「共謀コンサート」来年は、まず2月24日、第三回目を。2017年12月14日 06時07分44秒

次回は、よしこさんとみほこんの顔合わせで
★先のコンサートで配布した次回告知のチラシ、転載します。

 さておき、何はともあれまだ我は生きているし、生きて行かねばならないのだから、ともかくまず今できること、すべきことを少しづつでもやっていくしかない。
 そして、その日、そのときに備えていくことだ。

 すべてが国家と大企業に管理、収奪されてしまった時代だけれども、だからこそ自由と個人尊厳という「希望の灯」を灯し続けねばならない。
 街は変わり人も変わり時代はただ過ぎてゆく。が、時代がどれほど移り変わっても、そのときどき必死に生きていた人たちの思い、その意思は、後の世までも大事に語り継がねばならないのではないのか。
 我も含め、人は弱く愚かで過ちを繰り返す。だからこそ広島の被爆者、サーロー節子さんのノーベル平和賞受賞式での講演が我々の心を打つ。※以下抜粋で。
 
米国が最初の核兵器を私の暮らす広島の街に落としたとき、私は13歳でした。私はその朝のことを覚えています。

 8時15分、私は目をくらます青白い閃光(せんこう)を見ました。私は、宙に浮く感じがしたのを覚えています。静寂と暗闇の中で意識が戻ったとき、私は、自分が壊れた建物の下で身動きがとれなくなっていることに気がつきました。私は死に直面していることがわかりました。
 私の同級生たちが「お母さん、助けて。神様、助けてください」と、かすれる声で叫んでいるのが聞こえ始めました。

 そのとき突然、私の左肩を触る手があることに気がつきました。その人は「あきらめるな! (がれきを)押し続けろ! 蹴り続けろ! あなたを助けてあげるから。あの隙間から光が入ってくるのが見えるだろう? そこに向かって、なるべく早く、はって行きなさい」と言うのです。私がそこからはい出てみると、崩壊した建物は燃えていました。その建物の中にいた私の同級生のほとんどは、生きたまま焼き殺されていきました。私の周囲全体にはひどい、想像を超えた廃虚がありました。
http://blog.livedoor.jp/sagittariun/archives/5624775.html

 そう、できること、すべきことは、どんな最悪の状況下であろうとも、あきらめずに(がれきを)押し続け、蹴り続けていくこと、なのである。そしてその先に光が見えてくる。我々はそこに向かって這い進むしかない。
 そして人類は人類に何をしたのか、核兵器とは、戦争とはいったいどういうものでどういう結果をもたらすのか、今こそ、戦争が忍び寄る今の時代だからこそ語り合い語り継ぐべきではないのか。

 まだできる、すべきことがある。がれきを押し続け、蹴り続けていく。無念の思いで死んでいった歴史に名も残さない人たちのためにも。そして未来を生きる子どもたちのためにも。

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