ほんの少しだけど「自由」が戻ってきた2017年12月29日 21時32分33秒

★我にとって「自由」とは

 新しい中古車は快適である。前のに比べればすべてが軽く、車内はコンパクトかつ無駄なく機能的で何の心配もいらず存分に使いこなせる。今、これが来てようやくまた「自由」が戻って来た気がしている。

 いろいろ手配してくれた修理工場の方からは、前の車を廃車にしてしまったので不便であろうと、軽だが四人乗りのスポーツ車を貸してくれていた。なかなかそれは走りは良かったのが、鼻面が長く、停める時や狭い道で方向を変える時などぶつけないよう気を使ったし、何より困惑したのは、後部座席の後ろ側には荷物おくスペースなどがほとんどなく、せいぜいスーパーの買い物した袋を乗せる程度しか空間がなかったことだ。
 これでは我のように本やガラクタ類を満載にして運送する者としては本当に困った。せいぜい後部座席の上に詰め込むしか方法はないわけで、いくらスピードで出てもともかく荷物が載せられないので「ダメだ、こりゃ」であった。

 そして今回、何とか年内のうちに、ついにまた前のと同タイプの荷物満載できるワゴン車が手に入ったわけで、今それで街を走っていて、そうそう、これだよこれ、これじゃなきゃ、という気持ちでいる。
 おそらく元の骨組み自体、躯体は、どれも同じものなのだろうと想像するが、我が前に愛用していたスバルのサンバーにせよ、スズキのエブリィにしろ(日産にも同種があるのだけれど名前失念)、このホンダのバーモスにせよ、細部に違いはあるけれど、どれも同じ大きさと作りで、鼻面がフラットでドアがスライド式なのも含めて全車皆兄妹、一族のようなものなのである。

 が、やはり各社それぞれ多少の工夫や内装のセンスの違いも確かにあるようで、今回のバーモスは、後部座席の椅子は、折り畳むと足元のほうにさらに下げて収納が可能で、まるで組み木細工のように畳んでフラットに収めることができる。よって、荷台も後部座席がないのと同じ状態にまで広げて使うことができることになる。だから、そうして後部席をしっかり格納してしまえば、車の中で大の男でも足を伸ばしてベッドのように伸び伸び眠ることも可能なのであった。
 今は冬だからそんな風に使うことは考えていないが、夏秋ならば、この車でどこか海や山でも行けば、そのまま自然の中に停めて車内で寝袋並べて宿泊もできるはずだ。前のサンバーは後ろ座席は倒すことはできてもフラットにはならなったので、車内で眠ろうととすれば、前の席で椅子をできるだけ倒して窮屈な姿勢で眠るしかなかったことを思うとこれは実に有難い。

 つまるところ我にとって車とは、スピード出してドライブしたり快適な走りを楽しむためのものではなく、基本常に移動と搬送のための手段でしかなく、いかにモノが詰め込められて、載せた状態でしっかり走ってくれるかだけが課題であり、このホンダのバーモスは実に及第点を得た。※それに加えて、広い荷台は、本や雑誌を分別したり紐で括るときの「作業台」でもあった。
 我のような仕事の者、あるいは小荷物を個々の家庭に宅配する業種の方々にとっても小型の軽車両で、しかも後部の荷台が広く、荷物がたくさん積めるこのタイプしか仕事では使えないのであった。

 またさらに嬉しいことは、この車にはカセットテープのデッキが搭載されていて現役で使用可能だったことだ。
 前のサンバーも旧い機種だったこともあり、そうしたカセットデッキは付いていたのだけれど、もう何年も前に壊れてしまいテープ聴けなくなっていた。我としては、このところのカセットブーム復活で、新商品でカー用カセットデッキの新製品が販売されていることを知って、近くそれを購入して交換しようと考えていた矢先、車自体が廃車となってしまったのである。ボーダイな我のカセットコレクションも、テープの中身を確認するのに一番の好都合は、運転中一つづつカセット再生させ聴きながら走るのが最適なのであった。またその楽しみも「復活」だ。
 クリスマスからは数日遅れてしまったけれど、我にとってこれは遅れて来たクリスマスプレゼントだったのだなあと今気づいた。 

 クルマの保険も自賠責以外の任意保険のほうも、車両入替ということで、そのまま面倒な契約しないで更新手続きもすぐに済んだし、おまけに保険料も数百円だが安くなるようで本当にウレシイ。
 これでまたいつでも好きなとき、時間さえつくれれば山梨の古民家へ、荷物満載で通うこともできる。また夏などは、登山に当たって、麓の駐車スペースでこの車内で仮眠とって車はそこに停めてそのまま夜明けと共に登山開始もできよう。

 たかが車であるけれど、この車が来たことで我はまた「自由」に、少しだけど自由が戻って、自由になれそうだと思えてきた。
 では「自由」とは何か、どういうことかと考えれば、我にとっての自由とは、好きなこと、やりたいことが好きなときに、好きなようにできる、ということに尽きる。
 そしてそういう状況、関係にあるときに、我は自由だという感覚が得られるし、その喜びにある。しかし、じっさいにそのしたいことをする、しないとしても、まだできなくても、できる状態にあればそれも「自由」であるわけで、当然お金もそうした自由のための手段ではあるわけだが、お金よりも前に、こうした具体的な自由のための道具、ツールが必要なのだと今気づく。
 前の車も決して悪い道具ではなかった。が、あまりに乱暴粗雑に扱い、無謀かつ無理に使いまわしてしまい結果として限界のときが来て廃車としてしまったのだ。

 ならば自由の手段であるからこそ、大事に大切に丁寧に扱わねばならないのだと今にして知る。そしてそれは何事でも同じで、自由というものは、じっさいのそれよりもそれ以前の、それができるという「可能性」も含めるのだとすれば、まずそのこと、その状態こそ大事にしていかねばならない。
 そう「憲法」も同じく、国民の自由と存在の権利を守るための手段なのだからこそ、枠組みとしてのそれをまず何より大事に守らねばならないのである。