世界はまた新たに変わる~「その時」に備えていけ2020年08月24日 11時54分10秒

★2020年コロナの夏、灼熱の猛暑と不穏・妄動の父と

 ようやく季節が動き出した。処暑の23日、日曜から曇りがちとなり北よりの風が吹いて気温も少しだけ下がって来た。
 今日、24日の月曜。晴れると日中はまだまだ暑いが、先週までのような35度を超す、耐え難い灼熱の暑さは去ったようだ。
 ようやく季節は秋へと動き出し、久しぶりにこのブログを記す。

 何か一段落したとか、片づいたので時間ができたからというわけではない。9日の国立でのイベントが終わってから、ともかく暑さと家事雑事に追われ日々何とか乗り切るだけで青息吐息、精いっぱいだった。普段使いのパソコンの調子も悪く、正直ブログも書く気がしなかった。
 書けばまた「近況」として愚痴めいたこと、読み手に取って意味のないことしか書けない状況だった。

 そしてこの間必死に、溜まりに溜まった古本を一冊ごと新パソコンでAmazonでの価格を検索、売値として600円以上の価格がつく本は、即マーケットプレイスで「出品」し、それ以下の値しかつかないもの、つまりウチで売れない本はともかくサイズごとに処分用の箱に詰めていった。
 そうした不要本、処分廃棄する本の箱が今現在10数箱できた。これらの本はもう一度最終的にほんとうに捨てるか個別に確認してから市の紙ゴミ回収の日に出す。たぶん九割がた破棄すると思う。

 お気楽トンボの我もこのところさすがに焦って来た。このままだと何もできないうち、何一つきちんと完成できないうちに、終わりのとき、破滅のときを迎えるのではないかという怖れを強く感じる。
 何であれモノ好きで、モノは捨てずにただひたすら溜め込んできた。食べ物から本、レコード、楽器類、オーディオまで、自分の関心と欲望のおもむくまま、そうしたものを集めてきた。いや、モノは向うからもやってきた。
 
 かの、みうらじゅん氏のようにそれらをきちんと管理保存、分別整理していければそれはガラクタであろうとも意味と価値を持つ。が、我はただ集めては、いや集まって来たものは、そのままほったらかしにして管理なんて一切できなかった。だらしなさの極致、性格異常というべきか、それはたぶん病的なものなんだとも思える。
 亡き母も片付けられない症候群だったし、そういう性質の者は、本来モノなど増やしてはいけなかった。が、我はかなり広い家があり、部屋数も多かったから、空間さえあればそこにモノをともかく詰め込んできた。
 何とかしないと、今度時間が出来たら、暇ができたらと今度こそ腰据えて、と常に思う。が、そんなときはいつまでも来ない。常に日々の雑事に追われ、日々成すべく目先のことだけ処理するのが手いっぱいで、その溜まりに溜まったモノの山に手をつけることはできなかった。
 いや、少しづつは片付けてはいる。が、牛小屋の掃除と同じく、生きていれば、日々また新たに本にせよ何であれモノはまたさらに増え続ける。結局のところ、処理する量よりもさらにまた増加する量が上回り、山梨の倉庫さえもとうとうほぼ満杯になってきてしまった。
 単に移動させているだけでは片づけたことにはならない。総量はちっとも減りはしない。時間の無駄である。
 さて、どうするか。

 以前の愚かな我ならば、また新たにどこかに倉庫など借りてそこに溜まった、入りきらない物を押し込んだかもしれない。が、さすがに気がついた。それでは何も解決しない。そして確かなことは我の時間はもう残り少なく、このままではその溜めたモノの山塊を残して近く死んでしまうかもしれないではないか。
 近親は、九州の妹とその息子の甥っ子だけだから、おそらく彼らは、我の死後この家を売り払い、その金で業者に一切合切ゴミ屋敷の遺品処理を丸投げし我の集めたモノはすべてゴミとして処分されて雲散霧消するだろう。
 つまり我は、生涯かけて良いモノも悪いモノも、価値あるものもないものもともかく膨大に集め続けて、溜めに溜めてそれだけで死んでしまった人ということになる。それで良いのか。そこに意味があるか。そんな人生に価値があるか。

 このコロナ禍の、行動自粛期間中に、多くの人たちが家庭待機を余儀なくされ、様々なことを考えさせられた。新しい生活様式以前に、ともかくコロナが終息しない限り、当面は、かつての生活、生き方に戻ることは望むべくもない。
 我は基本居職で、コロナ流行に関係なく基本的にかねてより「引きこもり」生活をしていたから、今さら「新様式」も関係ないのだが、それでもやはり「これから」について考えさせられた。
 今我は、60代半ばになろうとしているわけだが、それでも身体はあちこち疲弊し、腰痛やふらつきは慢性化し先のコトを思うと本当に不安になる。
 周りには、御大中川五郎氏を筆頭に、70代に入っても超元気な人たちがいっぱいるが、我も70代に入ったとき彼らのように元気に動きまわれる自信はまったくない。
 思えば彼らは60代のときから元気であったからそのまま今も元気なのだと気づく。今、じっい体調不良の我が、70代で元気になるはずは絶対ない。下手するとこのままなし崩し的にあと数年で死んでしまう可能性のほうが高い。

 ノンキ、能天気にお気楽に生きて先のことはあえて考えないようにしてきた我でもさすがに考えた。このままでは本当に大変なことになる。ともかくモノをなくしていくしかない。一切もう新たに増やさないとか、断捨離などできるはずもない。だからこそ、いまあるモノを無くしていく。減らしていく、その努力を実際にしていく。

 私事だが、この八月は自分の誕生日があり、九月には母の命日、そして10月には父の誕生日がある。父は何とそれで96歳になる。
 そんな超高齢な人と共に暮らした経験はおそらく誰もないだろう。そしてそんな老人を介護する大変さはまさに辛酸佳境に入るとしか言いようがない。下の世話のことなど書きだせばキリがないが、読み手にとってそれはちっとも楽しいことでもほほえましくもない。※先日も夏バテ防止に高いうな重を買ってきて食べさせたら何故か食欲もなく、無理強いしてたらほぼ全部吐き戻してしまった。
 さらに先週は、そこに「不穏」が起こった。このところの暑さもあって涼しい部屋で昼寝ばかりさせていたからだが、眠りが浅く深夜、明け方に起きて騒ぐことが続き鍵かけた引き戸を外して玄関すら開け放すひと騒動あった。

 我が午前3時に目が覚めて、階下の父の部屋を見たらば明かりが煌々とついて部屋も玄関も開け放たれている。すわっ、また父が外へ徘徊してしまったかと慌てたが、父は幸いベッドの中に眠っていた。
 叩き起こして叱りつけても当人は何一つ覚えてもいないし、まさに無意識でそうした「妄動」をしてしまう。いくら言い含め叱りつけても効果はない。
 ただそのときの問題は、父の部屋で室内飼いしていた三本脚の障害者猫が、開いた玄関から外に逃げだしてしまい、確保するのに一苦労したことだ。足切断という大事故の治療費が総額50万もかかった猫で、まだ未払い額が18万円ほど残っている。ここで失踪してはほんとうに困る。せめて借金終えてからにしてくれ。
 幸い真夜中に名前を呼んで探し廻っていたら、猫は自ら帰宅してくれたから安堵したが、まさに父が在宅のときは気を緩めてはならないのだと改めて気を引き締めた。
 我は眠りが浅く、寝ていても下の物音に耳を澄ませているのだが、そのときは、あまりの暑さに枕元に小型扇風機をかけっぱなしにしていて、その音で下で父が起きて騒いでいたことに気がつかなかったのだ。

 そんな父を即介護施設に永久入所させたらという進言をよく頂く。そうできたら我も枕高くして眠れると思うが、いずれにせよもはや先は長くないのである。この夏は何とか越せたとは思うが、来年の夏などまったく見当もつかない。
 何とかこの秋を無事に過ごして来年の正月が迎えられたら最良だと思うぐらいで、現在のように週の大部分を通いとショートで介護施設に行ってくれたら今のままで良いのだと我は考えている。
 嫌でも終わりの時は早晩やって来る。父が帰って来て在宅の日は何一つ自分のことはできやしないが、それも週二日程度のことなのだから、その日、そのときまで今のペースでやっていくつもりだ。それは明日かもしれない。

 先日のぼけまるの「生前葬」で強く思ったが、ともかく全ては生きている間のことなのだ。
 人はいつか必ず死ぬ。死んでからできることなんて何一つない。ともかく今、父が生きているうち、我もまだこうして生きて動ける間に、少しでも溜まったものを片づけ、減らしてなくしていく。
 死ぬまでにしたいいくつかのこと云々、という題名の本や映画があったと思うが、「したいこと」よりもともかく生きている間に、なすべきことを一つでもやっていく。減らしていく、片づけていく。

 コロナの時代も永遠には続かない。次の新たな時代、新しい世界へ備えていこう。

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