マス坊、ヤフオク参入の記・4~カバーポップスの時代について2018年05月22日 23時45分23秒

★カバーポップスの時代について少しだけ

 先日亡くなった西城秀樹の最大のヒット曲は、「ヤングマン」、件のビレッジ・ピープルの「YMCA」の日本語版だと断言しても異論はあるまい。
 昔は、というか、かつてはこうした外国の曲に、独自の「日本語詞」をつけてヒットする曲がたくさんあった。そういう時代があったことを知る者も次第に少なくなってきているかもしれないので記しておきたい。

 今は、インターネットで、世界中の音楽がたちどころに聴くことができる。良い便利な時代になったと思う。まさにワールドワイドである。
 昔は、海外からの情報の入って来るのが当然遅く、しかもその情報量も少なかったわけだが、それでも音楽の世界は、かなり早く、向うの流行、ヒット曲は日本に入って来ていた。それは戦後から1960年代にかけてのことだ。
 が、その楽曲をそのまま原曲のまま流すことはせず、元々は洋楽でありながら、日本で独自の日本語詞をつけて、日本語で唄い、それがテレビやラジオから流れてその日本語盤がヒットするという現象が起きていた。件の西城秀樹のそれはその流れのシンガリともとれる。
 そして今でも不思議に思うのは、今日では洋楽というと英米のそれ一辺倒になってしまっているが、当時は、アメリカはもちろんのこと、イタリアやフランスなどのまさに欧米のヒットも日本に影響を与えて、イタリアのサンレモ音楽祭での入賞曲がそのまま日本でも日本語詞でまた即ヒットするということは多々あった。
 今でもその音楽祭はあるのか定かではないが、今から思うと「洋楽」の幅は今よりずいぶん広く何でもありだったのだと気がつく。
 昔は情報量が少なかった分だけ、世界の動向に誰もが敏感で、特に音楽業界は新たな洋楽からのヒット曲を生み出すことに腐心していた。

 当時も日本には演歌ではない歌謡曲はあった。ただそれは「流行歌」として括られ、青春歌謡と銘打ってもどこかマイナー調で洋楽の持つあっけらかんとした明るさに欠けていた。そして当初はそうしたポップスは日本人で作れる人は少なかったという事情もある。
 そうした海外のヒット曲の日本語版、今はカバーポップスと称されている楽曲を当時のアイドル歌手たちが唄い流す番組もテレビラジオに多々あり、中でもメインは「ザ・ヒットパレード」という日テレのそれで、幼い我は夢中になって「可愛いベイビー」を始め「ロコモーション」「砂に消えた涙」などなど唄い覚えた。今でもそれらは歌詞カードなくても日本語詞はすらすら唄うことができる。まさに懐かしい思い出で、原曲のそれが偶然流れてくるとつられて、日本語の歌詞がまず思い浮かぶ。

 ただそれも60年代も半ばとなるとビートルズなどの英米のロックバンドが台頭し、リズムが早くなってしまうと日本語詞は乗せるのは難しくなり、「日本語で唄う洋楽」というのは消えてしまう。
 その日本語詞も今思うとまさに「超訳」や、まったく別な歌詞を独自につけたものだが、今でも実にびったし違和感なく外国の曲なのに日本語のうたになっている。中川五郎ばりの巧みかつ高度な技術である。
 
 さておき、そうしたカバーポップスを多くレパートリーにしていたのが、先に挙げた歌手以外ではスリー・ファンキーズであり、ダニー飯田とパラダイスキングであった。