うた仲間、音楽友募りたい ― 2015年03月23日 22時24分35秒
★共に歌ったり音を出したりやる仲間募集します。 アクセスランキング: 126位
昨日、久しぶりにマイユニット、みほこんずのメンバーが集まって少しだけ演奏やってみた。あの11月30日から全員が揃うのは初めてであり、音出しも当然ながら三か月半ぶりとなる。
再び活動続けることも確認できたことは何より喜ばしかったが、何といっても楽器を持ちよりレパートリーを再演したりセッション的に合わせるだけでもとても楽しかった。むろん皆で一緒に歌うこともだ。皆で音楽を演る楽しさを味わった。
音楽というのは、基本は個々の個人がそれぞれ練習しその成果なり精進ぶりを示すものであるけれど、本番のそれよりも一番楽しいのは、集まってわいわいがやがや騒ぎながらじっさいに皆で音出して歌って曲をカタチにしていくことだといつも思う。
本番はその成果、最良の結果を人前で出せればただ良いだけで、そこには満足感は得られたとしても楽しみはあまりない。うまくいかなくても練習という行為こそ音楽をつくり上げて行く共同作業で、個人的にはいちばん好きだ。
逆に一番つまらないのは、一人でギター弾いて誰もいないところで練習のために歌うことで、むろんそれこそ大事かつ必要な基本行為なのだが、三回ぐらいやるとすぐ飽きてしまう。ちっとも楽しくも何ともない。
そして実際に揃って久々に音出した後、溜まっていた倦んだ気持ちや淀んだ悪い想念のようなこれまで抱えていた鬱々としたものが消えてしまったことに気がついた。音楽、聴いたり一人でするのではなく、それも皆で演る音楽こそが気分を変え人を元気にさせることだと思い至った。
ただなかなかメンバー全員で揃うことは難しい。我はともかくみんな忙しくてスケジュールが合わない。ならば、某真黒毛ぼっくすのように不定形の楽団として活動するという手もあると気づく。じっさい敬愛するさこ大介さんの大介バンドだって、フルメンバー揃っての練習やコンサートは年に数回でしかない。たいがいは二人、三人単位のユニットで演っている。
ビートルズは四人そろわないとビートルズではないが、それはプロとして活動を求められたからであり、そもそも音楽の形態はもっとゆるく自由であってもまったく構わないはずではないか。
共に音楽をやりたいと思う者ならば、楽器が何か一つでもできなくてはならないということも必須条件ではないと考える。楽器なんかできなくてもうたったりコーラスつけたり、足踏みや手拍子するのだって音楽の行為には違わない。あるいはただそこにいて聴いたり意見してくれることだってメンバーだと言えるのではないか。
今まで何かをやることは、どこであれやはり何かの条件や約束、契約のようなことがまず前提にされてきたと思う。つまりギター教室なりワークショップやると発表し宣伝すれば、その参加者には相応の義務とやる気、責任のようなものが求められたし、こちらもやはり求めていた。
しかし、それは前提条件ではない。音楽と音楽の場があることが前提であり、関わり方はじっさいどうでも良いことであった。つまり、もともとプロでもないし、金とっての商売としてやっているのではないのだから、もっと自由に、良い意味でルーズであって何が悪いのか。
つまり皆忙しいのなら、来る者は拒まず来ない者はそれで良し、去る者もまたかまわないというスタンスでやるのが誰にとってもいちばん楽だろう。
昨日久々に皆で揃って少しでも音出し練習やってそのことに気がついた。誰でもかまわない。音楽なんかやったことなくてもかまわない。もし楽器ができるようになりたいのなら基本的なことなら教えもするし、多少の知識もある。アドバイスもできるかもしれない。
問題ひとつ。そうしたこと、歌ったり聴いたりする音楽が好きであってほしいだけだ。年齢も経験もいっさい関係ない。
『バンドメンバー募集』 と記すと、それなりの本気さやレベル、経験も関係してくる。でもそんなことは大事だとは考えない。集まってわいわいがやがや音出すのが、歌うことが楽しく好きかどうかということけだ。
幸いウチにはギターだけでなくキーボードやウクレレなどもある。それらは人に教えることはまだできないが、まずこの我から練習続けて多少は弾けるようマスターしていきたい。
夢はいろんな楽器を持ち寄って、スタンダード曲をセッションして回すことができるような仲間たちが揃うことだ。二ユーロストシティやディキシーズ・ミッドナイト・ランブラーズのような形態の即席バントができないものか。
考えてみれば高田渡がやりたかったことは、若き日の武蔵野たんぽぽ団しかり、ヒルトップもしかり、ずっとそうした形態の音楽、セッションバンドであった。今更ながら亡き人の思いというか気持ちがわかってきたということになる。
焦りも急ぎもしない。音楽は逃げやしない。ただ少しでも歩を進めていくことだ。新たな出会いもあるだろう。巧い下手は関係ない。まず出会いがあり関係が続きそしてその先に見えてくるもの、辿りつく場所がある。
無頼庵のこれからの活動方向がようやく見えてきたような気がしている。どなたでも来られて音楽活動を一緒にやりませんか。
昨日、久しぶりにマイユニット、みほこんずのメンバーが集まって少しだけ演奏やってみた。あの11月30日から全員が揃うのは初めてであり、音出しも当然ながら三か月半ぶりとなる。
再び活動続けることも確認できたことは何より喜ばしかったが、何といっても楽器を持ちよりレパートリーを再演したりセッション的に合わせるだけでもとても楽しかった。むろん皆で一緒に歌うこともだ。皆で音楽を演る楽しさを味わった。
音楽というのは、基本は個々の個人がそれぞれ練習しその成果なり精進ぶりを示すものであるけれど、本番のそれよりも一番楽しいのは、集まってわいわいがやがや騒ぎながらじっさいに皆で音出して歌って曲をカタチにしていくことだといつも思う。
本番はその成果、最良の結果を人前で出せればただ良いだけで、そこには満足感は得られたとしても楽しみはあまりない。うまくいかなくても練習という行為こそ音楽をつくり上げて行く共同作業で、個人的にはいちばん好きだ。
逆に一番つまらないのは、一人でギター弾いて誰もいないところで練習のために歌うことで、むろんそれこそ大事かつ必要な基本行為なのだが、三回ぐらいやるとすぐ飽きてしまう。ちっとも楽しくも何ともない。
そして実際に揃って久々に音出した後、溜まっていた倦んだ気持ちや淀んだ悪い想念のようなこれまで抱えていた鬱々としたものが消えてしまったことに気がついた。音楽、聴いたり一人でするのではなく、それも皆で演る音楽こそが気分を変え人を元気にさせることだと思い至った。
ただなかなかメンバー全員で揃うことは難しい。我はともかくみんな忙しくてスケジュールが合わない。ならば、某真黒毛ぼっくすのように不定形の楽団として活動するという手もあると気づく。じっさい敬愛するさこ大介さんの大介バンドだって、フルメンバー揃っての練習やコンサートは年に数回でしかない。たいがいは二人、三人単位のユニットで演っている。
ビートルズは四人そろわないとビートルズではないが、それはプロとして活動を求められたからであり、そもそも音楽の形態はもっとゆるく自由であってもまったく構わないはずではないか。
共に音楽をやりたいと思う者ならば、楽器が何か一つでもできなくてはならないということも必須条件ではないと考える。楽器なんかできなくてもうたったりコーラスつけたり、足踏みや手拍子するのだって音楽の行為には違わない。あるいはただそこにいて聴いたり意見してくれることだってメンバーだと言えるのではないか。
今まで何かをやることは、どこであれやはり何かの条件や約束、契約のようなことがまず前提にされてきたと思う。つまりギター教室なりワークショップやると発表し宣伝すれば、その参加者には相応の義務とやる気、責任のようなものが求められたし、こちらもやはり求めていた。
しかし、それは前提条件ではない。音楽と音楽の場があることが前提であり、関わり方はじっさいどうでも良いことであった。つまり、もともとプロでもないし、金とっての商売としてやっているのではないのだから、もっと自由に、良い意味でルーズであって何が悪いのか。
つまり皆忙しいのなら、来る者は拒まず来ない者はそれで良し、去る者もまたかまわないというスタンスでやるのが誰にとってもいちばん楽だろう。
昨日久々に皆で揃って少しでも音出し練習やってそのことに気がついた。誰でもかまわない。音楽なんかやったことなくてもかまわない。もし楽器ができるようになりたいのなら基本的なことなら教えもするし、多少の知識もある。アドバイスもできるかもしれない。
問題ひとつ。そうしたこと、歌ったり聴いたりする音楽が好きであってほしいだけだ。年齢も経験もいっさい関係ない。
『バンドメンバー募集』 と記すと、それなりの本気さやレベル、経験も関係してくる。でもそんなことは大事だとは考えない。集まってわいわいがやがや音出すのが、歌うことが楽しく好きかどうかということけだ。
幸いウチにはギターだけでなくキーボードやウクレレなどもある。それらは人に教えることはまだできないが、まずこの我から練習続けて多少は弾けるようマスターしていきたい。
夢はいろんな楽器を持ち寄って、スタンダード曲をセッションして回すことができるような仲間たちが揃うことだ。二ユーロストシティやディキシーズ・ミッドナイト・ランブラーズのような形態の即席バントができないものか。
考えてみれば高田渡がやりたかったことは、若き日の武蔵野たんぽぽ団しかり、ヒルトップもしかり、ずっとそうした形態の音楽、セッションバンドであった。今更ながら亡き人の思いというか気持ちがわかってきたということになる。
焦りも急ぎもしない。音楽は逃げやしない。ただ少しでも歩を進めていくことだ。新たな出会いもあるだろう。巧い下手は関係ない。まず出会いがあり関係が続きそしてその先に見えてくるもの、辿りつく場所がある。
無頼庵のこれからの活動方向がようやく見えてきたような気がしている。どなたでも来られて音楽活動を一緒にやりませんか。
最近のコメント