主夫のブルース2010年暮れ2010年12月14日 21時35分41秒

★さすがに家事もうんざりだが。

 忙しいわけではないが、一日一日があっと言う間に過ぎていく。
 
 このところ外出もせず基本的に家にいて、炊事洗濯掃除をはじめ、大工のお茶出し、買い物まで全部大方一人でやっている。それは母が病気になり、何も任せられなくなったからであり、以前は作るのは自分でも後片付けとかは母が、という分担が一応出来ていた。食べるものを指示すれば出かけることも可能だった。それが任せられなくなったから結局何から何まで自分がやっているわけだが、正直うんざりもしてきた。

 漢方医から指示されせっかく苦労してあれこれ工夫して作っても胃が痛くないときでも母からもう飽きたとか食べたくないとか言われるとキレるし、それは父も同じで、量が多いとか辛いとか常に文句を言われ、箸がちっとも進まないのを無理に半ば恫喝と懇願して食べさせている。そうした介護というのか、老親の世話だけで精神的にも倦み疲れてくる。

 老いが大変だとか以前に、50代の息子が80代の老両親の世話を一人でする「老老介護」の現実を噛み締めている。おそらくこれは自分だけではないだろうし、片親であろうとも息子や娘、あるいは嫁がそうした面倒な手が掛かる老人の世話をしなければならないのはやはり一苦労、大変だと言わざるえない。

 しかし、それは病人の介護だって障害を持つ子供だって同じく周囲の人が背負う負担であり、たとえ赤ん坊の子育てだって不慣れな母親が一人でやっていたらきっとうんざりして頭がおかしくもなってしまうかもしれない。子どもも親も老人も等しく手がかかり世話しないと自らでは何もできないやっかいな者なのだから。

 訪問介護も重要だし、あるいは一時預けとかのショートステイ、老人ならばいっそ老人ホームに死ぬまで預けっぱなしにするという選択も可能であろう。じっさい友人の父は、アルツハイマーが悪化して、家族では面倒見切れなくなり仕方なく老人ホームに入れてしまった。今はただ生ける屍のようになってベッドに寝かされているのだろう。

 そうなれば楽だと思えなくもないが、人に意識があり、様々な感情がある間は、可能な限りそばにいて世話したいと思う。大変だと思えは゛大変だしうんざりだと思えばうんざりである。まあ、それは仕事だって、勉強だって同じことであり、それらは対価と先の保障に裏打ちされているから続く。残念なことに身内での介護や世話は、そこに何も利も得もない。子育てには終わりがあるが介護は死ぬまで続く。でもだからこそ、孔子らの言う「孝」となる。損得でないところに親子の愛がある。

 と、頭で割り切ってはいても、連日家にこもり、毎日同じ家事を繰り返していると気持ちはくさくさして鬱屈してくる。今はどうか知らないが、主婦という仕事が女の役割だとしたら、それは本当に我慢強くエライことだと思ってしまう。家の中に閉じ込められ、夫や子どもの世話と面倒をするだけの人生ならばそこにやりがいがあろうとも自分なら発狂していただろう。

 人は人のために生きるものである。が、人のためだけだとその人の人生はなくなってしまうでないか。家事も育児も介護も本来家庭内の誰か一個人だけが担当すべきことではない。男は仕事、女は家事、あるいはその逆も間違っていると自分は考えるのだが、そもそもその根本のところがおかしいから結婚できなかったのかなあとも今は思うし、結局、老親の世話を今は初老の息子一人で負う事になったのである。