私に芸術とよべるものがあるなら ― 2015年01月16日 13時25分22秒
★だからこそ倦み疲れた人生の中で、 芸術が価値を持つ ランキング:198位
不安にかられるというか今強い胸騒ぎに襲われている。心臓がドキドキしている。これが単なる気の迷い、心気症的な一時的な発作に過ぎなければよいのだが。
何人かの連絡取れない人にメールなりファックスを送ってとりあえずまた反応を待つとした。先の阿佐ヶ谷でのイベントにも関わってくれたスタッフには全体像を録音した荒編した音源を郵送した。
当日は受付にいたり中に入れず外で過ごした方々なのでせめての償いである。聴いて頂き、その感想など返ってくれば良いのだが。
今月は雌伏のときとしてもこれからのことについてそろそろ決めて準備も進めなくてはならない。無頼庵でのことも含めて何をやるにせよ日時は自分の一存では決められない。ウチでも他の企画や外のイベントとの調整もある。今月中に、2月からの予定が出て発表できれば良いのだが、それも幾つかのライブイベントに顔だしてそこで関係する方々と相談してからのことだ。
先だって亡くなられた笠木透さんのうたに「私に人生とよべるものがあるなら」という佳曲があったが、「人生」とは何か真摯に問うことはさておいて、もしそれが「生活」と同義だとしたら、我が人生は実に生活に満ちている。
そしてそんな糠みそ臭い、いや、今は糠漬けはやってはいないが、日々生活に追われる人生などまっぴら御免だという気持ちで自分は生きてきた。そう、仕事を抱えての老親たちの介護も含めて、人生とは実にうんざりするほど面倒でちっとも楽しくない。辛いことばかりではないか。
毎日毎日がルーティンワークの積み重ねであり、一週間もひと月も一年もあたふたしているうちにあっというまに経ってしまう。季節は繰り返し何もできずに歳だけとっていく。
たぶんそうして人は、自分も含めて生まれてそうして無為に死んでいく。
たぶんそれは自分だけではなく、多くの普通の人たちが抱く思いではないか。うんざりではあるが投げ出すわけにもいかない。何とかそれを抱えてその中でひと時の慰安を待ち大事にしていくしかない。
それは酒やプロ野球や、Jリーグや、パチンコや競馬かもしれない。あるいは若い人ならアイドルとのイベントや様々なネットのサイトであるかもしれない。宝塚観覧だという女の人も知っている。
我、マス坊自分にとって、それはこうしてブログを書くことよりも今はともかく「音楽」であって、それは聴くことではなく、その数倍も自らが音楽に直接関わることとなっている。そして嗤われるだろうが、それこそが自分にとっての「芸術」なのだと信じたい。
むろん好きなミュージシャンや歌い手たちにライブなどの活動の場を設けたり、応援していくこともその中には入る。しかし今はそんなことよりもまず自分自身が唄いたいうたを自らのモノにしたいとか、うたを通して自らの思いをカタチにしたいという気持ちのほうがはるかに強くなっている。
そんなものは誰も聴きもしないし相手にもしない。しかし、日曜画家が日曜に絵筆をとるのは、別にその絵が売れることや観客を意識した個展目指してではないように、我がうたと音楽もまずは自分がその行為を求めたからに過ぎない。
ブログも含めて文章を書くことも好きだが、それはただ大食い選手権に出られる人と同じく、単にいくらでも食べられる、書ける、苦ではないというだけであって、その食べ物が好きだからではない。つまり水泳が得意でいくらでも泳げる人がいたとしてもそれで飯が食えないように、あまり意味がない。じっさいのところ文章で飯食おうとか表現手段としようなんて考えたことない。
そんなことよりも今もっとも関心あるのはうたと音楽であって下手で苦手で拙いからこそもっともっとうまく思い通りにうたを作りそのうたを自らが唄えるようになりたいと強く心から願う。今はじっさい寝ても覚めてもうたのことしか頭にない。
思い通りに、この思いをうたにして、思いどおりに歌うことはかなわないのかと考え続けている。そのためにはともかく練習して唄い続けうたを自らの内に入れて行かなくてはならない。楽しいかって?自分の演ったステージを聴くことぐらい辛く情けないことはない。いつも思うのは何て下手くそか! で、穴があったら入りたい、だ。
しかし、このことは実は誰にだって似たようなものはあるはずだ。自分がうたに出会ったように、絵画でも詩作でもあるいは舞踊やダンスでも陶芸でも人にはそれぞれの「芸術」が実は誰にでも存在している。
むろんそれはそのことでプロにはまずなれはしないし、励みや熱中の度合いも人それぞれ違うだろう。しかし、単に仕事帰りに酒飲んでテレビで野球や大相撲見て、そのままいつしか寝てしまう人生とは違う、「消費」するだけではない、確かな人生が実は誰にもあるのである。
つまり生きていくことが「消費」と同義ではなく、そこからどんな人間でも「生産」し生み出すことができること、それが誰にとっても「芸術」なのだと声を大にして叫びたい。
それを趣味と呼ぶこともできよう。しかし、真の芸術はその人個人の独自の表現行為であり、拙かろうがじつはその人だけのものなのだ。巧拙はまったく関係なく、そこにその人自身の確かな思いや独自性があればそれこそが芸術だと言えると信ずる。
問題は、今の時代そうした芸術行為になかなか人は出会えずに、皆それぞれがダイヤモンドの原石でありながら気づかないまま何一つ生み出すことなくその人生を消費だけで終わらせてしまうことだ。
詩だってうただって楽器だって、あるいは短歌や和歌、そして絵画やイラスト、ダンスや舞踏、演劇だっていい。まずは趣味から入ってそしてそれを貴方自身の独自の表現行為、芸術に高めてほしいと願う。
みんな違ってみんな良い、それこそが人間が人間である証でもある。
貴方の芸術を聞かせて、見せてくれませんか。代わりに僕は、僕のつくった下手くそなうたを一生懸命歌います。
不安にかられるというか今強い胸騒ぎに襲われている。心臓がドキドキしている。これが単なる気の迷い、心気症的な一時的な発作に過ぎなければよいのだが。
何人かの連絡取れない人にメールなりファックスを送ってとりあえずまた反応を待つとした。先の阿佐ヶ谷でのイベントにも関わってくれたスタッフには全体像を録音した荒編した音源を郵送した。
当日は受付にいたり中に入れず外で過ごした方々なのでせめての償いである。聴いて頂き、その感想など返ってくれば良いのだが。
今月は雌伏のときとしてもこれからのことについてそろそろ決めて準備も進めなくてはならない。無頼庵でのことも含めて何をやるにせよ日時は自分の一存では決められない。ウチでも他の企画や外のイベントとの調整もある。今月中に、2月からの予定が出て発表できれば良いのだが、それも幾つかのライブイベントに顔だしてそこで関係する方々と相談してからのことだ。
先だって亡くなられた笠木透さんのうたに「私に人生とよべるものがあるなら」という佳曲があったが、「人生」とは何か真摯に問うことはさておいて、もしそれが「生活」と同義だとしたら、我が人生は実に生活に満ちている。
そしてそんな糠みそ臭い、いや、今は糠漬けはやってはいないが、日々生活に追われる人生などまっぴら御免だという気持ちで自分は生きてきた。そう、仕事を抱えての老親たちの介護も含めて、人生とは実にうんざりするほど面倒でちっとも楽しくない。辛いことばかりではないか。
毎日毎日がルーティンワークの積み重ねであり、一週間もひと月も一年もあたふたしているうちにあっというまに経ってしまう。季節は繰り返し何もできずに歳だけとっていく。
たぶんそうして人は、自分も含めて生まれてそうして無為に死んでいく。
たぶんそれは自分だけではなく、多くの普通の人たちが抱く思いではないか。うんざりではあるが投げ出すわけにもいかない。何とかそれを抱えてその中でひと時の慰安を待ち大事にしていくしかない。
それは酒やプロ野球や、Jリーグや、パチンコや競馬かもしれない。あるいは若い人ならアイドルとのイベントや様々なネットのサイトであるかもしれない。宝塚観覧だという女の人も知っている。
我、マス坊自分にとって、それはこうしてブログを書くことよりも今はともかく「音楽」であって、それは聴くことではなく、その数倍も自らが音楽に直接関わることとなっている。そして嗤われるだろうが、それこそが自分にとっての「芸術」なのだと信じたい。
むろん好きなミュージシャンや歌い手たちにライブなどの活動の場を設けたり、応援していくこともその中には入る。しかし今はそんなことよりもまず自分自身が唄いたいうたを自らのモノにしたいとか、うたを通して自らの思いをカタチにしたいという気持ちのほうがはるかに強くなっている。
そんなものは誰も聴きもしないし相手にもしない。しかし、日曜画家が日曜に絵筆をとるのは、別にその絵が売れることや観客を意識した個展目指してではないように、我がうたと音楽もまずは自分がその行為を求めたからに過ぎない。
ブログも含めて文章を書くことも好きだが、それはただ大食い選手権に出られる人と同じく、単にいくらでも食べられる、書ける、苦ではないというだけであって、その食べ物が好きだからではない。つまり水泳が得意でいくらでも泳げる人がいたとしてもそれで飯が食えないように、あまり意味がない。じっさいのところ文章で飯食おうとか表現手段としようなんて考えたことない。
そんなことよりも今もっとも関心あるのはうたと音楽であって下手で苦手で拙いからこそもっともっとうまく思い通りにうたを作りそのうたを自らが唄えるようになりたいと強く心から願う。今はじっさい寝ても覚めてもうたのことしか頭にない。
思い通りに、この思いをうたにして、思いどおりに歌うことはかなわないのかと考え続けている。そのためにはともかく練習して唄い続けうたを自らの内に入れて行かなくてはならない。楽しいかって?自分の演ったステージを聴くことぐらい辛く情けないことはない。いつも思うのは何て下手くそか! で、穴があったら入りたい、だ。
しかし、このことは実は誰にだって似たようなものはあるはずだ。自分がうたに出会ったように、絵画でも詩作でもあるいは舞踊やダンスでも陶芸でも人にはそれぞれの「芸術」が実は誰にでも存在している。
むろんそれはそのことでプロにはまずなれはしないし、励みや熱中の度合いも人それぞれ違うだろう。しかし、単に仕事帰りに酒飲んでテレビで野球や大相撲見て、そのままいつしか寝てしまう人生とは違う、「消費」するだけではない、確かな人生が実は誰にもあるのである。
つまり生きていくことが「消費」と同義ではなく、そこからどんな人間でも「生産」し生み出すことができること、それが誰にとっても「芸術」なのだと声を大にして叫びたい。
それを趣味と呼ぶこともできよう。しかし、真の芸術はその人個人の独自の表現行為であり、拙かろうがじつはその人だけのものなのだ。巧拙はまったく関係なく、そこにその人自身の確かな思いや独自性があればそれこそが芸術だと言えると信ずる。
問題は、今の時代そうした芸術行為になかなか人は出会えずに、皆それぞれがダイヤモンドの原石でありながら気づかないまま何一つ生み出すことなくその人生を消費だけで終わらせてしまうことだ。
詩だってうただって楽器だって、あるいは短歌や和歌、そして絵画やイラスト、ダンスや舞踏、演劇だっていい。まずは趣味から入ってそしてそれを貴方自身の独自の表現行為、芸術に高めてほしいと願う。
みんな違ってみんな良い、それこそが人間が人間である証でもある。
貴方の芸術を聞かせて、見せてくれませんか。代わりに僕は、僕のつくった下手くそなうたを一生懸命歌います。
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