平成最後の9月に入りました。思うところと近況を少し2018年09月02日 12時02分11秒

★ここから、この場所から人生を取り戻したいと願えども

 夏の終わりというか秋の初めは、例年のこと、夕立や雨が多く一雨ごとに涼しくなっていくわけだが、記録的猛暑の今年も東京西多摩、ウチの地方はこの連日午後は雷が鳴り突発的な雨が続いている。
 晴れればまだ蒸し暑くなるが、雨の後は涼しい風が吹き、ようやく冷房を入れずとも凌げるようになってきた。といっても大気は不安定なのかゲリラ豪雨的な強い雨が今朝方もあったので、窓を開け放したままでは怖くて眠ることも外出もままならない。
 繰り返しまたも台風が来ているとのことで、ほんとうの爽やかな秋が来るのはまだ一か月は先になるかと思える。

 猛暑が続いていた8月も終わり9月に入った。なかなかブログが更新できなかったのは書こうとパソコンに向かうと雷が鳴り出し落雷が怖くて電源を落とすしかなく、父も先月末から家に居たのでその世話だけで疲れ果ててゆっくりブログ書く気力も体力もなかった。

 また情けない話になるが、このところ睡眠不足がひどくて体調すぐれず気持ちも萎えて屈託していた。
 腰のほうは、まだ時おり鈍く痛むときもあるけれど、ほぼ完治して日常生活にはもはや支障がない。が、何で睡眠不足になっているかというと、いまはずっと室内飼いになってしまった老甲斐犬のおトラさんが、夜になると鳴いて騒ぎだし、その都度起こされて外に出し深夜早朝でも散歩しているからだ。そう、ゆっくり眠る時間がない。

 その犬は去年の秋口から夜になると夜鳴きし吠え続け騒ぎ出すようになった。どこか病んで内臓的に悪い所があってのことかと医者にもかかったが、おおまかな検査では特に異常はなく、歳をとって体力も弱ってきたことと寒いこともあったのかと家の中に入れて飼うことにした。じっさい室内では静かになったので居間の四畳半にペットシーツ敷き詰めて上にカーペット敷いてそこに寝かせるようになった。
 以後、今夏は連日猛暑が続いたこともあり、おトラさんは終日ずっと家の中で暮らすことになってしまった。
 が、猫ならば猫砂入れた箱で勝手に用をたしてくれるが、その犬はかなり大きい中型犬なので、大小便はその都度外に出して済まさねばならない。幸い自ら用便のときは吠えて飼い主に知らせてくれるのだが、それがいつか決まってはいないし、飼主がうっかりしてたり不在のときは室内でしてしまう。ペットシーツを敷いていてもその上でしてくれるとは限らず、粗相をさせないようこちらも常に注意せねばならない。

 この夏は、異常な猛暑のこともあって冷房は犬猫のため常につけっぱなしにしていた。
 日中は外にも出せず、ごく短く庭先で小便に出す以外は、トラさんは涼しい室内でこんこんと泥のように眠り続けていた。が、そのぶん、夜になると目が冴えるのか、妙に元気になって深夜になると何度も吠えてその都度我は散歩に行くはめとなった。
 例えば、父を寝かしつけてトラさんも軽く外で用便を済ませてさあ、我もブログそこそこに眠ろうとする。その時間が零時頃である。
 と、少しうつらうつらしていると、午前二時か三時頃になると必ず階下でトラさんが啼いて騒ぎ出す。ほったらかしにしていると大声で吠え出すので仕方なく我は着替えて彼女を外に連れ出しぐるっと町内を散歩させる。
 用便も済ませたので、これで大人しく静かに眠ってくれるとまた室内に入れてこちらもベッドに横になってうつらつうつらすると、またワンワン吠え出す。その都度、起きては仕方なくこりゃ体力が余ってるかとかなり長く犬が疲れるまで界隈を深夜に歩く。
 歩くと言っても自らスタスタと軽やかにこちらを引っ張って歩く体力はなく、先年足腰がふらついてろくに歩けなくなったように、もうヨタヨタ、トボトボなので我が引いて連れて歩いている。それでも自分で外に出たいと騒ぐからにはそうしたいのは間違いない。散歩が短いときは家に入れるとすぐまた外に出たがって騒ぐ。ろくに歩けないのに外に出たいと騒ぐのには何かわけがあるのか、それとも呆けているのだろうか。それで外の犬小屋に入れると、入らずにずっと吠え続けるのである。家に入りたいのだ。

 そんな感じで、我はこのところ真夜中何度も犬に起こされてはろくに眠頃に一回で済めば良いが、また明け方4時頃に吠えたり、早朝6時というときもある。また、一度起こされてしまうとこちらもなかなか寝付かれず、しばらく寝床の中で本を読んだりして朝が来ることもあるし、さあ、少しでも寝ようと睡魔が来た途端、また下でトラさんが吠え出すことも多々ある。
 けっきょく、昼間、彼女が爆睡しているときに我も眠れば良いのだが、父がいる時はそうもいかないし、不在でも様々な用事もあって昼寝もゆっくりできやしない。
 先日は、夕方から少しだけ横に、と眠ったらつい泥のように深く眠ってしまい、起きたらば零時近くであった。目覚めて暗澹とした。まさに昼夜逆転で体調もおかしくなるし、生活もメチャクチャである。
 正直なところ、この犬を山梨から貰い受けた自分の判断が甘かったわけで自業自得だと思う。いっそのこともう手に負えないから保健所へ連れて行こうかと何度も考えもした。
 が、あまり前の飼い主からは愛されず可愛がられずに老いてしまった犬だからこそ、ここで突き放してはならないし、これも功徳なのではと自ら思うようにして、この「縁」を大切にせねばと覚悟を決めた。

 しかし睡眠不足は低血圧の初老の独り身にはともかく堪える。鈍い頭痛は常に続いているし治療中の虫歯も疼いて辛い。さらに何かぼうっとして気持ちもササクレて始終苛立つ。
 思う存分、トラさんのことは気にかけず、短時間でなくたっぷり惰眠を貪りたいと願うが、なかなかそれはかなわない。
 今朝がたは、深夜の二時ごろ一度散歩したが小雨が降っていて簡単に戻った。そしたらばまたすぐに騒いで吠え出したので、犬だけ外に出して我は濡れないように家の中で外の様子伺いながらほったらかしにしておいた。
 そしたらばおトラさんも雨の中立ち尽くして、身体も冷えて事態を認識したのか、再度家に入れてもさすがに静かになった。それでもまた少ししたら短時間吠えていたけれど。

 このところは、もうそんなで、ある程度時間かけて散歩して、用便も済ませた後は、また家の中で啼いて吠えていても我は起きずに吠えるにまかせている。外で吠え続けるとご近所がうるさくて眠れないだろうが、家の中なので我が我慢すれば済む話だと覚悟決めた。それでも先だってはなかなか諦めずにトラさんは明け方まで何時間も吠え続けていた。とうぜんこちらも深くは眠れない。

 もう少し日中も涼しくなったら、父の歩行訓練も兼ねて、車でどこか公園など芝生や草地に連れて行き、昼間しっかり歩いて体力使わせようと考えている。
 さすれば父も犬も夜は疲れ果てて徘徊せずに、深く眠ってくれるのではないか。彼らが静かにぐっすり長く眠ってくれれば、我も深くたっぷり眠れるし自分のことに時間もとれる。
 ともかくこの夏は暑すぎた。早く誰にとっても過ごしやすい良い季節が来ることをただ願うのみだ。

猛烈な風颱風が通り過ぎていく晩に2018年09月04日 21時57分31秒

★まだ生きていれば、それはそれで、それもまた良しと。

 猛烈な勢力の颱風21号は、今日9月4日、まず四国に上陸し、その後は神戸に再上陸して大阪を直撃し、かなりの被害を残し今は本州を抜けて日本海を北に進んでいるようだ。

 我の住む関東地区、東京西多摩は、今回の颱風の進路からそれて直接の被害はなかったが、今日は日中から終日強い風が吹き荒れ、時々滝のような豪雨も風と共に窓を叩きつけ、八高線も動かず不安な気持ちで家の中でじっと隠棲するしかなかった。
 今年はこれまで何度も颱風が来たが、規模も被害も今度のが一番大きいかと思う。といっても庭の木々の枝が折れたり、プランターの野菜苗がなぎ倒され植木鉢が風で倒れて落ちたりと、物損的被害は微々たるものではあるけれど。

 しかし、午後3時過ぎからは叩きつける雨と、音立てて吹きつける強い風に我も不安になるほどで、ちょうどパソコン作業をしていて、この今日のブログを書こうとしていたのだが、怖くて断念した。このデスクトップPCの置いてある机は雨戸などない窓のすぐ側にあることと、あまりの強風に電線が切れて停電が起きるかもと恐怖にかられて、電源を落としてパソコン自体もボール紙で覆って、我は自室のベッドに避難してまた昼寝してしまった。

 今日は父は朝からショートステイにお泊りの日で、戻るのは明後日の夕刻の予定である。父を送り出して今日こそはのんびり我が事ができると思ったが、またまたの台風で、けっきょく犬猫の餌やりとトラさんたちの散歩以外は外の暴風雨の音を聴きながら断続的にひたすら眠り続けた。おかげで久しぶりに頭はスッキリしたが、逆に寝すぎてまた腰が鈍く痛い。
 が、たまにはこんな日もあっても良いかと思う。そう、これもまた良し、という気分である。

 台風は通りすぎたと言っても今もまだ外は強い風が音立てて吹き荒れて窓ガラスを揺らしている。雨はもう夕方から降っていない。今さっきの犬との散歩では、夜空を雲がものすごい勢いで流れていた。夜になってから八高線も動き出したようだ。

 母の死後、我の人生はまだ取り戻せていない。何一つ元に戻せていない。最近やっと気がついたのだが、やはりずっと鬱病状態で、何もかも放擲してしまい、何もやる気がなく全てに意欲も失せて人生すべてをネグレクトしていたのだとわかった。
 ギターもこの一年まったく弾いていないし弦も張り替える気がしない。一時期ちょっと心奪われたヤフオクの古いレコードやハーモニカ漁りも醒めてしまえば、何も今すぐ必要でないものに何であんなに熱く夢中になったのか、そしてどれだけ食い物にされたのかただ虚しくバカらしく思える。
 しかし、そうしたことで、すべてモノとの関係を再確認し、さまざまなモノを手に入れた上で、いったい何が本当にどれだけ必要なのか今はようやくはっきりわかった。

 そしてそのモノを使って自分は何がしたいのか、何をすべきかも。ならばどれだけ金を無駄にしたとしてもそれは一概に無駄だとは言えまい。なけなしの金ではあるが、我はまだ住むところもあり生活も何とかできている。ただ金が右から左へ、誰かのところに流れただけだ。まったく無駄にドブに捨てたわけではない。その金は誰かの役二立つのだからそれもまた良しである。
 そして我の手元には、世間一般的にはガラクタに限りなく近いジャンクな品々、古いハーモニカやしょうもない古いレコード、それに鳴らない真空管ラジオなどが集まって来たのだから。そこにもまた何か意味があると思いたい。

 どうしようもなく情けない、何一つきちんと果たせない人生だけれど、ともかくまだ生き入ればやり直せる、巻き返せる可能性はゼロではない。金のことや明日のことなど先のことはあれこれ思い煩わない。先のことは不安に考えない。

 旧約聖書中の「ヨブ記」の義人ヨブは、気まぐれな神のはからいで、ある日突然彼の持っていた全財産のみならず子供たちをも全て失った。しかしそのとき彼は、嘆きつつも粛然と、

「私は裸で母の胎から出て来た。
 また、裸で私はかしこに帰ろう。
 主は与え、主は取られる。
 主の御名はほむべきかな」と、地にれ伏して礼拝した。

 そう、主は与え、そして主は取られる、のである。ならば何も怖れないし何も悩まない。また裸でかしこに帰る日まで、何があろうと起ころうとともかく生き抜いていくだけだ。

母の命日、三回忌を前にして思うことなどなど・前2018年09月05日 22時10分36秒

★母の死から二年目を迎えて

 颱風21号は、関西方面各地に大きな爪痕を残して通り過ぎて行った。何でも今年の夏は、観測記録史上最も暑い夏とのことで、平成最期の夏は、その意味でも記録と人々の記憶に残るのだろう。
 しかし、次の元号が何になるかはともかく、こうした異常気象、つまり猛暑と度重なる台風襲来、そして記録的豪雨による河川の氾濫等は、次の時代の予告編に過ぎないと我は見ている。

 こうした異常気象、天変地異によるカタストロフィ、破滅的状況は、現代文明の必然的結末であり、我も含めて今生きている人類一人一人が、特に超大国アメリカと中国が、根本的に考え方を変えない限り、やがては本当に地球環境は破局し、人類が死に絶えるかはともかく、もう人間の生活、経済活動自体が立ち行かなくなるだろう。
 日中の気温が常時40℃を越してしまえば、子供でなくとも夏の間は一切外に出られなくなるし、農業、野菜だって育たない。いや、度重なる自然災害で、食物は高騰し、大金持ちしか生き残れなくなるかもしれない。

 洪水よ、我の亡き後に来たれ、というような考え方もあるが、我はこんな「世紀末」に生まれてまだ生きていくことをとことん受け容れたいと思っている。どんな大変な時代が来ようと、今まだ生きていることは、それをこの目で見聞きし、体験していけという使命なのかと思える。
 むろんいつだってどんなことでも引き返すことややり直すことはできる。旧約中のヨナ書が記すように、その市がソドムやゴモラの如く滅亡するかは、破滅を前にして悔い改めた義人の多寡によるものなのである。
 ならば危機感は持てど、絶望や諦めることなく、戦争も含めて破滅的状況に至らぬよう、声を上げ訴え続けていくしかない。
 おそらくそれこそが今生きている我らに課せられた使命なのではないか。


 さておき、我マス坊の最愛の母が逝ってこの9月8日で、二年となる。仏教の世界では、三回忌を迎えるということになる。
 今も母のことを思うと、様々な思いと共に痛恨、悔恨の強い念に苛まれる。誰もが親しい人を亡くして思うことだろうが、もっと何かできたのではないか、もっと手を尽くすことができたのではないかという悔いである。
 死んでしまった人は絶対に戻らないのだから、まさにそんな思いは無意味であり、今さら考えても仕方ないことだ。あれこれ過ぎたことを振り返って無駄な考えに囚われるよりもこれからのこと、もっと建設的なことを考えた方が良いに決まっている。

 しかし人の心は、そうドライに割り切れるわけではない。あれこれ考えられる間は考えてみるのも当然であろう。そして我もこの二年ずっと母のこと、その死までの経緯を思い出し振り返り、癌という難病との付き合い方も含めて見えてきたことがある。
 死んでしまった人の人生はやり直せないし、時間は戻せない。しかし、何事もきちんと検証作業はすべきではなかろうか。果たしてその時々の対処法は適切であったのか、どこの時点で「死」へ舵を切ってしまったのか、と。
 癌家系の我家であるから、おそらく我もまた母同様やがては癌に苛まれ患うことになるかと思う。ならばそのとき、癌で逝ってしまった母の死から何か学ぶところは多くあるのではないか。

 漫画家のさくらももこさんが先日癌で亡くなられた。八十年代半ば、マンガ雑誌りぼんで登場してきたときからずっと読み続けて来て、ある意味同時代を共に生きて来た人の若くしての死は驚きと共に様々な感慨がわく。
 今は二人に一人が癌にかかる時代と言われている。では、果たしてその治療法は今のままで良いのであろうか。母の死を受けて、我は現代の医学、医者たちのとった行動に今深い疑念を抱いている。

 そうしたことなど、何回かに分けて秋の夜長書き進めていきたい。

豪雨、猛暑、台風、そして大地震2018年09月06日 23時36分10秒

★平成最後の年に、東京五輪とアベノミクスに浮かれる日本人への「警告」ではないのか

 昨日もちょこっと書いたことだが、今年の日本を襲う度重なる異常気象に、そう、もう一つ大地震も加えねばならなくなった。

 9/6日未明、北海道を襲った強い地震は被害や死者、負傷者の全ぼうもまだはっきりしてはいないが、全道全体が停電してしまいライフラインは完全に破壊されてしまった。
 今の文明は、電気がなければ家々の照明だけでなくトイレも水道も信号も電車や地下鉄交通機関も空港の空の便も何もかも使えなくなってしまう。それは3.11の東日本大震災のときに、本州の関東以北の人たちは体験したことだが、同様の事態が北海道でも起きた。

 こうした自然災害が起きる都度、新聞の見出しには未曽有の、記録的な、想定外の、といった言葉が並ぶ。
 しかし、これだけ様々な災害が次々続くと、そんな言葉は色褪せ、異常な事態が日常化、恒常化してきてしまう。人々の感覚は麻痺して、困るのはじっさいの当事者だけであって、こらちはカンケイないと無関心になっていく。
 それこそ、自分のところでなくて良かった、と思い、ヒトゴト度が増していく。
 が、次はまたあるのである。これからも毎年こうした異常気象は続いて起こる。それは断言する。次はどこで何が起きるのか。
 それはこのところ幸いにしてそうした災害から逃れている東京かもしれないし、また新たな地域や度重なって被災地にもまた起きるかもしれない。
 そして、そのときに備えて対応策を練り、準備と覚悟を怠らないことも何より大事なわけだが、構造的にいつか必ず起きる地震はともかくも、他の災害については、そこに起こるには何らかの「要因」「原因」があること、引き金になる理由があると考えるべきではないか。

 残念ながら今の政治は、その原因については考えないし対処しない。むろん自然災害だから人智で防ぐことは難しい。しかし、地球温暖化が海水温を高めて台風や豪雨災害に繋がるのだと「推定」できるとしたら、日本だけはでは防ぐのは難しいとしても、温暖化防止のために日本は再びイニシアチブをとり、世界各国を牽引すべきではないか。
 災害は予測できないからこそ、起きる前にできる限りの対策を取らねばならない。起きた時の対応策も大事だけれど、現代の文明がもたらす要因となるのであらば、その文明の質じたい問い直さねばならないと考える。

 これ以上暑い夏と、毎週毎に襲ってくる颱風、そして突発的、あるいは記録的に降り続く豪雨、これが恒常化してしまいさらに悪化してしまえば、21世紀半ばには他国はともかく、この国は滅亡せずとも破滅は間違いない。何しろ食料自給率は先進国中最下位ランクの日本国なのである。こんな国には外国人観光客だって訪れはしなくなろう。

母の命日、三回忌を前にして思うことなどなど・12018年09月08日 22時29分27秒

★ともかく二年、父との二人だけの生活を過ぎ越して

 私事だが、今日8日は、母の命日で、母が死んだのは2016年だからまるまる二年となる。仏教でいえば、三回忌ということになる。
 去年、一周忌の時は、あまりにまだ慌ただしかったのと、死のショックからのPTSD的鬱屈状態からようやく抜け出たばかりで、何か実感があまり湧かなかったし感慨もなかった気がする。
 今年はそれからまた一年、今はようやく気持ちは落ち着いて、この二年という母亡きあとの歳月を噛みしめる余裕もできた。

 改めて時のたつのは早いと嘆息してしまう。長いような短いような、という表現もあるけれど、まったくあっという間で、気がつけばいつしか早や二年が過ぎていたという感じである。
 去る者は日日に疎し、と言われるけれど、母のこと、寝たきりとなってから死に至るまでの日々は、どうでもいい細部の記憶が失せて来た分、より根幹のところは鮮明にビビッドに、今もありありとしっかり思い出す。
 死後一年めの頃は、夢の中に生前の母が元気な姿で何度も出て来て、その都度、夢から覚めては、母はもう死んでしまったのだ、この世のどこにもいないのだ、と気づき愕然とし、泣きながら起きたことも多々あった。
 が、最近はもう母はまず夢に出てこないし、たとえ夢で母と会ってももう起きても泣くことはなくなった。それだけ母の死ということが自らの裡に認知されて、ようやく現実として受け入れたということなのかと思うし、あの世の母もまた「成仏」したのかとも思える。

 そう、二年が過ぎたのだ。母が死んでしまってから。
 母が生きていた頃、あるとき我は、もしこの母がんでしまったら、自分は一人で生きていけるだろうか、とふと考えて愕然としたことがあった。それほど母は我にとって最愛かつ必要な人であって、母だけが我を愛し常に見捨てずにいてくれたという思いが今もある。
 その人がいなくなってしまえば、我はこの世界でたった一人でどうやって生きていくのか、果たしてそんなことができるのか、と考えて愕然とし怖くなった覚えがある。
 我の中では、母よりも5歳も年上の父の方が当然先に逝くと考えていたし、母の家系は長寿の人が多かったから、まず父を送り、そして母との二人だけの生活が続いた後、いつか、母を送る、と想定していた。※それは母も同じく考えていたと思う。

 拙ブログの読み手の方には言うまでもないが、我は生涯独身で、とうぜん子もなく、好きになった人は何人かいたけれど、こんな性格と生き方故か、誰からも愛されず、親たちが死ねば、嫌でも独り身で生きていくしかない。
 九州に嫁いだ実の妹は一人いるが、疎遠気味だし、その妹の長男、我にとって甥っ子は東京にいるけれど、家族とはいえないし、その甥っ子に老いたとき世話になるわけにもいかない。

 映画『男はつらいよ~フーテンの寅』ならば、身勝手に生きた独り者の寅さんも晩年はおそらく妹さくらが面倒見てくれただろうし、さくらの息子も親身に世話してくれたかと思うが、我の場合はそうもいくまい。
 つまるところ母だけが我の全てで、その母がいなくなった時のことは考えただけで本当に怖くなるほどだった。
 だから父を送った後は、そのことは母とゆっくり考えようと判断停止にしていた気がする。 
 しかし、人生は、というか、運命というものは皮肉なもので、まず先に逝ったのはあろうことか最愛の母であった。それこそが「想定外」であり、母亡き後、不仲の呆けて老いた父と我は残され、男同士の二人だけの暮らしが始まったのだ。そして二年。

 今、感慨深くつくづく思うのは、ともかくよくこの二人だけで二年間何とか無事に生きて来れたということだ。隠さず書けば、我はキレて父を何度も殺しそうになった。顔の痣が通報され行政が家に乗り込んできたことすらある。
 じっさいよく報じられるように、介護疲れから息子が老いた親に激高し殴りつけているうちに殺してしまうことは決して珍しくない。ウチもそうなる寸前まで何度もいった。
 もし父を殺せば、我もまた絶望してこの家に火をつけて自殺していたことであろう。もうそうなったらそれしか道はなかった。
 だから今、ともかくも今二年目の命日を迎えて父と犬猫たちとこの家で暮らしていることに深い感慨を覚える。そして、まさか母がいなくなっても自分は一人で生きていけると思ってなかっただけに、今こうしているのが不思議にも思える。
 しかし、それは父が残され、嫌でも父と向き合って二人だけで暮らすしかなかったからでもあった。つまり父がいたからこそ、父と二人遺されたからこそ、日々うんざりしながら、ぶつかり合いながら生きていくしかなく、そしていつしか二年の月日が過ぎたのだと気づく。

 繰り返しになるけれど、我の鬱的心境は、今もまだ続いているようで、生活を元に戻すどころか、今も全てがメチャクチャで、何一つきちんとできていない。時間だけは確実に過ぎて、父は90代半ばに、我は60をとうに過ぎてしまった。
 しかし、とにもかくにも父も我もまだ何とかどっこい生きている。生活も人生ももう何もかもがカツカツで手いっぱいで、どうすることもできず立ち直るどころではないが、まあ無事に生きている。
 ならばそれは有難いことであり、感謝し喜ばねばならない。そしてこうしたことを書く場があり、もし読み手の方が1人でもいるならばそれこそ有難く素晴らしいことだと思う。

 今も生活はギリギリどころかマイナスマイナスで、我がなけなしの貯金を取り崩したり、九州の妹から支援してもらってかろうじて日々凌いでいる。だが、先のことを憂い思い煩っても仕方ない。
 願っても思い通りにならないのが人生だし、すべてのことには意味があるはずだ。
 この我が実の父の下の世話、尻の穴を拭くことがあるとはかつて予想も想像もしたことがなかった。もし、我に妻がいたら、きっとその人に我はさせていたかと思う。が、今は、「そのこと」を自分でやれて、それは良かったと思っている。むろんそんなことは望みもしないし、しないで終われば幸いに違いない。

 しかし、人生とはすべて経験であって、何であれ知らないことより知ったほうが間違いなく良いことなのだから、そういう運命ならばそれもまた良し、なのである。
 そう、良寛和尚曰く、災難に遭う時は災難に遭うのがよろし、なのだから。

亡き母の命日に、今年も父と墓参り2018年09月09日 23時58分40秒

★ただ有難き哉

 じっさいの命日からは一日遅れたけれど、今日9日、父と町田の、母も眠る我家の菩提寺へ墓参りに行ってきた。
 我は熱心なブッディストではないので、墓参りなど一年に一回行くかどうかで、今年も母の命日が来て三回忌ということもあって父を連れてともかくやっとのことである。
 本当は本堂で、寺の和尚に三回忌の法要を営んでもらうべきなのだろうが、親戚も皆老いて誰一人来ると思えず、父とごく少人数でそれをやるとしてもお金の余裕もなく、今年もただお墓に参るにとどめた。
 そう、母も浄土宗の信者ではなかったし、我も生前の母も「♪そこに眠ってなんかいません」という考えであったから、あくまでも母も含めて祖先の遺骨が納めてあるところに行ってきたという感じでしかない。
 
 それでも、やはり今年も行って良かった。呆けた父は、何日も前から墓参りの話はしてあったのに、今朝は出かけから「どこに行くんだ?」と今日の予定をすっかり失念して、行く途中の車の中も、「何しに町田なんか行くのか、町田なんか行ったことがない」と繰り返しぶつぶつ文句ばかり言っていた。
 しかしそれも去年も同様で、父が自ら建てた我家のお墓が町田の古刹にあることすらわからなくなって、お寺についてもしばらく思い出せず、手を引いて連れて行き墓石の前に立ってやっとのこと、「ウチのお墓はここにあったのか!!」と気がつき、彼の妻もそこに眠っていると徐々に何とか理解できた。
 それは今年も去年と全く同じだったから、もう今さら失望もしないし、嘆きもしない。こんな状態で父も間もなく死んでその墓石の下に入ったとしても、「ここはどこ?初めて来た」なんてほざいていれば、先に入っている父の父母たちに「何呆けてるんだ!」と叱りつけられるだけの話だろう。

 一年ぶりに来たお墓は、草が伸び放題で、もう誰一人訪れる人もいないことをあからさまに示していた。本当はこの近くに、父の姉の一族がいるはずだが、父にとって甥や姪にあたる彼らも皆老いたり、離散してしまい彼ら一族の祖父母が眠る墓地にも誰一人来ることはないのである。
 だからこそ、草むしりしながら、今年も母の命日に合わせてともかく父とまた来れて良かったとつくづく思った。我らが来なければもうこの墓は無縁仏となってしまうかも。

 来年のまた9月の母の命日まで、父が生きているか、そして父を連れて再び来れるか全くわからない。しかし、墓参りとは、死者のためというよりは我ら生きている者たちの「キモチ」の問題であり、墓参は生きている者の証なのだから、呆けてろくに歩けない父を連れて来るのに大いに苦労したけれどもその父と共に今年も来れて本当に良かったと思った。
 墓参りを終えて、久しぶりに深い満ち足りた安堵の気持ちを得た。

 そう、我の祖父母や、最愛の母、さらには我の兄だか弟だか生まれて間もなく?幼くして死んだ兄弟たちの骨はそこにある。しかし、彼らの魂そのものはそこにはない。
 が、墓とは死者と生者とを繋ぐ唯一の場なのだ。また今年も我も父も、「生きて」、そこに行けたこと、それだけで良かった。嬉しかった。
 我らはまだこちら側にいる。それだけで良いのだ。有難いことだとただ思った。

人の死期は天の定めか、巡り合わせか、それとも・・・2018年09月12日 22時00分50秒

★自己責任とか、自業自得なのか

 幼なじみが急死した。あれこれ心奪われ心乱されてこの二日、どうにもブログも書けなかった。
 一昨日の月曜の夕刻時のことだ。雨がしとしと降っていた。
 我は、近くのヨーカ堂へ、歩いて買い物に行き、その帰り道、大通りから救急車と消防車が、我家のある路地に入っていくのを見かけた。
 どこで停まるかと慌てて後を追って見ていたら、ちょうどウチの方へと曲がっていく。
 ちょうどその日は、父が在宅の日で、もしかしたら父が自ら110番か119番に通報したか、火事でも起こしたのかと我は驚き走って家へ向かった。
 そしたらば、救急車から降りた救急隊員たちは、ウチではなく隣家へ入っていたらしく、外に車のついた担架が出されたまま車の中には誰もいない。辺りは救急車の赤い非常灯が激しく点滅している。

 我が家へ戻り、父に声かけたら、彼はのんびりテレビを見ていて何事もなかったことがわかった。
 救急車は、隣家の息子、我とは幼馴染である、彼のところに駆けつけたのであった、歳は、我とは何歳か離れていたが、大昔、小学生の頃は近所の同世代の子たち共々日々親しく遊んだ仲である。
 ただ、長ずるにつれ、学年も違えば当然のこと疎遠になり、高校や大学はどこへ行ったか知らないし、大人になればお互い顔合わせても目礼で挨拶程度はしても口もきかない関係になっていた。
 要するに単なるご近所さんであり、我はこの家の息子で、彼は隣家の息子でしかなかった。
 しかし、彼はきちんと仕事に行き、結婚もし奥さんが来て、子供も女児二人立派に育て上げた。たぶん娘さんは二人とももう二十歳前後ではなかろうか。

 その彼が、この数年、何の病気なのか、ヘンな咳を始終しているようになって、その咳する声は彼が家に居る時は常にウチにも聴こえてきて、母が生きていた頃から、我家では気になり心配していた。
 しかし、直接どうしたのかとか聞きにくいことであったし、隣家はあまりそうしたことはオープンに外には話さない雰囲気もあった。
 ただ、このところよく彼は家に居るので、仕事も休んで通院しているのかと想像したし、一度は救急車が来たこともあったので、咳の発作等で様態が悪くなったのかとも案じてはいた。
 そして一昨日雨の夕べ、救急隊がまた来たのである。6時半頃だった。我は雨の中、ときおり外に出て隣家の様子をそっと物陰から窺った。

 それから約30分以上も救急隊員は隣家から出て来ず、ようやく7時を過ぎた頃、毛布にくるまれ外に運ばれてきた彼はストレッチャーに乗せられて、隊員の心臓マッサージを受けていたが、もう意識も反応も無いようであった。
 そして救急車は走り出し、その晩は、我はお隣の様子を窺いつつ心中不安であれこれ思いよく眠れなかった。どうやら親戚の人たちも来たようで、夜遅くまで隣家は出入りがあったから、もしかしたらと最悪の事態も想像できたからだ。

 そして、翌日、昨日となったが、隣家は朝から一家で出かけたまま午前は帰らず、状況はよくわからないまま。家族の人たちが戻って来てもこちらから呼び鈴鳴らして尋ねることも憚られ、ただ待つしかなかった。幼馴染の彼が戻って来た気配はないし入院したのならそれで良しである。
 が、今朝になり、隣家のおばさん、つまり幼馴染の彼の母にあたる人が、声かけて来て、息子が亡くなったことを告げられた。詳しくは聞けなかったが、肝臓が悪く入退院を繰り返していたらしい。そして家に戻ってきていたとき、急変し救急車で運ばれ死亡が確認されたらしい。
 では、あの苦しそうな咳は、何であったのか。癌?が肺に転移していたのであろうか。

 気丈にふるまい、ほぼいつもと変わらず淡々と「お世話になりました、そちらもお身体どうか大切にしてね」と語る息子を亡くした隣家のおばさんに、我は言葉もなく、それ以上あれこれ聞けなかったが、想像するに、どうやらかねてより「末期」と告げられ家族の皆さんは予想も覚悟も既にできていたと思えた。ご遺体は葬儀場のほうに預けてあるとも。
 その後、町内会を通して紙一枚での「訃報」のお知らせが届いた。それによるとまだ57歳とあり、定年にもなっていない若さである。お子さんも手がかかる世代ではないけれど、せめてその娘さんたちを結婚まで見届けたかったのではないか。まさに心中あまりある、である。

 子供時代はともかく、大人になってからは親しく個人的に口をきいたこともない仲であったが、約半世紀、隣家という付き合いで、お隣にいつも暮らしていた彼がそんな若さで急死するとは今も信じられない。
 彼は若い時は、ロードバイクに凝り、夏など赤銅色に焼けてけっこう身体も鍛えていたはずなのである。そんな人が我よりも若くして、還暦にもならず病に倒れついに帰らぬ身となるとは。
 病とは自己の不摂生や、自己管理ができていないからだという声もある。しかし、同世代の友や、もっと年下の親しい人たちを亡くして思うのは、それは違う、と声を大にしたい。
 つまるところそれもまた天のはからい、定め、運命のようなものではないのか。あるいは、悪い巡り合わせ、「死のババ抜き」を我らはしていて、運悪く彼が今回その札を引いてしまったのか。今はただご冥福を祈るしかない。

 死は常に汝が傍らにあり、という言葉がずっと頭から離れない。
 そう、次は我、かもしれない。ならばこそ、生きている、それだけで有難く、良しとすべしなのである。

母の命日、三回忌を前にして思うことなどなど・22018年09月14日 05時13分25秒

★命を奪った「癌」について今思うこと

 このところ曇りがち、雨もよいでめっきり涼しくなってきた。毎週のように来ていた颱風も一段落したようだ。
 9月も半ばとなり、一昨日100円ショップに行ったらば、早くも来年のカレンダーが並び始めていた。もう今年もラストスパートの時期に入った感がある。

 何もできずに混乱状態のまま時間だけが過ぎていく。相変わらずダメであり、焦り屈託するところ大ではあるが、ふと気がついた。
 なにを 今さら、である。ダメで元々、ではなく、「ダメは元々」なのだったのだから、ともかくまだ生きて在りて、何とか無事であるのなら、それだけで良しとするしかないではないか。
 つまりこれが我のデフォルトの状態であり、その中で少しでも良くなるよう、必死に、いや、自分なりにやっていくしかない。誰も代わってくれないし助けてもくれない。それは当たり前のことだ。
 自分だけの、世間的に見れば最低ランクの、だが、我にとってはかけがえのない素晴らしい(※予定)人生を、自分のペースで生きていくしかないではないか。
 訃報相次ぐ中、我にも終わりがいつ来るか、それは今はまだわからない。しかし、今はまだ「健康」で、思慮深く注意怠らず過ごして行けば、きっといつかはもう少しマシになり、何かは成せるかと信じよう。
 一つ一つのことにあれこれ考えたり悩んだり落胆失望はしない。が、一つ一つやっていくしかない。
 懸案だった、自動車免許の更新も昨日やっと府中へ行って、誕生日一か月後の失効ギリギリのところで更新できた。失効、再発行することになればどれほどまた金がかかったことか。やれやれである。世間では人様が当たり前にできることが我には何でも一苦労ひと手間かかるのだ。

 過ぎたことよりもこれからのことだけを見据え考えていくべきだと心している。だけれども、死んだ母のこと、二年が過ぎた今だからこそ、見えてきたことやわかったことがいろいろある。そして「今」の心境も。
 そのことを書き記しておかねば、きっとまた同様の「失敗」をし、再度悔やむ事態が起きるかもしれない。それに、もし誰かこれを読んだ人の「知識」なり「情報」となって、その人自身の、あるいは親しい人の一助になるかもしれない。何しろ今は、二人の一人は癌にかかる時代なのだから。

 我の母が86歳で死んで、まるまる二年が過ぎた。86歳というとずいぶん長寿だと人は思うかもしれない。もっと若くして亡くなった人たちから思えば、全くその通りで、そこまで生きたのだから良しとすべきであろう。
 しかし、身内としては、長寿の家系でもあり、もっと長生きすると信じていたし、当人にとっても無念の「想定外」ではなかったかと思う。
 母は生来とても頑健で、大きな病気やケガなど癌を患うまで一度もしたことがなかった。面倒見のいい人だったから、ご近所の同世代のご婦人たちの世話をあれこれやいて、病院への送迎の車の手配から様々な生活相談にも気楽に応じてこの界隈の顔役的立場にあったと思える。
 その母があれこれ世話焼いていた近所の婆さんたちは、相変わらずヨタヨタよほよぼではあるが、今もまだ皆さん健在で、母の死後一人も亡くなってはいない。誰もが米寿を越したのではないか。
 今は女性は長生きが当たり前で、母も癌にさえかからなければ、今も彼女たちと同様まだ今も生きていたと信ずる。
 火葬場で拾った母の骨はすごく太くて、焼かれてもしっかり形が残っていて驚かされた。そう、本来頑健だった母は癌に命を奪われなければおいそれと死ぬはずもなかったのだ。ずっしり重たい骨壺を抱いたときの無念の思いは今も残る。

 では何で癌で死んだのだろうか。何で癌にかかってしまったかはともかく、発症から死ぬまでの道筋を今冷静に振り返ると、死に至るまでいくつもの判断の分かれ道があったことに気づく。
 むろん人生は一度きりでやり直せないから、別の選択をしたときの結果はわからない。しかし、今振り返ると、再発してから衰弱して手の打ちようがなくなってからは実に早く、まさに死の淵に転がり落ちていくようであった。
 それが母の運命、定めであったのだと今思いもするが、果たしてそのときどき、我らが選んだ判断、選択は正しかったのか、再検証すべきかと思う。そのときはそれしか打つ手はなかったと思う反面、ここが死と生の分岐点だったんだ、と今わかるところはある。
 死んだ人は帰ってこない。が、死者から学ぶことは多々あろう。自らもまた死に臨み、同じ状況に陥るときが必ず来る。そのとき我が母の癌による死は一つの「教訓」とせねば我は子として母にすまなく思える。

 では、母の癌はいつから発症したのか。
 それは、2010年の夏、突然の高熱が起きたことが、今思うと癌罹患の最初の示し、「警告」であったのだ。癌はそこからはっきり動き出したのである。まずそのとき、気づけばもっと早く手は打てたはずだった。

 ※今回の章は、前中後の三回でまとめるつもりでしたが、短くまとめてもあと二回は続くかと思えるので、後ほど番号順に変更します。

秋、ようやくすべてが動き出した。2018年09月15日 21時02分31秒

★さあ、ここから戻していく、取り戻していく

 東京地方はこの二日、天気が悪く雨が降ったりやんだりのぐずついた天候が続いていた。
 が、久方ぶりに、笠間からマス坊の大学時代の友人、うちの「社員」氏を招いて、悪天候の中だが、拙宅の片付けを手伝ってもらった。

 彼が来たのは、年明けに山梨へ共に行ったとき以来ではないか。半年以上も間が空いてしまったが、彼は元気で、二人で雨の降っているときは室内の片付けを、雨が少しでもやんだときは、庭先のゴミ、放り出したガラクタを分別してゴミ袋に詰め込んだ。
 おかげで、誰の目にも余るゴミ屋敷度がやや軽減し、ゴミで埋まっていた庭がだいぶスッキリした。一人ではどうしても「やる気」が出ず、ただめんどくさくてこの半年、ずっとネグレクトしてきたわけだが、二人でやればあっという間であった。
 とっちらかって足の踏み場もなかった部屋も、モノ自体は減ったわけではないが、本などは積み直して彼が一か所にまとめてくれたので、だいぶスッキリした。
 階段に積み上げていた、溜まりに溜まった処分本も彼が紐で括って、百冊以上?紙ゴミの日に出せる目途がついた。
 つまり混乱にも一定の統制が整ったというところだ。実に友人とは有難いものだとつくづく思った。

 本当はこんなことは一人でもできるはずだし本来自分の人生のなのだから一人でやらねばならないはずだった。が、基本、そうした掃除整理整頓能力が欠落している我は、母の死後、鬱から何事にもネグレクト度が高まり、何とかせねばと苛立ち焦りながらもけっきょく一人ではどうすることもできなくなってしまっていた。すべてが混乱し制御統制不能のめちゃくちゃになってしまった。
 ようやく今回、昔から拙宅へ来ては、我の仕事をずっと手伝ってくれた親友「社員」氏が来てくれて、やっとすべてが緒に就いた思いでいる。さあ、ここからだ、という気持ちに、今さらながらなっている。

9月も半ばになり、かけこみ亭での我が企画・ながいようさんのライブ(10/13)も含めて、いろいろなコンサート情報が我に届いている。
 今年も残り少なくなってきた。少しでも成果を出すべく、焦らず慌てず諦めずに一つ一つ少しでも進めていきたい。
 誰にとっても実りある良い「成果」を、我も少しでも出したいと願う。
 それはできる、きっとかなうと祈り信じて。

追悼*樹木希林2018年09月17日 23時44分39秒

★生き方がそのまま俳優だった稀有な人

 樹木希林さんが亡くなった。この10年癌を患い「全身に転移」と自ら告知していたが、存外お元気で、新作出演映画も続いていたので、この人だけは癌も呆れ果て死なないのではと思っていたのでショックを受けた。
 樹木希林と改名してずいぶん経つが、悠木千帆の頃より知る者として、ずいぶん長くテレビ、スクリーンの中でずっと見続けて来た人だ。
かつては、怪優、お騒がせ女優として名をはせた人であったが、近年は若い頃からの「婆さん役者」として不動の地位を築きいつしか名優として高く評価されていた。
 まだ75歳。その年齢を聞いてちょっと意外な気がする。婆さん役が長い人なのでもっと年寄りかと思ってたが、考えてみれば吉永小百合とも同世代であり、美人の代名詞の吉永小百合は母親役は演じられても老婆は出来ない人であるのに対し、美人でないがゆえに脇として老け役、癖のある役を得意として母親から老婆まで幅広く巧みに演じ、しかもそのすべてが樹木希林ならではの圧倒的存在感があった。
 個人的には、やはり『寺内貫太郎一家』での貫太郎の母親役がいちばん印象深い。かなりの老婆でありながら、当時大人気のジュリーこと沢田研二の大ファンで、ポスターを前にしては「ジュリー!!」と叫んで毎回身もだえするシーンは爆笑もので彼女の人気を決定づけた。

 そしてそのすぐ後に、話題の彼女を主人公にして、婆さん役のスピンオフ的に『ばあちゃんの星』という怪作が続編的に生まれた。
 それは若手アイドルだった頃の山田隆夫(今は「笑点」の座布団運びの人ですね)率いる「ずうとるび」の面々が共演で、ストーリーはたわいもないものでまったく記憶にないが、婆さん役者悠木千帆のファンとしては必見ものであった。
 確かその頃に娘の也哉子さんが生まれたはずで、今思うとずいぶん若いときから婆さん役をされていのだと気づく。まあ、貫太郎役の小林亜星も同様で、久世プロデューサーと向田邦子の名コンビは、ずいぶん思い切ったキャスティングでヒット作を生み出してきたのだと驚かされる。

 彼女はその後、その久世氏を突然人前の席で糾弾したり、自らの芸名を売りに出したり、夫君の内田裕也との仲が話題になったりと常にマスコミを騒がせた。一方、冨士フィルムのCMでもお茶の間の人気者となり、特異なキャラクターでありつつも人気は衰えることはなかった。
 しかし彼女は、昨今流行りの話題性のある「タレント」として茶の間に認知されることより、役者として地道に活動することに主軸を置き近年は巧みな性格俳優として、是枝監督の映画の名演をはじめ内外に高く評価される存在となっていく。
 だが、思うに、彼女は何をやっても樹木希林なのである。同じ婆さん役者の先人北林谷栄が、巧みに本人の個性は消してアンノウンの婆さんを演じ続けたのに対して、希林さんは、常に本人がそこにいる。
 しかし、映画の中では、その強い個性にも関わらずまったく違和感なく自然体でどこまで演技なのかわからないほど役を「演じて」いる。
 演技を感じさせず自然に演じられるというのは実はものすごく巧い証であり、それこそが樹木希林という役者の持ち味であり、彼女ならではの魅力であった。
 ごく稀に、全身音楽家とか、全身小説家と、評されるシンガーや作家がいる。その例に倣えば、樹木希林とは、その生き方も含めて虚実すべて一緒くたにして、全身役者であったのではないか。

 もうあれだけ癖の強い役者は、男女含めて日本にはいないのではないか。
 我はこの強くたくましくしたたかに、思い通りに生きた人と同時代に生きられた幸福を思う。こんな役者はたぶんもう出てこない。