猛烈な風颱風が通り過ぎていく晩に ― 2018年09月04日 21時57分31秒
★まだ生きていれば、それはそれで、それもまた良しと。
猛烈な勢力の颱風21号は、今日9月4日、まず四国に上陸し、その後は神戸に再上陸して大阪を直撃し、かなりの被害を残し今は本州を抜けて日本海を北に進んでいるようだ。
我の住む関東地区、東京西多摩は、今回の颱風の進路からそれて直接の被害はなかったが、今日は日中から終日強い風が吹き荒れ、時々滝のような豪雨も風と共に窓を叩きつけ、八高線も動かず不安な気持ちで家の中でじっと隠棲するしかなかった。
今年はこれまで何度も颱風が来たが、規模も被害も今度のが一番大きいかと思う。といっても庭の木々の枝が折れたり、プランターの野菜苗がなぎ倒され植木鉢が風で倒れて落ちたりと、物損的被害は微々たるものではあるけれど。
しかし、午後3時過ぎからは叩きつける雨と、音立てて吹きつける強い風に我も不安になるほどで、ちょうどパソコン作業をしていて、この今日のブログを書こうとしていたのだが、怖くて断念した。このデスクトップPCの置いてある机は雨戸などない窓のすぐ側にあることと、あまりの強風に電線が切れて停電が起きるかもと恐怖にかられて、電源を落としてパソコン自体もボール紙で覆って、我は自室のベッドに避難してまた昼寝してしまった。
今日は父は朝からショートステイにお泊りの日で、戻るのは明後日の夕刻の予定である。父を送り出して今日こそはのんびり我が事ができると思ったが、またまたの台風で、けっきょく犬猫の餌やりとトラさんたちの散歩以外は外の暴風雨の音を聴きながら断続的にひたすら眠り続けた。おかげで久しぶりに頭はスッキリしたが、逆に寝すぎてまた腰が鈍く痛い。
が、たまにはこんな日もあっても良いかと思う。そう、これもまた良し、という気分である。
台風は通りすぎたと言っても今もまだ外は強い風が音立てて吹き荒れて窓ガラスを揺らしている。雨はもう夕方から降っていない。今さっきの犬との散歩では、夜空を雲がものすごい勢いで流れていた。夜になってから八高線も動き出したようだ。
母の死後、我の人生はまだ取り戻せていない。何一つ元に戻せていない。最近やっと気がついたのだが、やはりずっと鬱病状態で、何もかも放擲してしまい、何もやる気がなく全てに意欲も失せて人生すべてをネグレクトしていたのだとわかった。
ギターもこの一年まったく弾いていないし弦も張り替える気がしない。一時期ちょっと心奪われたヤフオクの古いレコードやハーモニカ漁りも醒めてしまえば、何も今すぐ必要でないものに何であんなに熱く夢中になったのか、そしてどれだけ食い物にされたのかただ虚しくバカらしく思える。
しかし、そうしたことで、すべてモノとの関係を再確認し、さまざまなモノを手に入れた上で、いったい何が本当にどれだけ必要なのか今はようやくはっきりわかった。
そしてそのモノを使って自分は何がしたいのか、何をすべきかも。ならばどれだけ金を無駄にしたとしてもそれは一概に無駄だとは言えまい。なけなしの金ではあるが、我はまだ住むところもあり生活も何とかできている。ただ金が右から左へ、誰かのところに流れただけだ。まったく無駄にドブに捨てたわけではない。その金は誰かの役二立つのだからそれもまた良しである。
そして我の手元には、世間一般的にはガラクタに限りなく近いジャンクな品々、古いハーモニカやしょうもない古いレコード、それに鳴らない真空管ラジオなどが集まって来たのだから。そこにもまた何か意味があると思いたい。
どうしようもなく情けない、何一つきちんと果たせない人生だけれど、ともかくまだ生き入ればやり直せる、巻き返せる可能性はゼロではない。金のことや明日のことなど先のことはあれこれ思い煩わない。先のことは不安に考えない。
旧約聖書中の「ヨブ記」の義人ヨブは、気まぐれな神のはからいで、ある日突然彼の持っていた全財産のみならず子供たちをも全て失った。しかしそのとき彼は、嘆きつつも粛然と、
「私は裸で母の胎から出て来た。
また、裸で私はかしこに帰ろう。
主は与え、主は取られる。
主の御名はほむべきかな」と、地にれ伏して礼拝した。
そう、主は与え、そして主は取られる、のである。ならば何も怖れないし何も悩まない。また裸でかしこに帰る日まで、何があろうと起ころうとともかく生き抜いていくだけだ。
猛烈な勢力の颱風21号は、今日9月4日、まず四国に上陸し、その後は神戸に再上陸して大阪を直撃し、かなりの被害を残し今は本州を抜けて日本海を北に進んでいるようだ。
我の住む関東地区、東京西多摩は、今回の颱風の進路からそれて直接の被害はなかったが、今日は日中から終日強い風が吹き荒れ、時々滝のような豪雨も風と共に窓を叩きつけ、八高線も動かず不安な気持ちで家の中でじっと隠棲するしかなかった。
今年はこれまで何度も颱風が来たが、規模も被害も今度のが一番大きいかと思う。といっても庭の木々の枝が折れたり、プランターの野菜苗がなぎ倒され植木鉢が風で倒れて落ちたりと、物損的被害は微々たるものではあるけれど。
しかし、午後3時過ぎからは叩きつける雨と、音立てて吹きつける強い風に我も不安になるほどで、ちょうどパソコン作業をしていて、この今日のブログを書こうとしていたのだが、怖くて断念した。このデスクトップPCの置いてある机は雨戸などない窓のすぐ側にあることと、あまりの強風に電線が切れて停電が起きるかもと恐怖にかられて、電源を落としてパソコン自体もボール紙で覆って、我は自室のベッドに避難してまた昼寝してしまった。
今日は父は朝からショートステイにお泊りの日で、戻るのは明後日の夕刻の予定である。父を送り出して今日こそはのんびり我が事ができると思ったが、またまたの台風で、けっきょく犬猫の餌やりとトラさんたちの散歩以外は外の暴風雨の音を聴きながら断続的にひたすら眠り続けた。おかげで久しぶりに頭はスッキリしたが、逆に寝すぎてまた腰が鈍く痛い。
が、たまにはこんな日もあっても良いかと思う。そう、これもまた良し、という気分である。
台風は通りすぎたと言っても今もまだ外は強い風が音立てて吹き荒れて窓ガラスを揺らしている。雨はもう夕方から降っていない。今さっきの犬との散歩では、夜空を雲がものすごい勢いで流れていた。夜になってから八高線も動き出したようだ。
母の死後、我の人生はまだ取り戻せていない。何一つ元に戻せていない。最近やっと気がついたのだが、やはりずっと鬱病状態で、何もかも放擲してしまい、何もやる気がなく全てに意欲も失せて人生すべてをネグレクトしていたのだとわかった。
ギターもこの一年まったく弾いていないし弦も張り替える気がしない。一時期ちょっと心奪われたヤフオクの古いレコードやハーモニカ漁りも醒めてしまえば、何も今すぐ必要でないものに何であんなに熱く夢中になったのか、そしてどれだけ食い物にされたのかただ虚しくバカらしく思える。
しかし、そうしたことで、すべてモノとの関係を再確認し、さまざまなモノを手に入れた上で、いったい何が本当にどれだけ必要なのか今はようやくはっきりわかった。
そしてそのモノを使って自分は何がしたいのか、何をすべきかも。ならばどれだけ金を無駄にしたとしてもそれは一概に無駄だとは言えまい。なけなしの金ではあるが、我はまだ住むところもあり生活も何とかできている。ただ金が右から左へ、誰かのところに流れただけだ。まったく無駄にドブに捨てたわけではない。その金は誰かの役二立つのだからそれもまた良しである。
そして我の手元には、世間一般的にはガラクタに限りなく近いジャンクな品々、古いハーモニカやしょうもない古いレコード、それに鳴らない真空管ラジオなどが集まって来たのだから。そこにもまた何か意味があると思いたい。
どうしようもなく情けない、何一つきちんと果たせない人生だけれど、ともかくまだ生き入ればやり直せる、巻き返せる可能性はゼロではない。金のことや明日のことなど先のことはあれこれ思い煩わない。先のことは不安に考えない。
旧約聖書中の「ヨブ記」の義人ヨブは、気まぐれな神のはからいで、ある日突然彼の持っていた全財産のみならず子供たちをも全て失った。しかしそのとき彼は、嘆きつつも粛然と、
「私は裸で母の胎から出て来た。
また、裸で私はかしこに帰ろう。
主は与え、主は取られる。
主の御名はほむべきかな」と、地にれ伏して礼拝した。
そう、主は与え、そして主は取られる、のである。ならば何も怖れないし何も悩まない。また裸でかしこに帰る日まで、何があろうと起ころうとともかく生き抜いていくだけだ。
最近のコメント