大変じゃない人生なんて無い。2015年03月29日 08時29分19秒

★今、苦難のときにある友たちへ             アクセスランキング: 154位

 3月も終わりに近づいた。
 このところ連日穏やかな春のぽかぽか陽気が続いている。日中は強い陽射しに汗ばむほどだ。桜もちらほら咲き出した。街角の植え込みには花が咲き乱れ、土のある空地には土筆も伸びだしている。

 今年もいつものように、当たり前のこととして春が来た。春は春の用事も山ほどあり、懸案のことと重なってともかく忙しいが、なにはともあれ無事に2015年の春を迎えられたことは喜ばしい。
 果たして来年もまた我が家は老親そろってもう一度新たな春を迎えられるか不安にも思うところがあるが、先のことを思い煩うよりもまずは一日一日大過なく慈しむように過ごせればそれだけで良しとしようと思っている。
 先のことはまったくわからない。良いことも悪いことも人知のところではない。ただ受け入れていくしかない。そして今つくづく思う。さまざまな大変なときに今ある友の苦境に、我は何をなすべきか。何ができるかと。

 知人の中には、今、定年後、子育ても終え夫婦で内外問わず旅行に出かけたりまさに悠悠自適の優雅な暮らしを満喫している人もいる。彼らにとって金の工面ややりくり、生活苦なんて無縁であろう。
 そんな環境は、我にとって生涯無縁のものであり、そうした報告を訊くと、ときに妬ましくさえ思えるが、それもまた若いときから長年真面目に勤め上げ、ときに苦難の時も乗り越えて今があるはずだと推測する。また、今はそうした楽しいひと時を夫婦で過ごしてはいても、やがてはこの先どらかかが病に倒れたり家族間においても不慮の事故など起きるかもしれない。
 幸せのカタチは人それぞれだし、一見外からは幸福そうに見えたとしてもその実、それぞれ家庭内や個々の内側では地獄を抱えていることも多々ある。
 大変じゃない人生なんて存在しない。もし、楽に、何の苦労も悩みもなくこれまで生きてきたとするのならやがては必ずそのツケ、年貢を納めるときが来ることは間違いない。

 旧約聖書の中でももっともユニークで、文学的にも優れ面白いのは『ヨブ記』だと多くの人が認めるところだが、ご存知であろうか。

 その話は、神を深く信仰する義人ヨブに起きた突発的不幸に関しての顛末で、神はあるときサタンに唆され、ヨブに耐えがたい苦難と不幸を与えて彼を試す。たくさんいた家族と多くの財産は事故や病気で失い、自らも腫物で全身を覆われ、友にもその姿が見分けられないほどヨブは苦しみのどん底に落とし込められた。そしてあろうことか見舞いに来た友たちすらも彼を励ますどころか否定し激しく非難するのである。こんな目に遭うのはお前が悪いことをしたからに違いない。お前は何様かと。

 が、彼は神を呪う言葉は何一つ吐かずひたすら苦難に耐えていく。そしてなおもこうも語る。「我々は神から幸いを受けるのだから災いをも受けるべきではないか」と。
 全てを失ったヨブの言葉、「わたしは裸で母の胎を出た。また裸でかしこに戻ろう。主が与え、主がとられたのだ。主のみ名はほむべきかな」という言葉にどれほど多くの人が救われたであろうか。

 義人ヨブに起きることならば罪深い我々にとっても常にいつ何どきそうした苦難の時が来たとしても当然であろう。そしてそのとき、人がなすべきことは、ヨブを非難した友の立場に身をおくのではなく、ただヨブに寄り添い、励まし支えることだと我は考える。
 
 そう、良いことも悪いことも幸福も災いもただ受け入れていくしかない。神を呪うことはたやすい。また人を非難し否定することも。大変な時こそ、実は当人だけでなく誰もが試されているのである。ヨブ記が示すところは本当に深い。そして苦難の先に待っている、見えてくるものがあると信じよう。それはきっと良いことだと。

 良寛和尚も言っている。「災難にあうときは災難にあうがよろし」と。