怖れるな、全ての元凶は「不安」からだ。続き・ ― 2011年09月05日 15時46分38秒
★自信を持つこと、自らを肯定していくこと。
台風は通り過ぎたのに、昨日も今日も天気はどんより曇り空。時おり晴れ間も覗いたかと思うと、ザーとまた雨がふってくる。洗濯物が干せずに溜まる一方でどうしたものか。
近年あちこちに出かけその地方ごとに新たな友ができると、台風の豪雨や地震など災害発生の都度、そこに住む友はどうしているか気に掛かる。今回の台風では、ついこの間、訪れた三重県でもかなりの被害が出たようだ。
この日本、海沿いでなくとも絶対安全安心なところはない。都心には都心の、下町には下町の危険性が潜んでいる。増坊の住む町に沿って活断層が眠っている。防災対策を急ぐ前に、ここ日本は脆弱な地盤の上に乗っかった自然災害がやたら多発する国だと深く認識すべきであろう。特に近年、地球規模の異常気象により記録的、想定外の自然災害が頻発している。もはやどれほど対策をとろうと防ぐことはできやしないとまず認めるべきかと考える。
そこに老朽化した原発が54基も存在している。ひとたび事故が起きたらもっとも被害が広く大きくしかも長期的に続く原子力発電所を一日でも早く一つづつでもなくしていくしかない。
日本復興、再生と復活のためには電力が必要、原子力発電所が必要だという論はギャグでしかない。それもまったく笑えないギャグだ。相も変わらずバカは叫ぶ、進め、である。
さて、本題。
増坊の親父は、自分が知る限りこの世で一番ヘンな人で、子どもの頃から悩まされふりまわされてきた。自分もそうとうヘンだと自認しているがそれに輪をかけて変である。格闘マンガで言えば、範馬バギとその父勇次郎ほど力の差がある。
その性格を一言で言えば、超利己主義的不安神経症と呼ぶべきで、友人は若いときから一人もいないし、彼の関心は家族と猫以外に存在しない。そして何より問題なのは、かつては六尺男と呼ばれたほどの昔にしては珍しい大男なのに、ともかく気が小さく、取るに足りないことでも常に大騒ぎして夜も眠れなくなる。
彼の口癖は、「大変だ、問題だ、心配だ」であり、小銭入れが室内に置き忘れてみつからない、猫が一晩帰って来ないというだけでも夜通し探し回ったり、「心配だ、大変だ!」と騒ぎたて朝起きると目が真っ赤なので訊くと、そのことが気になり一晩眠れなかったと言う。
万事に渡ってそんな調子で、こちらも若いときから悩みうんざりもした。昔は自分も勤めに出たりして不在なことが多かったので、今ほど騒ぎにはならなかったが、近年二人して親子は日々長時間顔をつき合わしている。だから常にそうしたことは、ケンカの種にもなってきた。
そんな小心でよく自殺も発狂もせずに八十年以上も生きてこれたと不思議だが、何のことはない、要するに彼にとって不安だと騒ぎ立てることこそが彼の生き甲斐、存在理由のようなもので、それが楽だから騒ぐのである。でも周りはたまらない。振り回されて怒りうんざりもしてくる。そもそも他者の気持ちなど眼中に無い。心底自分勝手なのである。
彼には「世間」というものは一切存在しないから、外の世界のことは全く関心がない。ゆえに政治からスポーツから何から何まで一切合財全て他人のすることは馬鹿らしく、下らない、無駄だ無駄だと軽蔑している。自分だけが常に正しく、他はすべて否定してしまう。呆れるほどのネグレクトなニヒリストである。増坊も昔からずっと否定され続けてきた。お前はダメだダメだ、お前には無理だと頭ごなしに扱われた。
そういう異常な利己主義者を親に持つと、子供はどう育つか。告白すれば自分もまた親父ほどではないがずっと不安神経症であった。人前で緊張するどころか、外に出ると常に忘れ物はないか、落としたものはないかドキドキしている。また、他人が陰で非難したり、怒っているのではないかとあれこれ考え出すとその考えに囚われてしまう。そして何よりも問題は自らを、ダメだダメだと責め続けてきた。
実は、問題の根は父親から発しているのてはなく、彼を育てた彼の母、つまり自分にとっての祖母がまた問題であった。小学校に上がる前に亡くなったからはっきりとした記憶はないのだが、やはり相当変わった人で、幼児である増坊を頭ごなしにがみがみ叱り続け抑圧してきたと聞いている。「だからてつ(増坊の幼名)は、あんなにビクビクおどとおどした性格になってしまったんだ」と親戚からよく聞かされた。
つまり、その祖母が原因で、三代にわたり、異常な性格の子々孫々が続いたということになる。今思うと、その祖母も若いときに里子に出されよそ様の家で育てられたそうだから気苦労は耐えなかったのだろう。あれこれガミガミと上から口うるさく叱られて育ったに違いない。
そういう人は常に心の奥底に底知れぬ不安を抱えている。そして虐待を受けて育った子が親になるとまた自らの子を虐待するのと同じく、息子に不安の種を植え付けたのだろう。だから親父は自分のこと以外一切外のことには関心を失い、友達もつくろうとはしなかった。何故なら彼の心は不安の海で満杯であったからすべてに余裕がない。自分の不安で手一杯だったのだ。
映画『英国王のスピーチ』から思いついたことを書き始めたらつい私ごとにまで繋がってしまった。映画の王様は幸いにして、心から信頼のおけるローグという平民の親友を得ることができ、彼の怖れがもたらしていた幼少時からの「どもり」を克服することができた。
自分はまだ怖れから脱却ができていない。が、その不安の正体は何か、どこから来るかはもうわかった。残念なことに親父に限らず、この世には、常に自らだけが正しく、他者を常に批判、否定することでしか接することができない人が多々いる。その理由もまた心中に巣くう「怖れ」からだと今は理解できる。親父と同じく可哀相な人だと思う。
この前読んだ本で初めて知ったことだが、聖書の中で一番多く記されている言葉は、信じよ、でも、愛せ、でもなく、怖れるな、なのだという。それを知って、ああなるほどと得心、感心した。
そう、全ては怖れから起こる。怖れてならない。怖れは不安を生む。そしてその不安は失敗を、さらに他者への攻撃にさえ繋がっていく。
まずは怖れずに、自らを信ずること。自らを信ずることこそが「自信」であり、すべてのことがうまくゆく。皆さんにも神のご加護がありますように!
台風は通り過ぎたのに、昨日も今日も天気はどんより曇り空。時おり晴れ間も覗いたかと思うと、ザーとまた雨がふってくる。洗濯物が干せずに溜まる一方でどうしたものか。
近年あちこちに出かけその地方ごとに新たな友ができると、台風の豪雨や地震など災害発生の都度、そこに住む友はどうしているか気に掛かる。今回の台風では、ついこの間、訪れた三重県でもかなりの被害が出たようだ。
この日本、海沿いでなくとも絶対安全安心なところはない。都心には都心の、下町には下町の危険性が潜んでいる。増坊の住む町に沿って活断層が眠っている。防災対策を急ぐ前に、ここ日本は脆弱な地盤の上に乗っかった自然災害がやたら多発する国だと深く認識すべきであろう。特に近年、地球規模の異常気象により記録的、想定外の自然災害が頻発している。もはやどれほど対策をとろうと防ぐことはできやしないとまず認めるべきかと考える。
そこに老朽化した原発が54基も存在している。ひとたび事故が起きたらもっとも被害が広く大きくしかも長期的に続く原子力発電所を一日でも早く一つづつでもなくしていくしかない。
日本復興、再生と復活のためには電力が必要、原子力発電所が必要だという論はギャグでしかない。それもまったく笑えないギャグだ。相も変わらずバカは叫ぶ、進め、である。
さて、本題。
増坊の親父は、自分が知る限りこの世で一番ヘンな人で、子どもの頃から悩まされふりまわされてきた。自分もそうとうヘンだと自認しているがそれに輪をかけて変である。格闘マンガで言えば、範馬バギとその父勇次郎ほど力の差がある。
その性格を一言で言えば、超利己主義的不安神経症と呼ぶべきで、友人は若いときから一人もいないし、彼の関心は家族と猫以外に存在しない。そして何より問題なのは、かつては六尺男と呼ばれたほどの昔にしては珍しい大男なのに、ともかく気が小さく、取るに足りないことでも常に大騒ぎして夜も眠れなくなる。
彼の口癖は、「大変だ、問題だ、心配だ」であり、小銭入れが室内に置き忘れてみつからない、猫が一晩帰って来ないというだけでも夜通し探し回ったり、「心配だ、大変だ!」と騒ぎたて朝起きると目が真っ赤なので訊くと、そのことが気になり一晩眠れなかったと言う。
万事に渡ってそんな調子で、こちらも若いときから悩みうんざりもした。昔は自分も勤めに出たりして不在なことが多かったので、今ほど騒ぎにはならなかったが、近年二人して親子は日々長時間顔をつき合わしている。だから常にそうしたことは、ケンカの種にもなってきた。
そんな小心でよく自殺も発狂もせずに八十年以上も生きてこれたと不思議だが、何のことはない、要するに彼にとって不安だと騒ぎ立てることこそが彼の生き甲斐、存在理由のようなもので、それが楽だから騒ぐのである。でも周りはたまらない。振り回されて怒りうんざりもしてくる。そもそも他者の気持ちなど眼中に無い。心底自分勝手なのである。
彼には「世間」というものは一切存在しないから、外の世界のことは全く関心がない。ゆえに政治からスポーツから何から何まで一切合財全て他人のすることは馬鹿らしく、下らない、無駄だ無駄だと軽蔑している。自分だけが常に正しく、他はすべて否定してしまう。呆れるほどのネグレクトなニヒリストである。増坊も昔からずっと否定され続けてきた。お前はダメだダメだ、お前には無理だと頭ごなしに扱われた。
そういう異常な利己主義者を親に持つと、子供はどう育つか。告白すれば自分もまた親父ほどではないがずっと不安神経症であった。人前で緊張するどころか、外に出ると常に忘れ物はないか、落としたものはないかドキドキしている。また、他人が陰で非難したり、怒っているのではないかとあれこれ考え出すとその考えに囚われてしまう。そして何よりも問題は自らを、ダメだダメだと責め続けてきた。
実は、問題の根は父親から発しているのてはなく、彼を育てた彼の母、つまり自分にとっての祖母がまた問題であった。小学校に上がる前に亡くなったからはっきりとした記憶はないのだが、やはり相当変わった人で、幼児である増坊を頭ごなしにがみがみ叱り続け抑圧してきたと聞いている。「だからてつ(増坊の幼名)は、あんなにビクビクおどとおどした性格になってしまったんだ」と親戚からよく聞かされた。
つまり、その祖母が原因で、三代にわたり、異常な性格の子々孫々が続いたということになる。今思うと、その祖母も若いときに里子に出されよそ様の家で育てられたそうだから気苦労は耐えなかったのだろう。あれこれガミガミと上から口うるさく叱られて育ったに違いない。
そういう人は常に心の奥底に底知れぬ不安を抱えている。そして虐待を受けて育った子が親になるとまた自らの子を虐待するのと同じく、息子に不安の種を植え付けたのだろう。だから親父は自分のこと以外一切外のことには関心を失い、友達もつくろうとはしなかった。何故なら彼の心は不安の海で満杯であったからすべてに余裕がない。自分の不安で手一杯だったのだ。
映画『英国王のスピーチ』から思いついたことを書き始めたらつい私ごとにまで繋がってしまった。映画の王様は幸いにして、心から信頼のおけるローグという平民の親友を得ることができ、彼の怖れがもたらしていた幼少時からの「どもり」を克服することができた。
自分はまだ怖れから脱却ができていない。が、その不安の正体は何か、どこから来るかはもうわかった。残念なことに親父に限らず、この世には、常に自らだけが正しく、他者を常に批判、否定することでしか接することができない人が多々いる。その理由もまた心中に巣くう「怖れ」からだと今は理解できる。親父と同じく可哀相な人だと思う。
この前読んだ本で初めて知ったことだが、聖書の中で一番多く記されている言葉は、信じよ、でも、愛せ、でもなく、怖れるな、なのだという。それを知って、ああなるほどと得心、感心した。
そう、全ては怖れから起こる。怖れてならない。怖れは不安を生む。そしてその不安は失敗を、さらに他者への攻撃にさえ繋がっていく。
まずは怖れずに、自らを信ずること。自らを信ずることこそが「自信」であり、すべてのことがうまくゆく。皆さんにも神のご加護がありますように!
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