続・人生は誰のものか2016年12月18日 09時25分21秒

★人は、人と、人のために生きてこそ人

 【前回の続き】今、父をデイサービスに送り出してこれを記す。

 言うまでもないが、人生はいろいろ、人それぞれ様々であって、結婚し子供を作ることだけが正しいあり方、善だとは言えない。
 結婚しないという生き方、結婚したとしても子を作らない、あるいは子のできない夫婦だっていくらでもいるし、その人の人生なのだから世間一般的「常識」に囚われる必要は全くない。人様のことをとやかく言う資格は誰にもない。
 ある意味、全てはなるようにしかならないし、どれほど努力したって金を積んだってかなわぬことはいくらでもある。人はただ、その「与えられた」人生を、精いっぱい一生懸命に生きるだけだ。
 我は、母を喪い、やがては父を送る歳、今頃になって、これまで生きて来た日々を振り返って、悔やむことも多い。それは、人並みに「まっとう」に生きなかったことを悔やむのではなく、アウトサイドを生きるのならば、その道をとことん究めれば良かったという悔いである。
 今思えば全てが中途半端で、親も含めて人任せにして人に頼ってばかりいて、全てが甘かったと気がつく。
 どこにも属さない道を選んだなら、本来誰も助けてはくれないのだからとことん自らを鍛え力を蓄え、技を磨かねばならなかったのだ。頼るは自分のみだったのだから。
 そしてどのような生き方をするにしろ、常に真摯に人生と向き合い、きちんと無駄なく人生に真正面から、逃げずに取り組み、その人生を意義あるものにせねばならない。誰に対しても卑怯者、臆病者であってはならない。
 恥ずかしく情けない話だが、今、人生を新たなスタートを切るにあたって、自分は本当に卑怯な怠け者だったと思う。社会や世間に抗い異議申し立てしてたのではなく、単にネグレクトして、果たすべき義務から逃げて、人生そのものを放擲していたのだ。
 そして今、自らの人生をも失い、ではこれからまだ死ぬわけにもいかないのならば、どうして生きていこうかと真剣に考え始めている。
 どうしたらもっと自由に、思い通りに生きられるか。昔から常に考えていたのは、そのことで、若い時からさんざん好き勝手なことをしてきたのだから、ヒトから見れば「思い通り」に生きたと見えるかもしれない。
 しかし、好き勝手にやることと、モノゴトが思い通りになることは、また別次元の話なのであって、好き勝手に生きたから満足したと言うことは一度もない。モノゴトが成ったとしてもそこには苦い思いが常につきまとうし、経済的にも人間関係的にも大失敗して、後々までも何年も悔やみ続けたことも多々ある。
 でも生きるとは、どんな生き方であれ、多かれ少なかれ誰でもそうしたものではないだろうか。何事も計画立ててうまくやって、常に満足している人がいるのだろうか。

 若い時からの我の夢、というか、理想の人生の姿として、思い描いていた一つは、仕事などで外に出て働くことなく、どこか静かな森の中か、他に誰もいない小島で、好きなミステリーの本を読みながら、好きなジャズのレコードを聴きながら、誰にも会わずに暮らすというものであった。むろんそこには、電気もあるし衣食住の心配や悩みは何もない。ただ一人で、誰にも会わずに好きなことだけして悠遊と暮らす。
 若い時は、そんな「老後」を思い描いていた。最近までだって、母を介護しながらそんなことをぼんやり思い描いていた。

 そして今、老いのとば口に立って、もし仮に、我が年金生活者となって、そんな風な生活、本と音楽三昧の生活が送れるとしても、果たしてそれは幸福か、満足するだろうかと考えなおしている。たぶん一か月もしないで、うんざりしてしまうのではないか。
 我はこんな性格だから、会社勤めは無理だと自認していたし、じっさいどこも勤まらなかったが、人は働くべきだと考えている。どのようなものであれ「仕事」がある事は幸福であり、何も成すことなく、好きなことだけしろ、と命じられても最初は喜んでも苦痛となるのではないか。むろん生活のため金の事で頭悩まさないのならそれもまた安泰、安寧だとは思うものの。
 
 金の事を書いたが、母が死んで、今現在は母が遺してくれた保険のお金などで、正直多少の「臨時収入」が入った。むろんそれだって、我が働かずそれを自由に使ってしまえば、1年そこらで消えてしまう程度の額だが。そしてその金で、今まで買えなかったもの、家の備品や修繕にあてている。それでも母が死んで得た金を使うのは気が重く、万が一に備えてできるだけ貯蓄しておかねばと考えるが、今まで本当に金がなくて、手つかずで困っていたことも多々あったのだ。今、この機会にその金でまずそれを何とかしようと思った。車にETCも取り付けた。それさえあれば、初期投資はしても、結果として山梨に行く高速代がずいぶん安くなろう。
 今はそんなで、母が死んだ「臨時収入」で我家は大いに助かっているが、やはり後ろめたいだけでなく、金とは本来、自らが働いて得るものだとつくづく思えてきた。労働対価の報酬である。
 では、例えば、競馬でもパチンコでもいいが、ギャンブル、賭博のようなもので金を儲けるのはどうであろうか。ギャンブルは規模が大きくなるほど、その全体像は見えなくなるから、儲けた者は、反面金を失った者の姿は見えなくなる。
 むろん競馬場なら、賭けた金を失くすものと、当てて儲ける者が交差するからその金の流れの「関係」は窺い知れる。が、負けてもまた次はきっと儲けたい、儲かると考える者が大半であり、ギャンブルとは買ったり負けたりするものだと考える故、人はそれにはまるのであろう。
 しかし、仲間うちでする賭け麻雀、ポーカーのようなものでは、勝者と敗者の金の流れは一目瞭然である。それで後腐れなく人間関係が続けば良いが、負けた者は、金をかすめ取った者に恨みを抱くだろう。
 そして、勝って、目の前の男から金を全部巻き上げたとしてもその心中はどうであろうか。愉快であろうか。それで楽しいものだろうか。

 誰かの金を奪って、詐欺事件ではないものの、それで儲けて収入を得たとしても、人はそこに喜びを得ないものではないか。むろんギャンブルとは勝ち負けの世界で、いつまた勝者も敗者へと立場が入れ替わるかもしれないから、それは仕方ない、良しとすべきだという考え方もある。しかし、まっとうな人ならば、人を不幸にして、金儲けしたいとは考えないし、第一そんなして得た金は気持ち悪いと思うはずだ。ゆえに悪銭身に付かずという俚諺通り、またギャンブルやキャバクラ等に使い果たしてしまうのであろう。

 そして同様に「人生」もまた、自分だけが良ければ、楽しければ良しとはし得ないのでないか。
 トランプタワーに住む者は、乗ってる豪華タクシーを窓から、街中のゴミ箱を漁る老いたショッピングバックレディの姿を見ても何も心動かされないかもしれないが、もし、目の前に飢えに苦しむ子供がいたとして、自らは飽食していたとしたら、やはり安穏とはしてられないはずだ。
 飢餓や貧困、不幸に苦しむ人がいるのを知りながら、我が身だけの幸福を願い、満足することは人は本来できないと我は思う。むろん、それもまた運命であり、敗者もまた自己責任だという開き直りもできよう。オレは努力して金持ちになった、彼らは怠け者ゆえ、家を失いホームレスになったのだと。
 人とはそうした、他者との関係性において、個々の人生を考え、見つめ直すものだとするならば、その人生とは、我が物ではない。
 むろん人生とはその人だけの独自のものだ。しかし、自分だけの人生は本来存在しないし、人を不幸にして得る幸せはあってはならない。

 今、思うのは、人は、人と共に、人のために生きてこそ人だと。