目に見えないもの、言葉や形にできないものこそが2012年08月20日 19時21分40秒

★カタチあるものからカタチにできないものへ

 日中はまだまだ陽射しは強く残暑厳しいが、朝晩はだいぶ涼しく過ごしやすくなってきた。もう夏も終わりである。涼風が吹く角夕暮れはまた味わいがあるものだ。

 今月も残り少なくなってきて、今は25日のサマークリスマスの準備に追われている。当日配布するパンフ、レジメなどをまとめ上げてウチのレーザープリンタで印刷しなければならないのである。果たして当日に間に合うのか、他の用事も重なっていてうまく全て成し遂げられるかこの数日が勝負である。

 さて、抽象的なことで、うまく説明できるとも伝わるとも思えないが、このところ考えていることを書く。
 自分を知る者、ウチに来た方はご存知のようにモノ好きであり、モノに囚われ、沢山のものに囲まれてそれを整理も処理もできずに抱えて生きてきた。それは今も変わってはいないのだけれど、先の短い旅行で得た教訓のようなものは、大事なものは物ではなく、カタチにできないもの、目に見えないものこそが大切なのだ、ということだった。
 何をそんな当たり前のことを、とお嗤いになるだろう。自分だってそのことは理屈として頭では理解していた。しかし本当はよくわかっていなかった。つまり、理論としては正しいしそうあるべきだとしても自分とは関係のない、また別のことだと考えていた。

 だが、今回のええかげん祭りで、登場した金森幸介、そしていとうたかおとのステージを聴いて本当にそのことを深く体感した。打ちのめされたと言っても良い。魂のいちばん深いところに彼らのうたは届いた。そしてこれこそが自分が求めていた「音楽」だと気づいたし、本当に大事なことは、カタチあるモノではなく、目に見えないがそこに存在する確かなものだと気づかされた。

 考えてみれば、愛にしろ友情にしろ信頼にせよ、信仰にせよ本当に大事なものはすべてカタチなどない目に見えないものだ。それは全て心の中にあるものであり、何の保証も裏打ちもされていない。だからこそそれは尊いものであり、真に価値がある。
 そして音楽。目に見えるものでないし、その場そのときで消えてしまう。でも聴いた者の心にその見えないものは確かに伝わりいつまでもしっかりと残る。

 その反面、モノの極致は金であろう。つまり全ての実体のあるものはすべて金で換算、置き換えが利くものであり、金はモノの尺度である。
 自分はそうした金の経済、物質文明を表向きは否定してきたが、じっさいはどっぷりそれに浸かっていた。つまり金として価値を認めなくてもモノとして囚われて抜け出せず結果不自由になるというジレンマに陥っていたのだ。

 まったくもって当たり前すぎることであるが、本当に大事なものはモノではないという真理にようやく思い至った。モノから開放され目に見えないもの、言葉にできないものをもっと大切に、意識を向けなければならないと気づかされた。
 人はもっともっと内面に向けて内向的になるべきではないか。このところ自分はそう考えている。そして内なる声にもっと真摯に耳を傾けたい。
 これは霊的なことやスピリチュアルなことを言っているのではない。ようやくだが、本当に大事なもの大切なことは何か当たり前のことがわかったのだ。
 それはモノではなく、目に見えないもの、形や言葉にできないものこそが真に大事な人を動かす大切なものだと。