「物」に価値とこだわりを持たない時代に・中2015年03月03日 09時18分56秒

★「物好き」の時代に生きてきて            アクセスランキング: 127位

 子供の頃、ちょっと裕福な友だちの家に遊びに行くと、応接間なるものがあり、そこは洋室、板張りで、ソファーと小テーブル、壁にはたいがい大きなガラス戸の付いた本棚があり、中には百科事典のセットや内外の文学全集が整然と並んでいたことを思い出す。
 また、それ以外にも巨大なオーディオシステム、レシーバーを真ん中に、左右の木製の大きなスピーカのセットがどんと鎮座し、ラテンや映画音楽のLPレコードを聴かせてくれた家庭もあった。

 ウチは、貧乏でおまけに共働きであったから、そんな「応接間」などなかったので、そうした大きな本棚に並んだ厚い本の全集や巨大オーディオセットに子ども心ながら憧れた。圧倒的な存在感がそこにあった。

 じっさい、今考えると、その家の人たち、特に主の方が、そんな全集や百科事典をどれだけ読み、有効に活用していたか怪しくも思う。古本に携わるようになって気がついたが、文学全集とは揃えて並べるためのもので読むためのものではないのである。確認するとまず読まれた形跡がない巻がほとんとであった。というのは、全集付き物の月報などもそのまま手つかずで挟まっていたから。レコードだってほぼ同様であろう。

 しかし、その時代の人たちは、そこにそれがある、ということに価値を見出し高い金を払ってそれらを買い求めたのだ。つまりある時代の富裕層には、自分の家を建てたら玄関わきに応接間を設け、そこには、読まないけれど本棚には全集を並べ、あまり聴かないけどオーディオセットを置くのがステータスなのであった。

 今はそんな人はまずいない。家を建てられても必要最小限の間取りとなろう。そんな無駄な部屋の分のスペースがあれば各々の子ども部屋か、妻にねだられDKを広くとる。いや、狭い庭でも駐車スペースは必ず設けなければならない。植栽などはまったく不要だ。
 応接間どころか、そもそも今は家に客など招かないのだ。人が来ても玄関先で立ち話ですますか、親しい人なら近所のファミレスに案内する。そういう文化、ライフスタイルにいつしか日本人は変わってしまった。

 戦後の歴史、それも庶民の生活文化をたどると、暮らしを大きく変え便利にした電気洗濯機、冷蔵庫、テレビなどの家電、つまり庶民が求めた元祖三種の神器から、クーラー、自家用車まで家庭に入ってきた様々な「モノ」の変遷であることに気づく。
 今ではどこの家でもそれがあるのが当たり前だから、つまり標準装備、デフォルトの状態であるので誰もそれがあることに価値を見出さない。車は別格としておまけにどれもとても安くなった。使って調子が悪くなれば捨ててまた新たに買い求めればよい。経済成長が続く限りよりハイスペックの物がより安く買えるのだから。

 家電も含めて、たいがいのモノは消費財に過ぎない。実用性だけが求められモノの価値はそこだけとなる。使わないモノを置いておく、保管する意味などはない。何しろ家庭にはモノがあり過ぎて場所がない。まだ使えても使わないものはすぐにゴミとして捨てねばならない。

 思うに、昔は、昔の人たちはモノが高かったということもあるが、実にモノを大事にしていたと思う。壊れたら何度でも修理して使っていた。手元にあるモノの価値を認めていた。モノを大事にし大切に使っていたと。
 まあ、今のそうした家電類は、そもそも最初から安物で、壊れたら修理に出す代金と、新たに同様のそれを買い求めるのと大差がないことがフツーだから、ますますモノとしての価値は低くなる。それが現代文明の道筋、流れなのだともわかる。それは変えられないことも。

 だが、昔を知る者として、昔の人は実に「物好き」であったと感慨がわく。モノがあること、その存在に価値を認めていた。読まない文学全集にも場所を与えたほどに。そして今もまだ現役の物好きである自分は、「物」に価値を持たない、何もこだわりを持たない今の世相を嘆く。
 モノを大切にしよう、なんて言っていない。モノとその人、その人生とはもっと密接に結びついていたはずだし、その関係性が今はあまりにも稀薄ではないかと憂いているだけだ。