし、まだ吠えて不調を飼い主に知らせてくれるだけ有難いと思わなければならない。
 我が父など、紙パンツ愛用するようになってからは常に垂れ流しで、こちらが交換させない限り外に溢れて漏れ出るまでそのままなのだから犬のほうがはるかにお利口さんなのである。

 そうした老いた者たちと暮らすのは正直疲弊する。中でもいちばん頭が痛いのは、食事のことで、いったい何なら食べてくれるのか、食べさせるのに毎回腐心している。そう、それは母のときもそうだった。
 以前も書いたが、我には痩せていくことに対して強い恐怖心があって、食べられず痩せて骨と皮になってしまい生命エネルギーの素である脂肪など蓄えが尽きた段階で、人も含め動物は死ぬのだと確信している。
 だからその恐怖と闘うためにもともかく食べさせないとならない。そうして母にもずいぶん無理強いした。そして今も父に、ときに怒鳴り、なだめ、懇願して食事をとらせている。
 が、動物は、言葉も通じないし、そのときどきの体調もあり、いったい何ならば食べてくれるのか毎食頭を痛めている。少しでも食べてくれれば安心するし、食べた分これで何日か生きられると思える。こちらの気もはれるが、何を与えても鼻もつけないと我まで食べる気が失せてしまう。そして犬も父もしだいに、じょじょに、少しづつ確実に痩せて弱ってきている。

 しかし、この頃になってようやく気づいてきた。老いて、もう食べられなくなる、食べたい気持ちがなくなってきたのならば、それも自然の摂理であって、それはそれとして受け入れるべきではないのかと。
 彼らはもう十分、存分に長生きした。そして最後のときが近づき、死に向かおうとしている。死ぬためには体の蓄え、貯蔵庫のエネルギーを空にしないとならない。よってしだいに食べなくなり、じょじょに確実に痩せてゆく。
 それが自然の流れだとすれば、介護者とはいえ、無理に食べろと無理強いすべきではないのではないか。それは結果として相手を苦しめることにもなろう。
 むろん、そうして痩せ衰えて死んでいくという事態を間近で見続けるのはとても辛い。やはり家族としては何としてももう少し持たせたい、一日でも長く生かしておきたい、願わくば再び元気にさせてもっと長生きさせたいと願う。
 母のときもそうだった。
 母自身の思いはわからないが、我は母が死ぬなんてまったく想定していなかった。何とか手を尽くし必死に看病すればもう少し持ち直して癌を抱えつつもまだまだ生きられると信じていた。そのためにも必死で食べさせようとした。我が手変え品替えて苦労してつくったものを食べてくれない母に憤ったことすらある。
 しかし、それは死に行く者にとって本当に良いことだったのか。今自問している。そもそも心得違いではなかったのか。

 人が老いてその死を、最後のときを迎えるのは決して悪いことではなく、ごく当然の、誰でも総てに起こる当たり前のことだろう。それは季節が繰り返していくようなことだ。
 新しい春が来るように、新しくこの世に生まれてくる者がいる。一方、時が過ぎ老いて死に至る者、新たに死んでゆく者もいる。それは季節が繰り返すことと同じく、永遠に続き繰り返すごく自然なことだ。
 ならばそれを受け入れなくてはならない。だが、我にはそれができなかったし、今でもまだなかなかそれは難しい。

 まず死を受け入れ、死んでいく者を死なせてゆく勇気がほしい。勇気とは覚悟であり、覚悟とは決意であろう。その決意のない者は、臆病者であり、畢竟、臆病は卑怯に通じるのだから、我はずっと卑怯者でもあった。
 そうした厳然たる自然の摂理をまず認めて受け入れていく。しかし、この弱く卑怯な我にはなかなかそれは難しい。
 そしてそれすらもまた建前とか本音ではなく、死に関連する厳然たる事実なのだと思える。受け入れねばならぬけれど、受け入れたくないのもまた人間の心なのだと。
 
 ただ願う。我に死と、死に行く者たちを死なせていく勇気を与えよと。