全てことは時と場所を選ぶ2012年08月10日 09時52分06秒

ウエル・カム・バックの皆さん
★たかが音楽。だからこそ「場所」が大きく関係してくる。

 ええかげん祭りについて宣伝を兼ねて書いた。東京からでも本当はツアー組んで行けたらと思う。こんな話を人にして誘うと、「五郎さんにしろ、律ちゃんにせよ、マスダのとこでも演っただろうし、何もそんな遠いところまで足伸ばすことはないだろう」という声が届く。
 だが、それは個々のミュージシャンしか捉えていない言いであり、音楽のイベント、特にフォークフェスというものは個々の出演者以前に場所、会場というものが大きく影響してくる。ある意味、ミュージシャンなんてものは基本的にいつも同じ歌を唄い同じことを繰り返すものなのだ。だからこそ、場所と他の出演者などの「関係性」が大きく影響してくる。場の雰囲気、そのときどきのサポートメンバー、そして観客の多寡、反応の大小などで歌や演奏の出来はかなり違ってくる。

 うたとはある意味、生き物であり、同じ曲でも、作った頃と何十年も唄い続けた後は全く違ってくる。そこに歳月と歌い手自身の内面の変化が加わりうたそのものに対する意識すら変わってくる。そして出来不出来以前に日々カタチを変えていく。歌謡曲、中でも演歌のようなものは同じ伴奏カラオケで常に唄うものだから変わりようがないし、変わらない事こそ商品価値がある。自分が考える「うた」はそうしたものとは真逆のところにずっと位置している。

 うたは常にその時々の「時代」と「場所」=観客との関係性の間で揺れ動いている。そうでないものを「うた」と考える人たちもいよう。しかしうたに限らず、詩でも小説でも絵画でも実は全ての芸術とはそうした時と場所との関係性から抜け出せない。それは人の営みすべてが同じことなのだ。

 ゆえに、聴き慣れた音楽、歌い手であろうとも場を変えるとまた新鮮だったり全く違う印象を受ける。人は環境の動物であるなら芸術もまた同じく環境のものなのである。そのいつみとは異なる環境で歌い手も聴き手も音楽に新たな気持ちで向き合う。そこに意義がある。中川五郎氏はつい先日もライブで観た。しかし、そこ、津のええかげんという異空間で聴く彼はまた別なものである。彼自身がどこがいちばん好きかとか唄いやすいとかあるかも知れないが、律さんにせよ大好きなシンガーだからこそ、えええかげんでたっぷり観たい、聴きたいと願う。彼らの音楽にはこの場所がいちばん似合うような気がする。

 そして全てのことには「時」があり「場所」もある。来年もまたええかげんで夏祭りとしてフォークフェスはあるかもしれない。そして同様のメンバーが登場するかもしれない。しかしそれは今年のものと同じではない。そこで唄われるうたも同じだとしても全く違う出来であり、観客も全てが違ってくる。人は移ろい変わっていく。ならばうただって同じことだ。
ある意味、2012年のええかげん祭りはその日、そのときだけことで、後にも先にもない。また来年あるさ、とか東京でも観れると考えないほうが良い。先のことは誰もわからない。全ては刻々変わっていく。

 「今」はいつだって今このときだけであり、つかまえたとたん、するっと過去へ後ろへと逃げていく。だからこそそのときそのときその場しか
ないんだと、ようやくわかってきた。いつかこれから、また今度なんてないのである。
 全てのことには時があるるならばその時を逃してはならない。何事もいつかそのうち、と先延ばしにしてきた自分の愚かさを呪うしかない。

消費税10%の社会へ2012年08月10日 19時20分42秒

★消費税は日本の将来に向けて安定した財源ではない。

 本日の参議院本会議で、民自公の大増税連立談合トリオの賛成多数でついに税と社会保障の一体化法案が成立し近く消費税が現行の倍にまで上がることが決定した。

 野田首相となったとき、政治生命をかけてやり遂げるとした悪法がついに成立したことは特に驚くに値しない。そもそも消費税のアップは、財界の意を受けた自民党政権の頃からの財界、霞ヶ関の悲願であり課題であったのだから、政権をとって代わった民主党までが増税法案を出すなら数においてそもそも成立しないはずがなかった。

 けっきょくこれが夢の二大政党制の本質なのである。さんざんマスコミは日本でも米国や英国に倣って政権交代がたやすくなる二大政党が必要だとさんざん煽ってきた。そしてついに自民党から民主党に政権交代はなったが、何のことはない元々第二自民党でしかなかった綱領すらはっきりしない寄せ集めの政党は、掲げたマニフェストはほとんど成し得ずに迷走、政権運営に行き詰まり自民党にすり寄る他なく念願の消費税大増税だけは成し遂げたのだ。
 民主党に期待し一票を託した国民はまんまと騙され増税と言う煮え湯を飲まされる羽目となった。まあ自業自得と言えなくもない。元々政策に自民党とはほとんど差がなかったはずの民主党が、選挙に臨んではできもしない、耳当りの良い公約をいくつも並べた。しかしコンクリートから人へ、どころかダム建設は続くし、沖縄の基地移転は相変わらず、子供手当ての迷走、そしてマニフェストにはなかった、まずは増税ありきの社会保障一体化法案成立なのである。

 確かに日本の近い将来を考えるとき、世界でも類のない少子高齢化社会を迎えるこの国は、社会保障の安定のためには新たな財源が必要だというのは事実であろう。しかし、そのために国民が身を切って、多額の消費税を負担するというのはどう考えてもおかしな理屈ではないか。それはタコが自らを足を食べているのと同じで、社会保障の財源をそれを利用する側に求めるのは理に合わない。益を受ける側と負担する側が同じで、しかも低所得者層がさらに多く負担するのである。
 それでもそれは「増収分は全額社会保障で還元される」とする首相の約束が守れての話であり、あろうことか三党合意には「成長戦略や防災及びに減災に資する分野に資金を配分する」と明記されているのだから、またまた公共事業に消費税増税分は回される可能性が高い。
 日本の将来を憂うマジメな国民の多くはこのままではこの国は大変だと、大新聞などのメディアに煽られて、増税もまた仕方なしとしぶしぶ消費税増税を追認する声もあるが、増えた消費税は社会保障に果たして使われるのか自分はかなり怪しいとにらんでいる。これもまた毎度の政治的詐欺、国民をだますイカサマなのである。

 社会保障のあり方は、財源を消費税に頼り、広く国民に負担させるのではなく、ワーキングプアなど新たな貧困者層が増えているということはどこかに富が蓄積されていることに他ならないわけで、そこに課税するしかない。それは大企業や法人、富裕層に対する課税と官僚などの天下りの絶対禁止などさらなる無駄の削減である。そして米軍への思いやり予算の廃止、政党助成金の廃止、軍事費の削減など別な安定財源から回していくべきである。

 このまま国民に更なる増税を課せば、やがてはタコが自らの足を食べつくしたら死ぬように、国民は生きていけなくなる。生活保護者バッシングのように、消費税を上げても社会保障は安定も改善もされない。