人はどう死にたいか、どう死なせたいか2019年06月30日 23時25分44秒

★我が父の最期のときをどう迎えるか

 実はこのところずっと夜も昼も父の「最期」のときについて悩み迷い考え続けている。それもあってなかなかブログも更新できないでいた。

 何とか我が父は大正、昭和、平成、令和と奇跡的に四元号を越えて生きて、令和新時代となって一か月が過ぎた。父は呆けがさらに悪化して、息子である我のことも誰なのか正しく判別できなくなってきた。
 この一週間、父に、ここはどこか、一緒に暮らして世話している我、つまりマス坊は、誰か?その名前と彼との「関係」を問うと、「お前?お前は、ワシの弟だ、名前?はフジオだ」という答えが常に返って来る。ここは我家だと言うが、ときに「高円寺」だと、都電が前を走ってるとも。※今のこの町に引っ越す前は確かに高円寺に我が家は住んでいて、我はその地で出生したと聞かされている。しかしそれは半世紀以上も前の話だ。
 確かに父には、兄弟姉妹の末っ子に10歳下の弟がいて、今はまだ健在で町田に住んでいる。が、もう何年も音信不通で、近年は年賀状さえ返ってこない。訃報は聞かないが、もう85歳のはずだから、そうとうな年寄りである。たぶん寝たきりとなったのかも。
※長男である父はあまりに長生きしたので、7人いた兄弟姉妹たちも今現在生きているのは、妹が1人と弟のフジオだけである。

 父は、その弟と今一緒に住んでいて、弟が彼の面倒を見ているのだと言う。父に、奥さんはいないのか、子供は?と聞くと、ワイフは死んだ、と正しい答えは帰って来ても子供はいないと言う。85歳の弟がどうして父と一緒に暮らして彼の介護をしていると考えられるのか?!
 仕方なく母の仏壇の遺影を持ってきて、見せると、それは、妹のエミコだと言う。ワイフではないのかと言っても、名前は出てこない。思いだせないのだ。
 先日は何度確認しても正しい答えがもう戻らず、我は母の遺影を前にしてただ情けなくて思わず声上げて泣いてしまった。
 50年以上共に暮らして、日々ずっと常に一緒に過ごしてきて、死ぬ最後の時まで遺していく夫である父の行く末を心配していた我が母のことを、写真見せても誰なのかわからず、名前まで忘れてしまうとは、あんまりだと父の「狂気」に怒りすら覚えた。それでは死んだ母があまりにも可哀想ではないか。
 だが、人が呆けるとは、認知症とはこうしたものなのだそうで、大昔の記憶、それも若い頃のものは残っていても、この近年や今現在の記憶こそはっきりしないし続かない。

 この地に越してきて、半世紀以上過ぎても、父にとっては、若き日、彼の父母や妹、弟と高円寺で暮らしていた時の記憶のほうが、鮮明のようで、問うと即その頃を「思い出す」のであろう。
 介護に苦労する息子としては、父にとっては弟がしてやっていると思うことに対して非常に不愉快な気持ち、というか、何とも釈然としない、面白くないものがあるが、それも受け容れなくてはならないのか、だ。
 何しろ、理屈も常識も通じない。何で、弟がこの家で一緒に暮らして兄の食事から下の世話までするはずがないだろうし、じっさいもし我が弟なら85歳なのである。まっとうな頭なら言ってることがオカシイとすぐ気づくはずだ。

 こんな私的なことは読む側も面白くないどころか、まったく興味持たないかもしれない。が、ヒトゴトで済むと思う人、ヒトゴトで済んだ人も、「老衰」という「死に方」があることを知ってほしいと思う。
 他人事と思うなかれ、人は必ず死ぬ。そして自らもどんなふうに死ぬか、それすらも選べないし決められないのが現実なのだ。しかし、だとしても、人はそのとき、様々な判断や決断を迫られる。
 カンケイないと思う人は、幸福だ。が、自分はどう死にたいか、ぐらい想定していたほうが良いのではないか。

コメント

コメントをどうぞ

※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。

※なお、送られたコメントはブログの管理者が確認するまで公開されません。

名前:
メールアドレス:
URL:
コメント:

トラックバック

このエントリのトラックバックURL: http://masdart.asablo.jp/blog/2019/06/30/9109812/tb

※なお、送られたトラックバックはブログの管理者が確認するまで公開されません。