人の「死」とは何か、ようやくわかった・前2016年09月14日 21時01分00秒

★生きていた証を残していく

 母が死んで一週間近く経とうとしている。慌ただしさは一段落したかというとそうでもなく、人が来たりあれこれまだ書類上の手続きも多々あって終わりが来ない。
 いつまた元の生活に戻れるかと考えると、「元」の状態にはそもそも母がいなくなってしまったので、不可能だと気づく。認知症かつ自らは歩行困難な障害を持つ高齢の父と二人で、母不在の新たな生活、システムを作っていかねばならない。
 今までも母は寝たきりとなってしまってから、我が食事から洗濯までいっさいの家事をやってきた。そしてそこに母の紙オムツ交換などの昼夜関係ない介護が加わっていた。
 その時間と手間はなくなったので楽にはなったわけだけれど、様々な残務処理と精神的打撃から立ち直れず次へと移行できないでいる。

 母は介護ベッドに寝たきりで、もう最後のほうは、排便が起きた時などだけ、チャイムを鳴らして我の介助を求めたが、それ以外はほとんど自発的発話はなく、声もかすれ話すのも辛くなっていたのか目を閉じて起きているのか眠っているのかわからないような状態でいた。
 しかし今思えば、我家のリーダー、主導権を握っていたのは母であり、我は何でも母に語らい、声かけて日々の生活、日常は進んでいた。日々交互に看護師が来たり介護ヘルパーが来たり、週一で訪問診療で医師が来たりして日々過ぎていった。

 父がデイケアに行かない日は、母と父とに、その母の介護ベッドの上に簡易テーブルを渡してそこで父も交えて三度の食事を摂らせた。我は落ち着いて食事した記憶はないけれど生活のすべては母中心にまわっていた。
 今調べてみると、そうした暮らしは、7月25日、母が一度目の高熱で救急搬送で入院して戻ってから始まった。もはや元の生活は無理とのことで、大慌てで玄関わきの部屋を空けて介護ベッドを導入したのだった。ずいぶん前のこと、その期間も長かった気がしたが、9月8日まで、わずか一か月ちょっとのことである。

 母が遺骨へ変わり、母が使っていた介護ベッドも返却してなくなって、また以前の居間での生活に戻ったわけだが、我家という船は、母という船長不在のまま波間を漂っている感じがしている。
 別に母が舵を握って進路を決めていたわけではない。じっさいに動かしていたのは我であった。が、何でも母に相談してすべては母中心にその船は動いていたから、船長の不在は本当に困る。
 何より進むべき海図を持ったまま母は逝ってしまったから、乗組員である我と父は今も途方に暮れている。

 いつまでもこうして波間に漂い、進むべき方向を見失っていてはいけないと思う。途方に暮れつつ眼前の残務処理だけ少しづつ終わらせ、哀しみに押し潰されないよう、アルコールで意識を朦朧とさせて我ら父と子は一日を終える。
 それで朝までぐっすり深く眠れれば良いのだが、必ず深夜に、2時とか3時、今日など一度零時頃に起きて、数時間おきに目が覚めてしまった。
 それは母が生きていた時の習慣で、母が我を呼ぶチャイムに起こされなくてもそうした細切れ睡眠が習慣となってしまったからだ。目覚めてもまたすぐに眠れれば問題ない。が、たいていは一度トイレに起きてしばらくベッドのうえで本やスマホを手に取っている。夜が長い。つい母とのことをまた考えてしまう。そして泣きながら眠りにつく。

 まだ先は見えてこないが、今回の騒動の残務処理は間もなく終わる。父もデイケアを再開させるだけでなく、お泊りもできるデイサービスも行けるよう手続きもとった。
 だから、そうして父をどこかに預けてしまえば、我はまた自由に何でもできるし出かけられる。夜通しライブハウスなどで飲み明かすことだってできる。
 しかし、母の遺骨がある今は、その母を残して家を空ける気がどうしても起きない。父に留守番を頼み、父に家にいてもらえるなら出かけられる気がする。が、父も我も不在で母を一人にしておけない。
 おかしな話だ。母はその白木の箱の中になんかいないとわかっている。でも、母が最期を過ごした部屋で、花に囲まれた母の遺影と遺骨、位牌などが置いてある間は、留守にはできないと思う。骨になっても母一人にしてしまうのはかわいそうでならない。

 もう少し時が過ぎ、残務も片付き一段落すれば、また元通り音楽でも国会前行動でも何でもできるはずだ。が、今はまだどうしても我を待っているはずの友たちとも連絡する気もまだ起きないでいる。申し訳ないがこの場を借りてお詫びしておく。

 母の魂はもうこの家にはいない気がしている。が、母がいたこと、生きていた証に我はもう少しひたっていたい。
 そう、今も日々ことあるごとに我は母の写真に語りかけ相談している。いったいどうしたものかと。遺影の母は穏やかに笑っているだけでもう何も答えてくれないけれど。