我が最後のイベント、最後の企画にどうかご参加ご協力を ― 2025年04月06日 23時41分57秒
★4月27日(日)、もう一回だけまた昭島でやります。
ようやく体調は戻ってきた。というか、小康状態で、この先のことは何とも言えない。
いま、ちょうど桜が満開である。その花を眺め見上げては、今さらだが、新しい年の新しい春が来たとしみじみ感じている。
何とかまだ生きている。
先にもちょっと載せたが、今月末の日曜、4月の27日に、また昭島で、フォークソングとフリマのイベントを企画している。
毎度のことだが、犬も我も体調悪かったりしてたので慌ただしくて取り組みがまたもや遅れてしまい宣伝告知もままならない状況だが、ともかく第3回目をこれまでと同じく空き家となっていた社員寮ビルのホールで開催する。
前回のときは、一回目よりも参加者もお客も少なくて、イベントは大失敗となったわけだが、懲りずにもう一回だけ企画して、やはり同様の状況ならばたぶんこれで最期となるかと思う。
個人的には、地元でこうしたイベント企画を続けていきたいと願う気持ちは強いが、我個人でやっていくには、体力的にも経済的にも時間的にももはやそろそろ限界に思えてきている。
気持ちとしては、どこでやるにせよ、不特定多数の人を集めるこうしたイベント企画は、もうこれで終わりだろうとそんな気持ちでいる。
そして、音楽との関わりにおいて言えば、盟友太田三造の初CDを何をさておきまず完成させてその先のことは何も考えていない。
たぶん、古本屋に戻らなくても本に囲まれて、誰にも会わずにでかけずに在庫処分というか、ひたすらたまりに溜まってしまった物ものを処分・片づけに専念して残りの人生を費やすべきかと考えている。
今日、大学時代の友人の訃報が届いた。学生時代はとても仲良く、彼の下宿のみならず実家にも遊びに行ったほど親しかった友だ。
が、近年は疎遠となり、もう十数年音信不通だった。だいたい我には今も連絡とってる学生時代の友は数人しかなく、同窓会的な集いや連絡網はないので何も誰も一切連絡してこない。※まして、こちらから連絡とろうとすると、もう連絡してくるな、というメッセが逆に届くほどに。
年下の後輩から、もうご存じのことだと思うけど、という前起きのメールが今日来て初めて知った。闘病中だったことも何一つ知らなかった。
こうして櫛の歯が欠けるように、一人ひとり死んでいく。我も近いうちに
我は、若い時からこれまで野放図に好き勝手、自由気ままに生きてきた。が、親たちもいなくなり、その保護下で許された自由だったのだから当然行き詰った。
そして今、どうにもならなくなった人生に今更ながら向き合い、もう一度人生をやり直す、というべきか、きちんと生き直す、取り戻したいと強く願い思っている。
世の人ならば、もはや悠々自適の余生の齢になってからだ。笑い話にもなりゃしない。
玉手箱を開けた浦島太郎のその後の人生はいったいどんなだっだろうか。海の底で遊び惚けて気がついたら老人になった太郎は、それから先もどんなふうにどれだけ生きたのか。
我もまた「その先」、いや、この先について今さらながら真剣に考え始めている。
ともかく我の最後のイベント、4月27日、何とか盛況・成功させて幕を下ろしたい。また無能と非力さの苦い味は噛みしめたくないが・・・
お時間のある方、どうかぜひご来場お願いします。
ようやく体調は戻ってきた。というか、小康状態で、この先のことは何とも言えない。
いま、ちょうど桜が満開である。その花を眺め見上げては、今さらだが、新しい年の新しい春が来たとしみじみ感じている。
何とかまだ生きている。
先にもちょっと載せたが、今月末の日曜、4月の27日に、また昭島で、フォークソングとフリマのイベントを企画している。
毎度のことだが、犬も我も体調悪かったりしてたので慌ただしくて取り組みがまたもや遅れてしまい宣伝告知もままならない状況だが、ともかく第3回目をこれまでと同じく空き家となっていた社員寮ビルのホールで開催する。
前回のときは、一回目よりも参加者もお客も少なくて、イベントは大失敗となったわけだが、懲りずにもう一回だけ企画して、やはり同様の状況ならばたぶんこれで最期となるかと思う。
個人的には、地元でこうしたイベント企画を続けていきたいと願う気持ちは強いが、我個人でやっていくには、体力的にも経済的にも時間的にももはやそろそろ限界に思えてきている。
気持ちとしては、どこでやるにせよ、不特定多数の人を集めるこうしたイベント企画は、もうこれで終わりだろうとそんな気持ちでいる。
そして、音楽との関わりにおいて言えば、盟友太田三造の初CDを何をさておきまず完成させてその先のことは何も考えていない。
たぶん、古本屋に戻らなくても本に囲まれて、誰にも会わずにでかけずに在庫処分というか、ひたすらたまりに溜まってしまった物ものを処分・片づけに専念して残りの人生を費やすべきかと考えている。
今日、大学時代の友人の訃報が届いた。学生時代はとても仲良く、彼の下宿のみならず実家にも遊びに行ったほど親しかった友だ。
が、近年は疎遠となり、もう十数年音信不通だった。だいたい我には今も連絡とってる学生時代の友は数人しかなく、同窓会的な集いや連絡網はないので何も誰も一切連絡してこない。※まして、こちらから連絡とろうとすると、もう連絡してくるな、というメッセが逆に届くほどに。
年下の後輩から、もうご存じのことだと思うけど、という前起きのメールが今日来て初めて知った。闘病中だったことも何一つ知らなかった。
こうして櫛の歯が欠けるように、一人ひとり死んでいく。我も近いうちに
我は、若い時からこれまで野放図に好き勝手、自由気ままに生きてきた。が、親たちもいなくなり、その保護下で許された自由だったのだから当然行き詰った。
そして今、どうにもならなくなった人生に今更ながら向き合い、もう一度人生をやり直す、というべきか、きちんと生き直す、取り戻したいと強く願い思っている。
世の人ならば、もはや悠々自適の余生の齢になってからだ。笑い話にもなりゃしない。
玉手箱を開けた浦島太郎のその後の人生はいったいどんなだっだろうか。海の底で遊び惚けて気がついたら老人になった太郎は、それから先もどんなふうにどれだけ生きたのか。
我もまた「その先」、いや、この先について今さらながら真剣に考え始めている。
ともかく我の最後のイベント、4月27日、何とか盛況・成功させて幕を下ろしたい。また無能と非力さの苦い味は噛みしめたくないが・・・
お時間のある方、どうかぜひご来場お願いします。
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