世界をもっと大きく広く、そして深く・続き2015年01月31日 09時37分58秒

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 雪は幸いにして大したことなかった。雨上がりの明るい陽射しのある朝である。さほど寒くもなくとても気持ちいい朝だ。ここ多摩地区でも田畑はともかく路上には雪はほとんど残っていない。
 昨日の雪が地上の汚れを全部洗い流してくれたようで空気はものすごく澄み渡っている。

 歳をとると全てが緩くなると思うのは自分だけだろうか。だらしなくなるといっても良い。体に関しては下のほうも緩く近くなってきたし、このところ涙脆くなってきて自分でも不思議でならない。50代の男子としては早すぎるか。いや、同世代の皆が小便が近くなったとこぼしている。

 感情の起伏も大きく、音楽を聴いたり映画をみたり何かを読んだり書いたりふとしたときに思わず涙が出てきてハズカシイ思いをしている。ささいなことにでも感情が揺れ動く。まるで十代思春期の乙女である。感情のバルブもまた老朽化して緩くなってしまったのか。それとも今さらだが心が敏感になってきたのか。
 嗤ってください。自分で唄いながら感極まって泣いてしまうことすらよくある。涙でうたが唄えなくなって困る。特に笠木さんのうたを今練習していると、彼の歌声に合わせて演っていると必ず泣いてしまうのはどうしたことか。
 でもこうも思う。それは悪いことではないだろうとも。

 昨日、格安スマホの申し込みをした。今使っている携帯電話は二台目だが、もう10年近く経ち、内臓電池がバカになってきてすぐに切れてしまうのである。仕方なく頻繁に切って電池を保ってはまたスイッチ入れたりとだましだまし使っている。
 もともと携帯電話など持ち歩く気もなかったしそんなに使わなかったのだが、昨年の秋からあれこれあって出歩くことも多くつい携帯を多用してしまった。そしたら今月の支払いは一万五千円である。古いタイプだから電話としか使っていない。自分でも驚き呆れ果てた。これは実に無駄ではないか。

 ハズカシイ話、マス坊は、そのケータイでメールすら打てない。そもそもそうした機能は付けなかった。今はせいぜいCメールは届くが自分からは発信できない。パソコンはあったし、メールやネットでのやりとりなどは家に戻りパソコンでやれば良いと考えていたからだ。

 しかし、ネットにもアクセスできず、電話として通話だけで一万円も携帯電話に払うのは実にバカバカしい。むろんできるだけ使わなければ基本料金内だけで収まるかもしれない。しかし、もうそろそろ耐用期限に迫ってきたことと、やはり外でもネットとかにアクセスできたほうが便利ではないかと思えてきた。じっさい山梨へ行けばそこからはこのブログさえ更新できないのである。

 またイラクで拘束されている後藤健二氏の最新情報も外にいると知ることができない。世界はめまぐるしく動いているのにその流れについていけない。知りたい情報を知るのは家にいてパソコンを開かないとわからないというのはやはり不便に思えてきた。
 それは発信ということも同様で、もし数日間でも家を空けてしまえばその間は何一つブログも含めて発信できなくなる。自分はまだフェイスブックなどやっていないが、スマホさえあれば外にいてももっと広く世界に情報を発信できるのではないのか。

 インターネットは万能だとは思わないし良いことばかりではないだろう。しかし世捨て人として、外の世界を遮断し古民家に籠って本とレコードなど古いものに埋もれ耽溺して一人だけで生きていく道を望まないのならばいかにして早く簡便に「世界」と繋がる道を模索しなければならないのではないか。

 年明けからずっと考え続けていたが、まずはスマホなるものを手に入れて自分でも使ってみようと思った。今までは全く関心も興味もなかったはずなのだが。

 今日はかけこみ亭で、先にお知らせしたように「笠木透追悼のライブ」がある。それだけ参加して以後しばらく2月、3月の間は家に籠って懸案のことを処理して4月からの再出発に向けてあれこれ備えていきたい。スマホもその流れにある。

 嗤われるだろう。が、この世界と卑小かつ涙脆い自分がどう向き合い何ができるのか、何をすべきなのかもう一度問い直したいと思っている。
 世界をもっと大きく広く、そして深く知りたいと心から願っている。それこそが真に生きることなのだと信じて。