人生は誰のものか2016年12月17日 22時40分28秒

★人生は本当にその人のものなのか。

 毎日何だか知らないがともかく忙しい。今日、父はデイサービスに行ってくれたので、直の父の世話、というより彼の汚した衣類の洗濯や、掃除、そして諸手続き、お金の計算などで、あっという間に一日が終わってしまった。
 こうして、気がつけば今年も終わる。今日も自分のことはほとんど何もできなかった。

 今、父を寝かせて、これから犬たちも夜の散歩させて、家に入れればいちおう明け方までは静かに寝ていてくれるかと思う。
 これからこそが我の時間で、自分のことにようやく専念できるのだが、寒いこともあるが夜になると疲労困憊で起きてられず、今日の収支決算、家計簿や出来事だけつけたら、それだけでもう倒れ込むように我も寝てしまう。このところそうしたことの繰り返し。

 なかなか腰据えて、ブログ書くのにに専念できるのは、父が不在で、家のことを一仕事終えた午前中ぐらいしかない。
 母が生きていたときから思っていたが、今はもう自分の人生がなくなってしまった。母は死んで手がかからなくなったが、父が生きている限り状況はほとんど変わらない。政治の事やいろいろ思うところはあるけれど、「人生」について考えたことを書きたい。

 人生は、言うまでもなく、その人のもの、その人個人のものであるはずだ。誰とも取り替えもできないし、代わって生きることもできやしない。
 が、その、自分だけの人生を、どれだけの人が、自分のものとして思い通りに生きているのだろうか。
 よく、人生は思い通りにならないものだ、と誰もが言う。しかし、その前に、思い通りになるもならないも以前に、「自分の」ものとしての人生を生きている人はどれだけいるのかとよく考える。

 我がことを書けば、我ほど、好き勝手に、思い通りに人生を生きた者は他にいないと思える。それは、思い通りに人生がなった、願いがかなったという意味ではなく、物心ついてからこの半世紀、好き勝手に、自分のしたいように常に生きてきたという意味だ。
 きちんと就職もしなかったし、世間一般の社会人、=大人が当然すべきことは何一つしないで、責任も果たさず身勝手に生きて来た。それこそが反体制、アウトロー的な生き方としてカッコいいと思っていたし、そんな息子を勘当せずに、甘やかし認めてくれた両親という恵まれた環境にあった。
 ただ、この数年、その親たちが老いて衰えて来て、彼らだけでは生活が難しくなってきたことと、我も当然のこと、生活が苦しくなってきて、ある意味双方の利害が一致して、共に暮らすことで一家は何とかやってきた。
 それでも親たちの世話、家のことをやりつつも我は、自分の事、趣味的人生をほぼ思い通りに生きて来た。それはずいぶん恵まれていたと思う。世間の同世代の人たちが、子育てや仕事に追われて生活維持に日々忍耐と苦渋の人生を四苦八苦しつつがんばっていた頃、我はお構いなくのほほんと「我が事」だけに夢中でいられたのだから。

 ただ、特にこの一年、母の癌が再発して、じょじょに、確実に衰弱してきて、治療も何も、病院通いと、体調の変化に振り回されて、挙句に自宅で死ぬまでの数か月間、24時間看護することとなって、我の人生は母の事と家の事だけで費やされた。息抜きは、犬の散歩と近所での買物だけであった。
 それは辛かったけれど、嫌だとか、拒むことも抗うこともできなかった。何故なら、我を、長年好き勝手にさせてくれた親たちの面倒を看るのは当然のことであり、孝行かどうかはともかく、それこそが恩返しだと思っていたから仕方ないことであった。そしてそこには生き甲斐も見いだせた。それは母と共に癌と闘い、必ずや克服できるという願いであった。
 24時間、家にいて、母の体調を気遣い、どこにも出かけられず誰とも会えず、何一つ自分のことはできず、まったく我が事、我が人生はなくなってしまったけれど、それこそ「年貢の納め時」だと思っていた。
 つまり、就職もせず、結婚もせず、孫の顔も見せられず、ろくに家に金も入れず、この歳になるまで好き勝手に生きて来た息子としては、せめて親たちを介護し看取る事だけが、罪滅ぼし、いや、相殺できることではないが、人の子として成すべきことだと思っていた。
 そのまま、病んで死に行く親を、放棄、放擲して病院や施設任せにして、相変わらず好き勝手に我が事だけに生きられるほど我は極道でもなかったし、確信犯でもなかったから。

 そして母が死んで三か月経ち、ようやく様々な名義変更や、相続的な諸手続きも終えて、今もまだ母の遺した衣類や書類、雑貨やがらくたは手つかずのままだが、気持ちの上では、「母の死」はやっと決着がついた。
 ならばまた前のように、好き勝手に、我が事に再び専念できるかというとまったくそうはならない。認知症の要介護3の父と共に暮らしているからで、よたよたでろくに歩けない身体は母が生きていた頃と状態は変わらずとも、呆けはさらに確実に度を増して、尿失禁に加えて排便までも制御不能になりつつある。

 母が生きていたとしても寝たきりだったのだから、我が父の世話するしかなかったのだが、呆けて手のかかる父と二人暮らしは、精神的にかなりの負担となってきている。
 物忘れが激しく、何度でも同じ質問を繰り返し、説明し言い聞かせてもそのときは納得しても一晩寝ればまた忘れて騒ぎ立てる。そしてささいなことでパニックを起こす。まさに我の忍耐が試されている。
 母の介護は肉体的にともかく大変で辛かったけれど、母は意識はしっかりしていたから最期の日までそこに愛と希望があり、コミュニケーションが成り立っていた。
 父は今、肉体的には健康で、特に病むところはないのに、人としてのコミュニケーションが難しい。言われたことは守らないし、勝手なことはしては息子の負担をさらに増す。我は日々キレまくりで、またそのことで双方が傷つき疲弊してしまう。

 死に行く母と過ごした日々もある意味、地獄であったが、狂人と化した父と暮らす方が地獄度は高い。告白すればそこに「愛」はない。母に対しては愛おしさがあり、どんな辛苦も我慢できた。父に対しては憎しみこそはないものの、その愛おしいと思う気持ちが持てない。
 それは男同士、同性ということもあろうが、若い時から父とは根本的に理解しあえない、わかり合えない溝がある。
 ただ、父を一日でも長く生かすことだけが、我にとって亡き母への義務であり、それこそが供養だと思う。このまますぐに父をあの世に送れば、向うで母も「もう来たのかよ」と呆れることであろう。
 とにもかくにも、母は既になく、父一人でも父が生きている限りは我が人生は、我の思い通りにちっともなりやしない。

 では、父を看取って、母の元に送れば、また再び人生は我の手のうちに戻ってくるのであろうか。以前のように、好き勝手に、思い通りに、世話焼かねばならぬ親たちがいなくなれば我は再び自由に生きられるのだろうか。
 【長くなったのでもう一回続きます】