様々な別れのときに思う2016年09月27日 09時18分16秒

★別れた後で悔やむことのないように

 会うは別れの始まり、だと言われる。人生とは出会いと同時に常に様々な別れの連続であろう。いろんな人と物どもと別れを繰り返し、そして最後の最後には自らこの世界と別れを告げる。
 我が死んだ後も、この世界は続くだろうし我以外他の多くの人たちはこれからもまだ生き続けていく。が、もう我はこの世界とは関わりを持てないし、我が生前使っていた物、大事にしていた物どもも処分されてやがては我がいたことすらも忘れ去られる。すべてが無に帰する。

 今、母が逝き、そうしたことを痛感している。歴史に名を残す人ならば、死後も語り継がれ記録されてときに神に祀られて、末永く後の代までも「存在」はあり続ける。が、一般の無名の市井人では、家族や友人知人は、その亡くなった人のことを思い偲び忘れないだろうが、そうした縁ある人たちもまた逝ってしまえば、後はもう誰も語り継ぐことはない。
 それこそが人の一生であり、他の動物はともかく、人は古来よりそうして先に逝った人を弔い偲びその存在を忘れがたく思い続けてきた。そして後に残った人もまた死んで同様に忘れ去られていく。
 山中の古い墓所にはそうしたもう今では誰の墓か判別できないほど風化し苔むした石版や石塔が今は弔う者もなく雑草の中にいくつも点在している。今の季節ならただ傍らに彼岸花が赤く咲き群れて立ち尽くしているだけだろう。
 無常を思うが、それこそが人の世の常、人の生きるということであり、まさに人は無から生まれ無にまた帰すのだと痛感する。その後の世界が果たして在るにせよ無いにせよだ。
 ならばこそ、人はその生あるうち、生きて、しかも意識あるうちだけが大事だと気づく。そして常にきちんとした「別れ」をその都度していかねばならないはずだ。

 よくテレビドラマや映画の定型化した別れの場面として、二つのシーンが多々出てくる。一つは、結婚して他家に嫁ぐ娘が、育ててくれた両親に対して、式当日の朝などに、「長いことお世話になりました」と深々と頭を下げ、その親子共々涙で別れを告げ合うというものだ。
 そしてもう一つ、これも先日のNHK朝ドラで出てきたが、老いた親が病んで逝くにあたって、残す家族、それはたいてい娘や息子たちに向かって、「世話になった、有難う、もう何も思い残すことはない、良い人生だった」とか感謝し振り返りしみじみ述懐する場面である。
 果たして現実の世界で、人はその別れのときに、そうした言葉を発し残る家族たちに告げることがあるのだろうか。

 嫁ぎ家を出ていく娘が、それまで育ててくれて世話になった親たちに、感謝して別れを告げることはじっさいにあるかと思える。おぼろげだが、我が妹も結婚式の日だかに、そんなことを一応親たちに話していた記憶がある。また、同様なことをやっていたと他からも聞いた覚えも確かにある。それは今日「儀式」としてたぶん女の子は誰もがやっているのかもれない。
 しかし、もう一つの、死ぬにあたって逝く者、特に親側が、子どもたち、看取る者に向かって、しみじみと感謝の言葉を述べたりする別れの「儀式」は、果たして現実の話、ありえるのだろうか。
 我は否と思う。我が母を送った今思うのは、最後の最後までそうしたきちんとした「別れ」はできないまま、なし崩し的に衰弱して最後はあっけなく、おそらく当人もその覚悟もないまま死んでしまうというパターンが多いのではないか。
 むろん意識ある、まだ元気な時に、当人が意識して家族を集めて、死期を悟り、家族たちに感謝して残すべき言葉を伝えることは当然できなくはない。しかし、人はその家族も含めて、最後の最後まで死を認めたくないわけで、「死ぬこと」を正面から受け入れることはなかなか難しい。
 ゆえにそうしたドラマのような「別れの儀式」などできないはずだし、死ぬ当人もそうしたことを告げたいとしても、まだ死なない、死にたくないと思っているうちに、その時は来てしまうから、結局何もきちんとした別れの言葉は告げることなく人は死んでしまうように思える。
 我が母もまたそうであった。今少し悔やんでいる。が、死ぬのはまだ先だ、もう少し生きていると思っていたし、生かすつもりでいたのだから何より仕方ない。

 そして思う、そうしたドラマみたいな、きちんとした別れの儀式は普通の人はまずできないと予め考えて、常日頃からそうした思いをことあるごとに残す家族に告げていくしかないのである。看取る者たちもまた同様に、多少気恥ずかしくとも送るに際して思いを折々話していけば良いだけのことだ。

 永遠の別れの時が来てからでは遅い。病んで死に赴くときに限らず、常日頃からそのときを思い、人は誰もが死に逝く者であるからこそ、互いに感謝の思いをためらわず言葉にすべきなのである。
 そう、それは誰にとっても。いつどこでもだ。母の死でようやくそのことがわかった。

どうしようもなく情けない人生を精いっぱい生きて行こう2016年09月27日 15時15分21秒

★ようやく心は定まってきた。

 申し訳ないが、今月中は母の事を中心に書かせてもらいたい。

 今日、市役所に行き、母の最期の僅かな年金、8月、9月分のを、喪主である父の銀行口座に振り込んでもらえるよう手続きをした。前回も全労災にかけていた保険金請求で、戸籍謄本を用意したり非常に煩雑な事務手続きを余儀なくされたが、今回もいろいろ書類を書かされて一時間もかかった。
 もうこれで母に年金は振り込まれることはないし、葬祭費の手続きもしたので、ほぼ一応、母の死に関する面倒な事務作業は終わったかと思う。
 繰り返しになるが、人が死ぬとはこんなに面倒かつ大変な事態を引き起こすのかと今さらながら思う。父の時が正直思いやられる。
 こうして母がいたことを抹消する手続きを終えれば、やがてはその母自体存在していたことすらも消え失せ忘れ去られ、我ら家族とごく親しかった友人知人たちの記憶、思い出の中だけのものとなっていくのだろう。それもまた仕方ない、が、母のいた証がこうして一つ一つ消えていくこと自体が哀しく辛い。
 せめて我だけは、死ぬまで母の思い出と共に生きて、そしてその思い出を携えて再び母の待つ天国へ、いや、それが天国だという確証は何一つないけれど、旅立ちたいと願う。もう今できることはそれぐらいしかない。

 もう今日の分のブログは書いた。が、あえて今書いているのは、ようやくだが、これからへの決意は定まったからだ。

 今さらだが、どうしようもない情けない人生をこれからも生き抜いていこう、と決意した。もう元には二度と戻れない。
 何故なら母はいないし、すべてがこれからまた新しく一から、母のいないという人生を構築しないとならないからだ。
 恥ずかしい話、この歳までほぼすべて肝心なことは母に依存して来てしまっていた。つまり諸官庁などの税金申告などの手続きや様々な支払いなども母任せにしてきてしまっていた。むろん最後の数か月はその母が寝たきりとなり、嫌でも自ら市役所に出向いたり支払いなど諸手続きをせねばならなかったのだが、それもまたベッドの母に相談し指示されてのことであったのだ。
 今さらながらそうした一切の事務を認知症の父には任せらぬがゆえ、我がやってみて、母は実にしっかりしていた、よくやっていた、と感心してしまう。
 そうして常に母に依存してきた我家は、その人を失い今、父と息子で途方に暮れている。しかし、誰も代わってやってくれる人はいないのだから、どれほど大変でもすべて我がやっていくしかない。

 今さらだが、つくづく生きていくのは面倒かつ大変なことだと思う。そして死ぬ時もまた然りで、まして残された人はうんざりするほど様々な手続きに追いまくられる。ならばともかく日々生き続けていくかない。

 我もまだ死ねないし死なないのならば、ともかくこのどうしようもない、情けない人生を精いっぱい、とことん生きて、生き抜いていこうと決意した。もう一度元に戻れたらと願うが、そもそも母がいないのだからそれはかなわず、我一人で一から新たにやり直すしかないのであった。

 ならばもう何も怖れないし何も臆さない。どれほど恥かこうと、何を言われようと、他人からどう思われようとかまわない。ともかくこの残りの人生をとことんしっかり生き尽くして、母のいる世界へ行きたいと願う。もう死はちっとも怖くない。

 すべてもうどうしようもないのだ。全てが取り返しつかない。ならばとことんこのどうしようもない世界を精いっぱい生き抜いていくしかないではないか。まず残された父を送り、そしてできるだけ身辺をすっきりさせて我もまた死に行こう。

 それがいつなのか、あとどのぐらい期間があるのか、それは誰にもわからない。すべては神の意思、生かすも殺すもその手のうちにある。

 ならばこそ、その日そのときまで、我はとことん生き抜いていこう。母のいない、どうしようもない、情けない人生を慈しみ大事にしていこう。丁寧に生きていこう。それこそが母の願いだと思う。

 我は常にとことん不良でずっと親不孝で、罪深い者であった。しかしまだ生かされている。ならばその意味を問い、神と真摯に語らい道を誤らずにしっかり生きて行かねばと願う。

 そう、どうしようもない、情けない人生だが、人のため、世のため役立つよう生きていけたらと心から願う。我が母がそうして生きたように。我もまた然り。