クリスマスの夜に、最低最悪の一年を振り返る2016年12月25日 19時46分08秒

★荒野の果てに夕陽は落ちて~このどん底から戻していく

 聖しこの夜である。
 皆様はどんなクリスマスを、誰とお過ごしのことであろうか。我にとって、母がいなくなって、父と二人だけで過ごす初めてのクリスマスである。こうして人は一つ一つ大事なものを失っていくのかと今さらながら思う。
 老犬はまだ生きているが、父と同じくもはや余命いくばくもないのだから、まず、この冬をこせるかだ。
 つまるところ、そうした近く逝く者たちと、どれだけ残り少ない時間を有意義に過ごせるかだけなのだと。今、母を喪って後悔の味を噛みしめつつそう思う。

 今日の午前は近くのプロテスタントの教会で、クリスマスのミサにあずかった。我としては新教よりもカトリックなので、毎度の違和感はあったが、それでもそこの教会員方は、皆良い温かい人たちばかりで、暖かく迎え入れてくれた。今後も関わりを持つことになるかもしれない。
 行けたのは、父が土日はデイケアに通うになり、母も旅立ち、ようやく我も一人に、時間的にやっと「解放」されてきたからだ。

 さて、そのクリスマスの夜に、様々な思いが沸き起こる。
 この一年、2016年はどんな年であったか、と自問すれば、政治的にもだが、我個人的にも生涯最悪、最低の一年であった。

 親は当然のこと、子より先にいつかは死ぬ。それが人の道であり、人生を生きていくことなのはわかっていた。
 が、癌という暴風雨のように攻めてきた猛威の前に、まさに成す術もなく敗北してしまった。闘うとか抗うどころか、悪化していく状況に、ただあたふたと振り回され、後手後手に何とかかろうじてその都度必死に取り繕うだけであった。対症療法にもならなかった。
 そうこうしているうち時間はあっという間にたち、我までも疲労と心労で倒れる寸前まで追い込まれた。そして母は医師たちの想定よりも早く突然旅立ち、我は強い悔恨と悲憤にその後数か月は囚われ、死後の後始末も含めて、哀しみに増して心まで疲弊してしまい、もう社会復帰はできないと思うほど追い詰められた。
 我も我が家もすべてが混乱し、めちゃくちゃな収拾つかない状態となってしまった。それは今も続いている。

 今、この数か月を振り返って、我も父もよく無事であったなあと感心さえする。しかし、今もまだ、「元通り」に全てが戻ったわけではない。看病途中のと、死後の混乱、散乱は未だ未解決のままだし、何とか「書類」上のことだけは終息したものの、大事な家族の一員=母はもういない、という新たな生活様式はまだこの家では何一つ始まっていない。
 そうしたことも含めて、すべては今後、慌てることなく新たな年から少しづつ構築していけば良いのだ、と今はやっと余裕をもって思えて来た。

 最低最悪の年だとは書いた。が、今にしてそれでも逆に多くの得るもの、学ぶところ大であり、そのことは我にとって大きな遺産、力になった。
 何よりも母の死を通して、死とは何かはっきりわかった。肉体的死、社会的死、そして行政上の様々な手続きも含めて、人が一人死ぬということはどれほど大変で面倒かつ大事件なのか辟易するほど認識した。
 そして今思う。もう何も怖くないし何も怖れるものはないと。何故なら、死ぬことに比べれば、どれほど辛い苦痛があろうとも屁でもないのだと。これからどれだけの屈辱を味わい蔑みを受け痛めつけられようとも「死」に比べれば何でもない。
 生きていれば、どれほどの目に遭おうとも取り返しがつくし、埋め合わせもできる。挽回もやり直しだってできる。しかし、一度死んでしまえば、残念ながらこの世ではもう二度と取り返しつかない。戻せない。やり直せない。

 信仰、宗教的には、死を克服して、現世の死は肉体の死に過ぎないと永遠の生を説いているし、その考えも我は受け入れられなくもない。が、現実の話、死は当人のみならず、残された者たちにとっての重大事なのであって、当人は死んで幸せに天国に行こうが、残された者こそが大変なのである。
 ゆえに人はうっかり迂闊に死んでは絶対にならないのだ、とわかったし、ならばこそ、この世に生を受けた者は、とことん必死に真剣に生きなければならないのだと思い知った。
 だからこそ、人は皆で助け合い支え合って生きて行かねばならないのであった。人はそれほど弱いもので、ほっとけば絶望や孤独だけで簡単に死んでしまうものなのだ。

 母は自らの死を通して我に多くのものを遺してくれた。死の後始末も含めて、「当事者」として母の死の件で実に多くのものを学び得た。
 そして、認めたくはないが、「今」、今年であって良かったのかもとさえ思えてきている。もちろん母はもっともっと長生きしてほしかったし、今だって死んでこの世にいないことが信じがたい悪夢のような気がしている。しかし、これがもっと長患いして、我ももっと年老いてしまえば、介護も含めて、周囲誰もが疲弊してしまいまさに老々介護となって、母を看取った後の我らの「人生」はなくなってしまっていたのではないか。

 聖書には、種まきも刈り取りも、すべてのものにはときがあると記してあるし、良寛和尚の言葉だと記憶するが、災難にあう時はあうがよろし、という言葉も頭に浮かぶ。
 母の死は、我が人生最大の「災難」ではあった。が、その災難から多くのことを学んだし、母の死の前に比べて我ははるかに強く賢く、大人になれた。つまりその災難を体験しなければ、我はずっといつまでも子供のままであったのだ。
 むろん今だってどんなに利点があったとしても母が死んだこと、もう会えないこと、この世にいないことは肯定できず哀しく辛く涙が出てくる。しかし、それもこれもすべてこの世の定めだと、いつかは起こるべきことだとして受け入れていくしかない。
 親たちよりも先に我は死ぬわけにはいかなかったし、親たちを看取り送るのが子の務めなのだから、これはこれで仕方がなかったのだ、と、今は無理やり納得させようとしている。

 ただ悔やむのは、これからも永遠に悔いるのは、ずっと親不孝し続けて、いつまでたってもバカなことばかりして常に心配かけてばかりで、何一つ安心させられないまま母を死なせてしまったことだ。
 結婚もせず、きちんと収入を得る定職も得られず、不仲の父とケンカばかりしていたのだから母はさぞや死ぬにあたって心配だったであろう。その心残りを思い、ただただ申し訳なく、子としてすまない思いで心が張り裂けんばかりだ。
 もし、あの世で、再び母と再会するときがあらば、我の「その後」のしっかりした、きちんやっている姿を、手土産として見せなければと思う。
 死んでしまった者にできることは、そうした、我ら生者が、その後もがんばってしっかり生きている姿を示すことだけだろう。

今年、年明けには、まさか母が死ぬなんて、まったく想定も予期もしていなかったわけで、まさに心構えも準備も何一つできていなかったわけだから、2016年は最低最悪の年となっても当然だった。
 ならば、その混乱と失意はいつまでもそのままにせずに、少しづつでもその「どん底」から這い上がっていかねばならないはずだ。
 もう母自体いないのだから、もはや「元」には戻せないし、戻らない。やがて母の後を追い死に臨む父との二人で、父の死後のことも想定しつつ、我の新たなライフスタイル、人生の生き方を築いていかねばならない。
 幸い、今ならまだできる、きっと何とかやっていけると、脳天気に、何の根拠もないけれど思えて来た。

 もう何も怖れないし迷わない。母も含め我の大事な大好きな人たちは皆天国にいるのだから、死も恐れない。残りの人生を死者たちに恥じないようしっかりきちんと生きて行くだけだ。いつかまた、皆に再会する時に恥じいることがないように。

 まだできる。今ならできる。それは必ずかなう。すべての思いはかなう。それもこれもすべてが神の御心だったのだと今クリスマスの夜に思う。

 皆様にも神のご加護と恵みがありますように。