父母の生き死には、GODの心にあり ― 2016年09月26日 21時29分26秒
★あらためて全てを赦し全てを受け入れていく。
このところずっと、母を死なせてしまった我の愚かさと非力さ、つまりその無力にひたすら打ちのめされ自らを責めては悔いていた。
何よりも、かけがえのない母の大事な最後の貴重な時間を、我の失態のため有効に使えなかったことが悔やまれてならなかった。
夜は必ず深くは眠れないから夕方早々からまずビールなどを呑み始め、晩飯をはさんで最後はウイスキーとか焼酎で、意識朦朧になって倒れ込むようにベッドに向かう。それでもまた真夜中に起きてしまい、明け方まで長い夜を悶々鬱々として過ごす。昨日など起きたのは午前1時だった。それから聖書をランダムに読んだり手元にある本を手当たりしだいに手にとっては再び眠気が来るまで辛い時間を過ごす。
そしたら、ある本の中で、こんな一節に出会った。そして我は再び神の計らいに深く感じ入った。子供向けに書かれたものだから、ほぼ平仮名の、しかも旧仮名遣いであるが、そのまま載せる。
てんとうさまをおそれ、これをうやまい、そのこころにしたがふべし。
ただしここにいふてんとうさまとはにちりんのことにあらず、
西洋のことばにてごっどといひ、にほんのことばにほんやくすれば、ざうぶつしゃといふものなり。
世の中には父母ほどよきものはなし。父母よりしんせつなるものはなし。
父母のながくいきてじゃうぶなるは、こどものねがふところなれども、けふはいきて、あすはしねるかもわからず、父母のいきしにはごっどのこころにあり。
ごっどは父母をこしらえ、ごっとば父母をいかし、また、父母をしなせることもあるべし。
てんちばんぶつなにもかも、ごっどのつくらざるものなし。
こどものときよりごっどのありがたきをしり、ごっどのこころにしたがふべきものなり。
これを読んで、声に出してとなえて、思わず泣いた。しかも信じ難いことだが、これを書いたのはあの福沢諭吉なのだ。
これは、諭吉が、『ひびのをしえ~日々の教え』と題して、自らの子供たちに向けて記した小冊子で、明治四年に作成したものなのだそうだ。彼は、キリスト教排斥の先鋒として今日知られている。が、ここにあるのはまさしく聖書の教えであり、不思議なことに我が息子たちには、ごっど、つまりGOD、神の偉大さをわかりやすく説いていたのである。実に驚かされた。
要約すれば、
おてんとうさまを怖れ従わねばならないのだが、それは太陽のことではない。西洋の言葉ではGOD、日本語では造物主のことで、父母は有難くとても良いものだけれど、その生き死にもまた神の心次第なのだ。天地全てのものは神がつくったのだから人はただ従うしかないのだ、と。
そんなことを明治のはじめに、しかもまだキリスト教が全面解禁となるかならないかの頃に、彼は自分の子供たちに説いていたのだ。
じっさい彼は同志社の新島襄とも親しく、同志社大設立に関しては多大な尽力もしている。そして諭吉自身はクリスチャンになったという記録はないが、その子供たちも含めて家族や周囲にはクリスチャンや宣教師など教会関係者が多い。
おそらく彼自身、幕末に若くしてアメリカに渡り、向うで教会に通ったことで、こうしたキリスト教徒としての考えを自然に身に着けていたのだと考えるしかない。
さておき、この子供向けの文章、何度でも読み返して、中でも、父母が長く元気で生きてほしいのは子供の願うところだとしても、今日は生きていても明日は死ぬかもしれないわけで、その生死は神の心であり、「ごっどは父母をこしらえ、ごっどは父母をいかし、また、父母をしなせることもあるべし」という一節にただ泣くしかなかった。まさにその通りなのである。
我は自ら母をもっと生かせると、生かしておけると不遜にも考えていた。そして失敗し自らを責め続けていた。しかし、すべては神の心次第であり、そもそもその父母をつくり、生かすも殺すもまた神の心一つなのであった。
そう、まさに父母の生き死、そして我のそれもまた同様に、GODの心、神のみ心しだいであり、人は如何ともしがたい。むろんその中でもできることもあろう。精いっぱいの事はできよう。しかし、最後のところは人はどうしようもないのである。何一つ抗うことはできないのであった。
ならば我は全てゆるし受け入れていくしかない。我が失態をも。
そのことを偶然手にした本の中で我に啓示のように神は示してくれた。
そう、ごっどの有難きを知り、ごっどの心に従うしかないのであった。
※白井 堯子 (著) 福沢諭吉と宣教師たち―知られざる明治期の日英関係 (慶応義塾福沢研究センター叢書) 未来社刊 – 1999/6
このところずっと、母を死なせてしまった我の愚かさと非力さ、つまりその無力にひたすら打ちのめされ自らを責めては悔いていた。
何よりも、かけがえのない母の大事な最後の貴重な時間を、我の失態のため有効に使えなかったことが悔やまれてならなかった。
夜は必ず深くは眠れないから夕方早々からまずビールなどを呑み始め、晩飯をはさんで最後はウイスキーとか焼酎で、意識朦朧になって倒れ込むようにベッドに向かう。それでもまた真夜中に起きてしまい、明け方まで長い夜を悶々鬱々として過ごす。昨日など起きたのは午前1時だった。それから聖書をランダムに読んだり手元にある本を手当たりしだいに手にとっては再び眠気が来るまで辛い時間を過ごす。
そしたら、ある本の中で、こんな一節に出会った。そして我は再び神の計らいに深く感じ入った。子供向けに書かれたものだから、ほぼ平仮名の、しかも旧仮名遣いであるが、そのまま載せる。
てんとうさまをおそれ、これをうやまい、そのこころにしたがふべし。
ただしここにいふてんとうさまとはにちりんのことにあらず、
西洋のことばにてごっどといひ、にほんのことばにほんやくすれば、ざうぶつしゃといふものなり。
世の中には父母ほどよきものはなし。父母よりしんせつなるものはなし。
父母のながくいきてじゃうぶなるは、こどものねがふところなれども、けふはいきて、あすはしねるかもわからず、父母のいきしにはごっどのこころにあり。
ごっどは父母をこしらえ、ごっとば父母をいかし、また、父母をしなせることもあるべし。
てんちばんぶつなにもかも、ごっどのつくらざるものなし。
こどものときよりごっどのありがたきをしり、ごっどのこころにしたがふべきものなり。
これを読んで、声に出してとなえて、思わず泣いた。しかも信じ難いことだが、これを書いたのはあの福沢諭吉なのだ。
これは、諭吉が、『ひびのをしえ~日々の教え』と題して、自らの子供たちに向けて記した小冊子で、明治四年に作成したものなのだそうだ。彼は、キリスト教排斥の先鋒として今日知られている。が、ここにあるのはまさしく聖書の教えであり、不思議なことに我が息子たちには、ごっど、つまりGOD、神の偉大さをわかりやすく説いていたのである。実に驚かされた。
要約すれば、
おてんとうさまを怖れ従わねばならないのだが、それは太陽のことではない。西洋の言葉ではGOD、日本語では造物主のことで、父母は有難くとても良いものだけれど、その生き死にもまた神の心次第なのだ。天地全てのものは神がつくったのだから人はただ従うしかないのだ、と。
そんなことを明治のはじめに、しかもまだキリスト教が全面解禁となるかならないかの頃に、彼は自分の子供たちに説いていたのだ。
じっさい彼は同志社の新島襄とも親しく、同志社大設立に関しては多大な尽力もしている。そして諭吉自身はクリスチャンになったという記録はないが、その子供たちも含めて家族や周囲にはクリスチャンや宣教師など教会関係者が多い。
おそらく彼自身、幕末に若くしてアメリカに渡り、向うで教会に通ったことで、こうしたキリスト教徒としての考えを自然に身に着けていたのだと考えるしかない。
さておき、この子供向けの文章、何度でも読み返して、中でも、父母が長く元気で生きてほしいのは子供の願うところだとしても、今日は生きていても明日は死ぬかもしれないわけで、その生死は神の心であり、「ごっどは父母をこしらえ、ごっどは父母をいかし、また、父母をしなせることもあるべし」という一節にただ泣くしかなかった。まさにその通りなのである。
我は自ら母をもっと生かせると、生かしておけると不遜にも考えていた。そして失敗し自らを責め続けていた。しかし、すべては神の心次第であり、そもそもその父母をつくり、生かすも殺すもまた神の心一つなのであった。
そう、まさに父母の生き死、そして我のそれもまた同様に、GODの心、神のみ心しだいであり、人は如何ともしがたい。むろんその中でもできることもあろう。精いっぱいの事はできよう。しかし、最後のところは人はどうしようもないのである。何一つ抗うことはできないのであった。
ならば我は全てゆるし受け入れていくしかない。我が失態をも。
そのことを偶然手にした本の中で我に啓示のように神は示してくれた。
そう、ごっどの有難きを知り、ごっどの心に従うしかないのであった。
※白井 堯子 (著) 福沢諭吉と宣教師たち―知られざる明治期の日英関係 (慶応義塾福沢研究センター叢書) 未来社刊 – 1999/6
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