人が人であるために・終わり ― 2017年01月26日 04時07分46秒
★自分勝手、自己中心主義の行きつく先は
と、エラソーなことを書いてきたが、今の時代、誰もが自分勝手、自己中心主義でも是とされるのである。何しろトランプ氏のような自己中心的人物が大衆の支持を集め世界のトップの座、現段階でこの地球の最高権力者となり得たのだから。
周知のとおり、どれほど根拠のない暴言、妄言を吐き、自分勝手な問題発言を繰り返そうともそれが許されてしまう。特に、「人気者」の前では、本来そうした人物を監視し批判すべき役割のメディアが委縮し、その権力にすり寄ろうとさえする。
こうした風潮は、日本でもかつての石原慎太郎元都知事に顕著であったし、高い支持率が何故か続く安倍晋三に対しても同様に思える。
そうした自分勝手さは、個人においては「正義」となる故に、今の社会は、ぎすぎすとした面倒な事態、軋轢やトラブルが多発してしまう。
亡き我が母は、近所にできた市営のコミュニティホールという集会所を借りて格安で葬儀をし終えたが、その施設ができる際に、近隣住民との間でひと悶着があった。
そこは広く市民活動全般のために誰でも使えるわけだが、葬儀場としても貸し出すことを問題視した一部の近隣「市民」が、自分の家の近所を喪服来た人たちがうろうろ通り過ぎるのは縁起悪いとか言い出して説明会はかなり紛糾したと聞く。
けっきょくその施設は完成し、そこで葬儀も安くできた我としては大いに助かったと思うのだが、今の世間はこうしたものなのである。人は自分の事、自分の都合しか考えない。
今は、保育所や幼稚園を新たに作るのだって、できると子供の声がうるさい、騒がしくなるからと反対運動が起きるし、除夜の鐘を打つのだって大晦日の風物行事のはずなのに、騒音公害となってご近所迷惑だからと控えるところもあると聞いて驚いた。
障碍者施設でさえも近所にできるとなれば反対運動を起こす人々か゛いるのではないか。今の時代、「公」として常識的に必要な施設でさえも「私」において不要無用であれば反対するのも正義とされるのである。
そうした住民エゴが堂々とまかり通る時代に、沖縄では新基地建設が住民の同意も賛成も得ていないのに反対運動を抑え込んで粛々と進んでいく。それもまた理解に苦しむ。沖縄には今も昔も人権がないのか。
さておき、今は、人は自分勝手、自己中心的であろうとも是とされ、それが「正義」ともなっていく。しかし誰もがそうして自らの事だけしか考えないのならば社会は立ち行かなくなろう。必ずそこに軋轢が生ずる。いつかは衝突となる。
むろん力ある者の「正義」がごり押しされ勝つのは言うまでもない。となると弱い者の義は、抑圧されときにテロ行為に走るかもしれない。特に国家的規模では。
そうして誰もが身勝手で、自己中心であろうともそれもまた当然とされる時代だからこそ、自らとは異なる他者に対する思いやり、悼む心が求められているのだと思う。
トランプ新大統領誕生には、分断と不寛容という背景が存在している。ならばこそ、人が人であるためにも寛容と忍耐こそ必要なのだと信ずる。
そう、これは自らに言い聞かせるために書いている。自分勝手に生き来た者として今悔いている。汝の隣人を愛さねばならなかったのだ。人が人であるために。
と、エラソーなことを書いてきたが、今の時代、誰もが自分勝手、自己中心主義でも是とされるのである。何しろトランプ氏のような自己中心的人物が大衆の支持を集め世界のトップの座、現段階でこの地球の最高権力者となり得たのだから。
周知のとおり、どれほど根拠のない暴言、妄言を吐き、自分勝手な問題発言を繰り返そうともそれが許されてしまう。特に、「人気者」の前では、本来そうした人物を監視し批判すべき役割のメディアが委縮し、その権力にすり寄ろうとさえする。
こうした風潮は、日本でもかつての石原慎太郎元都知事に顕著であったし、高い支持率が何故か続く安倍晋三に対しても同様に思える。
そうした自分勝手さは、個人においては「正義」となる故に、今の社会は、ぎすぎすとした面倒な事態、軋轢やトラブルが多発してしまう。
亡き我が母は、近所にできた市営のコミュニティホールという集会所を借りて格安で葬儀をし終えたが、その施設ができる際に、近隣住民との間でひと悶着があった。
そこは広く市民活動全般のために誰でも使えるわけだが、葬儀場としても貸し出すことを問題視した一部の近隣「市民」が、自分の家の近所を喪服来た人たちがうろうろ通り過ぎるのは縁起悪いとか言い出して説明会はかなり紛糾したと聞く。
けっきょくその施設は完成し、そこで葬儀も安くできた我としては大いに助かったと思うのだが、今の世間はこうしたものなのである。人は自分の事、自分の都合しか考えない。
今は、保育所や幼稚園を新たに作るのだって、できると子供の声がうるさい、騒がしくなるからと反対運動が起きるし、除夜の鐘を打つのだって大晦日の風物行事のはずなのに、騒音公害となってご近所迷惑だからと控えるところもあると聞いて驚いた。
障碍者施設でさえも近所にできるとなれば反対運動を起こす人々か゛いるのではないか。今の時代、「公」として常識的に必要な施設でさえも「私」において不要無用であれば反対するのも正義とされるのである。
そうした住民エゴが堂々とまかり通る時代に、沖縄では新基地建設が住民の同意も賛成も得ていないのに反対運動を抑え込んで粛々と進んでいく。それもまた理解に苦しむ。沖縄には今も昔も人権がないのか。
さておき、今は、人は自分勝手、自己中心的であろうとも是とされ、それが「正義」ともなっていく。しかし誰もがそうして自らの事だけしか考えないのならば社会は立ち行かなくなろう。必ずそこに軋轢が生ずる。いつかは衝突となる。
むろん力ある者の「正義」がごり押しされ勝つのは言うまでもない。となると弱い者の義は、抑圧されときにテロ行為に走るかもしれない。特に国家的規模では。
そうして誰もが身勝手で、自己中心であろうともそれもまた当然とされる時代だからこそ、自らとは異なる他者に対する思いやり、悼む心が求められているのだと思う。
トランプ新大統領誕生には、分断と不寛容という背景が存在している。ならばこそ、人が人であるためにも寛容と忍耐こそ必要なのだと信ずる。
そう、これは自らに言い聞かせるために書いている。自分勝手に生き来た者として今悔いている。汝の隣人を愛さねばならなかったのだ。人が人であるために。
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