我はまたこちら側に戻れるのか2016年09月19日 06時10分59秒

★生きる者としての価値と意味を取り戻していかねば

 9月19日、彼岸の入りである。外はまた冷たい雨がしとしとと降っている。
 どっと疲れが出た、と記した。どうしたことか何も疲れるようなことはしていないのに、この数日、夕食後はもうしんどくて起きていられない。倒れ込むように眠り、断続的に汗をかいたり寒かったり浅い眠りを繰り返して何度か目が覚める。外はいつも暗い。そしてまた寝直しようやく夜が白みだしてベッドからはいだす。
 頭は鈍く痛いし体は重い。もっと寝ていたい気もするし今はできなくもないが、さらに体はだるく辛くなりそうだ。

 こんなことを書くとまたご心配おかけするだけなのはわかっている。が、他に何も書けないし更新できない日が続くのもまた同様のことであろうか。
 母が死んで10日が過ぎた。もうさすがに泣いてばかりはいないし、母不在の感覚、その日常にも慣れて来始めた。認知症の父と男二人だけの暮らし、ともかく面倒な父に手を焼きながら何とかキレずに日々をやりすごしている。
 母が死に向かう直前、そして死んだ直後もかなり大変で辛かったが、今はそれとはまた別の辛さ、苦しさを感じている。やるべきこともまだあるし、一段落したわけではないのだが、心だけでなく身体まで今頃になってダメージが出てきたようだ。
 あまりに死に行く人と向き合い、死後も死んでしまった人のことを思い、内心で語らい、死の世界、死者の国のことばかり考えていたためかまだ生きている我までが、そちら側に身を置いてしまったようで、こちら側になかなか戻れない。

 死とは言うまでもなく、その時点ですべてが無意味、無価値になることであった。そうした「事実」を知り、最も身近な愛した人がこの世から消えてしまうと、我もまた同様に、周りのものすべてが意味と価値を失ってしまった。
 自らも死の国を望みはしないし、まだまだやるべきこと、特に父の世話とかもあるのだけれど、以前のように外の世界に明るい色は取り戻せない。このところの天気のように全てが灰色で、熱も温かみも感じることができない。陰鬱、憂鬱である。

 買い物などで人の集まる場所に出向くと、そこに流れている流行りの音楽などは煩わしい雑音以外のなにものでないし、だいいち他の人たち、とくに若い元気に騒ぐ人たちを見るのも耐え難い。彼らと同じ場所にいられない。よって辛くて、その場に長居できず大急ぎで静けさしかない我が家に退散する。そこには母が待っている。もう何も語ることのない母が静かに待っている。

 この気分が一過性のもので、また人の集まる場所に出て、気の合う仲間たちと何か楽しいこと、面白いことに熱中できるときが来るのだろうか。
 我はこちら側にまだいる。母はあちら側、彼岸へと渡ってしまった。そこには絶対に渡れぬ大きな河がある。しかし、我はその岸辺で今も母の行ってしまった側を観続け立ち尽くしている。我の事を後ろから呼ぶ友もいるはずだし、彼らが我を呼ぶ声も聞こえている。が、その河を背にして再びこちら側、生者の世界へとなかなか戻ることができない。
 早く戻らねばならないし、こちら側でやるべきこともまだ多々ある。それこそが生きている我の義務なのはわかっている。しかし、今もまだその河に背を向けてこちら側に戻ることができないでいる。

 今の不安は、我はもう一度こちら側に戻れるのだろうか、だ。外からは近くの神社の夏祭りで、昨日から賑やかなお囃子が今も聞こえている。生きている者たちの明るい世界に、我は戻らねばならない。母もそれを望んでいるはずだ。だが、この気分から抜け出せないでいる。
 親戚の誰かが、葬儀などが一段落するとどっと淋しさや疲れが出たり辛くなってくると言ってた気がするが、そう、ある意味今が一番辛い。
 いったいどうしたらいいんだろう。