老いて死に行く者に、最後に残るもの2018年07月15日 07時19分05秒

★感情と欲望、そこに愛と希望はあるか

 連日、容赦ない猛暑、酷暑が続く。予報では、「命に危険が及ぶ暑さが続く、最大限の熱中症対策を」と呼びかけ、不要不急の外出は控えるように、と警告している。
 今日は15日、まだ七月半ばであることを思うと、いったいこの夏、どうなるのか乗り切れるか不安にさえなるが、とにもかくにも持ち堪えて無事に秋を迎えられることを祈るだけだ。
 そんなで犬猫たちと早朝、夕暮れの散歩と庭木の水やり以外は、ひたすらクーラー入れて家に籠り鍵かけて裸で息をひそめている。

 パソコン作業も、デスクトップタイプの専用パソコン自体が冷房の効かない場所にあるので、この暑さでは怖くて長時間連続使用できない。数年前の秋口、やはり秋になっても残暑が続く中、うっかり起動状態にしていたら突然イカれてしまい大きな損失と痛手を受けたこともある。
 そんなで、パソコンは出来るだけこまめに電源を落として暑さの影響を受けないようあまり使わないようにするしかないのだ。
 そんなこともあり、また拙ブログ、更新怠りついに百位圏外となってきている。が、とにもかくにもこの暑さ、人も物も動物もともかく乗り切る事だけで精一杯なのだから仕方ない。

 それにしても先の豪雨で被災され今も自宅に戻れない人や復旧途上の方たちのことを思えば、暑くて辛いとか大変とか言ってられない。冷房もない猛暑の夏、生活再建の目途もたたない中でのこの暑さ、その心中はいかほどか。
 そんな豪雨災害が予想された日に、多勢集い宴会に興じていた政治家たちは真に糾弾されるべきではないか。そんな浮かれた政権を今も支持する国民もまた同罪ではなかろうか。庶民からの国税が首相案件で特別に優遇され用いられてもこの国の国民は怒らないのだから。

 さておき、このところ人の死についてあれこれ常に考えている。
 去年の今ごろ、同世代の友人・知人の死に遭い、死は親たちの世代だけのものではなく、もはや我らの身近なものに下りてきたという「実感」がつよくある。
 といって、今は、今日明日を生きることだけで手いっぱいで、自らどうやって死のうとか、どういう死に方がいいかとか具体的に考えはしない。思うは、まずは、我が父の「死」のときとあり方であって、それがごく近いとは頭ではわかっていてもどう手を打つか、備えておくか、そこに至らない。
 そう、ともかく日々何とかやり過ごすかだけでいっぱいいっぱいで、何もできずに月日だけが過ぎていく。

 ただ、漠然とだが、人はこうして老いて死に行くのだなあというリアルな認識が父と暮らしていると常にわいてくる。そう、不治の病や事故で若くして無念の死を遂げる人も多々いるが、そうならずに特に進行性の病などなければ、人は長く生き、老い呆けて全身の機能が衰弱して最後の最後は出し殻のようになって死ぬのである。「老衰」とは言ったもので、老衰死という言葉は一般的ではないが、おそらく我が父の場合、老衰のため死去ということになるかと思う。すべてがダメになって機能不全で死ぬのである。

 我が父は、大正13年、10月生だから、今年の秋が来れば94歳になる。来年の正月が来れば、昔でいえば数えで95である。我の身近にそんな歳まで生きた人は今までいなかったし、そんな人と共に暮らしたこともなかった。
 母方の我が祖母はさらに上の百歳近くまで生きたけれど、晩年は施設や病院をたらい回しにされていて、意識はあっても寝たきりで、父のようにショートステイを利用しつつ自宅で暮らしてはいなかったし、息子や娘たちも介護してはいなかった。
 我は、父がこれほどまで長く生きるとは思ってもいなかったし、父よりも四歳下の母のほうが先に逝くとは予想だにしなかった。そしてそうした想定外の事態の果てに、今、還暦の息子とその九十代半ばにならとんとする父との男同士二人暮らしが続いている。これもまた神のはからい、思し召しであるのだろうか。何のためか。その「意味」はまだわからない。

 ただ、そんな父は、特にどこか悪い所がないといっても「元気」というわけではなく、もう今は、自力では立ち上がることも難しく、歩くのも杖ついてもよく転び、何かに掴まってやっという有様で、食べるのも嚥下障害で咽て咳き込み、食べさせるのも一苦労、さらに認知症も進み、寝ぼけたときなど今が朝か夜なのかもわからないどころか、今どこにいるのかさえわからないときもままある。
 汚い話だが、便意も尿意も認識できず、終日、履いている紙パンツの中に垂れ流しである。
 歩けず食べられず何もわからなくなって、当然共に暮らしその世話する者として疲弊しうんざりもし時にキレることも多々ある。もうこうなればどこか介護施設に入れてしまおうかと何度も考えたし、多くの心ある方々からもそう勧められた。
 が、それはまだできない。というのは父自身がそれは絶対にイヤだと望まず、できるだけこの家に居たい、この家で死にたいと懇願するからだ。

 そう、何もできなくわからなくなってもまだ父には、しっかり感情があり、呆けても意思をこちらに伝えてくるのである。ならば、その意思を無視して施設に連行し収監させることは息子は出来ない。せいぜいショートステイをロングにしてできるだけ長く介護施設に通ってもらうだけだ。
 もちろん呆けがもっと進み、家に居てもここがどこだか常にわからなくなったり、眠ってばかりになれば、「ここ」であろうと施設や病院か「どこか」であろうともう何もわからないのだから我が家にいる意味はない。
 しかし、父に意思や「感情」がある限りは、その思い、希望にできるだけ沿いたいと思う。

 老いた人と長年連れ添ってわかったことは、何もできなくなっても人には最後まで気持ち=「感情」だけは残っているということだ。ただ、それも喜怒哀楽でいえば、喜樂よりも怒や哀、それも不安の感情が強く、何もわからくなった分だけ、気楽さが消えて、不安や怖れの負の感情に囚われるのかと推察される。
 だから父は常に、すぐ忘れてしまうのに今日は何日か、カレンダーや時計を繰り返し執拗に見たり、施設に持って行くもの、持って帰って来たものも忘れものがないかと心配でならず何度でもバックを開けて確認したりこちらに問い質してくる。
 ここまで長生きしたのだから好々爺としてもっとのんびりと悠々自適になっても然るべきと思うが、ますますもって父の不安神経症は老いてさらに烈なりなのである。

 父を観ていてこうも思う。昔から希望する死に方として、ピンピンコロリ、が望ましいと言われた。つまり、ずっと元気で長生きして、死ぬときはあっけなく、あまり長患いなどで家族を煩わすことくなくポックリ死ぬのが良いと。
 が、人はその死に方さえも自らの思うように、望みどおりにはならないのではないのか。むろん、長年の暴飲暴食、過度の飲酒や喫煙で自己管理を怠れば、不摂生のあげく長くは当然できないだろう。
 しかしそれでも長生きする人はいるだろうし、若い時から健康に常に注意していても早死にする人も出てこよう。
 我が父も若い時から病弱で結核で入院したことも前立腺がんを患ったこともあった。病気の宝庫という人だったのが、何故か長生きして呆けても感情を保ち、この家で死ぬまで暮らしたいと強い意思と意欲を示しているのである。
 このままだと冗談抜きで最後の日本兵として、話題になるかもしれない。思うに、父が今も生き、生かされている理由は、あの悲惨な戦争の生き残りという一点のみ、その「役割」を与えられたからかもしれない。
 ならば父からもっと戦争の話を聴かねばならないのだが。

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