父との残された日々を2018年06月29日 23時44分13秒

★すべて必ず終わりが来るのだから

 雨らしい雨も降らないままに今年2018年の梅雨は終わり、強く熱い乾いた風が吹く晴れ渡った青空をオスプレイが飛び交う、まさに水無月の月末である。
 昨日から父は家にいる。今日は訪看さんが来る日だったがキャンセルして断った。思うところあって来週明けまでデイサービスも休ませることにした。

 そんなに長く毎日父が家にいていったいどうなってしまうのかとケアマネを始め、我と父との関係を知る者たちは恐れおののいているかと思う。が、もう我としては、行政や福祉の側のやり口にいささか頭にきたこともあり、何よりまず父の意向に沿ってその望みを満たしたいと考えたからだ。
 彼らは父が通っている施設にも訪れ、父を説得し、長期入所の承諾を得た、と喜々として電話して来たのだ。後で父に確認したら当人は何も覚えていないのである。そしてトンデモナイと否定した。息子のいないところでそんな人間を相手に「説得」して承諾を得たとは何様のつもりなのか。要するに事件が起きれば彼らにも責が及ぶから保身のために親子を引き離そうと強いるだけのことではないのか。

 が、また当然のことこの親子間でトラブルが起きて我は怒り心頭し父を殴り殺すかもしれない。しかしそれもそのときはそのときのことで、誰だって好き好んでそんな事態を望むはずもないのだから、もし起きたらばそれも必然であり、起こるべくして起こったことならばそれは仕方ない。それが定めなのである。
 新聞にも当然載るはずだからご笑覧頂きたい。我は逮捕され父は施設へ移送、そして我家の犬猫たちは皆保健所送りとなろう。
 ならばその覚悟と緊張を持って、父と対峙し看護・対応していくだけのことで、それは起こるべくして起きた場合のことだから、起きないこともまたもちろん有り得るのである。

 そしてならばこう考えた。父がいる日はもう一切の私物、私的案件は放棄して、すべて父のことだけに専念しようと。つまり「無私」に徹するということだ。我が事は諦めて父のことだけに専念する。
 ならば、父がいると目が離せず自分のことが何もできないとか、父に煩わされイラつくということはありえない。父が起きている間はひたすら父に意識を集中し我がことは一切放棄すれば良いのである。
 じっさいそう考えたら気が楽になり、何もできないのが当たり前としたら、もし父の寝た後に少しとか、その傍らで少しとか、ほんの少しでも自らのことが出来たらそれは儲けものだと思えてきた。
 そう考えたら不思議に気持ちは楽になって来た。そう、父が家に居る時は父のことだけに専念する、他のことはなにもしないと決めたらば。

 我が古本稼業、商売のほうも先に書いたようにもう思わしくない。そんな微々たる儲けの商取引に振り回されて夕刻時、その日の最終便に注文本を載せようと慌て焦ることはしなくとも良いのではないかと思えてきた。
 だからAmazonでの古本商売に精を出すこともとりあえずやめにした。むろん今出品中の本に注文があれば応ずるが、それも父がいる日は父が寝静まってから梱包にとりかかり、翌日もしくは、うまく合間見ての発送でかまわないと覚悟を決めた。

 ただ、そんな風にずっと父が家にいたらば、父が死ぬまで我が人生はなくなってしまう。昼も夜も一切自由はないしどこにも行けなくなってしまう。
 だから、父を施設に預けるときは短い日程で帰るのを繰り返すのではなく、もっとロングで、せめて一週間単位で預けっぱなしにしようと決めた。ならばその不在の週は父のことは一切省みることなく自分のことにじっくりとことん専念できる。
 そうして緩急つけてやっていく。父が家に居る日は父の介護に専念して我は無私に徹してやっていこうと決めた。

 これまでのようにちまちま帰ってきては送り出すということを繰り返しているほうがいろんな意味で効率が悪いし結局我も我が事に腰据えて専念できないまままた父はすぐ帰ってきてしまう。
 このまま父をずっと施設に入れてしまえば、確かに我は自分のことに専念できるし父と衝突せず殺すことも有り得ない。が、父はもう九十を過ぎ、半ばにも達する歳なのだ。何も大急ぎで施設に入れて、家に帰りたいようと悲嘆のうちに死に追いやらなくとも間違いなくもうすぐに死ぬのである。
 どこで死ぬのも同じならば、彼が望むよう「おっかさんと同じように、この家で死なせてくれ」という強い願いをかなえてやるべきではないか。もしそれが息子が父を介護疲れのあまり激高して発作的に殺したとしてもこの家で死ぬことには変わりはない。
 結果がどうあれ、我はこの家で父を死なすことを決意した。そうもうそんなに先は長くない。それは間違いない。いくら長生きしてもあと10年も生きるはずはなく、せいぜい2~3年先の話だろう。
 ならば父を彼の希望通りにこの家にもっと置いてやりたいし、そうすべきではないのか。それもこれも我がその日は無私となれば良いだけのことなのである。

 どうせ今までも何もできなかったのだ。我が人生がこの数年また、もたついたとしてもかまうものか。父が生きている日々、父と暮らすことは限りがある。果たして今年一年無事であるかだってわからない。ならば何で市の福祉課のやつらの願うように大急ぎで父をすぐさま施設に入れねばならないのか。
 彼らの願いや我の願い以前に、何より当人の意思が尊重されるべきであろうが。
 ならば仕方ない。子として本当の最期のご奉公に精を出していく。
 そんなこんな状況でさらなる不義理を多くの人たちにしてしまうかと思うが、父が家にいるときはもう一切何もできないと覚悟してやっていくので、どうかご理解とご容赦頂きたい。