世界は変わる、変えられると信じて2021年10月29日 21時49分35秒

★ともかくまず選挙に行こう、投票しよう

 自らの体調も悪く、あれこれ慌ただしくいろいろあって拙ブログまた更新できず申し訳ありません。
 ゆっくり心のまま、心の内、思うところを記せたらと強く願うのだが、日々その日ごとを何とか生きてやり過ごすだけで手いっぱいで、もう本当にそれだけしかできなくて心苦しく情けない。

 さておき、総選挙の投票日が近づいてきた。我は一昨日、もうほとんど歩けなくなった父を抱えてマイカーに乗せて市役所まで期日前投票に行ってきた。
 市庁舎内は、父は車椅子に乗せて移動、投票所の一室内は、選管の職員が父に応対してくれたが、かなりの呆け老人が果たしてきちんと反自民系・野党共闘の候補に投票できたか心もとないけれど、何とか今回も棄権せずに大切な一票、選挙権を無駄にせず行使できて本当に良かった。
 もちろん毎度のこと、いろんな意味でものすごく疲れたが、父は死ぬまで一度も棄権せずに選挙に行った百歳老人として死なせたいと願う。

 と、ここから本題。
 いつも思うのだが、選挙が公示となり激しい選挙戦開幕となってから、朝日や読売や大新聞社は、投票日近くになると結果を予測した報道を出すが、いったいこれはどういう意図があり、そもそもそれは許されることなのであろうか。
 今回の衆院選、前・菅政権の不人気もあり早くから政権交代の可能性も高いとされて、国民の間でもいつもより関心が高くなるのではと報道されていた。
 が、朝日は、先日、自公で単独過半数確保の情勢とか、讀賣ではそのライン維持は微妙とか、早くも結果が決まったかのような報道が出されて、まだ決めかねている有権者の意向を大きく左右していると我は思える。
 もしかしたら今回の衆院選、政権交代となるならば何として投票に行こうと、自公支持者であれ、政権交代を望む立場の者であれ、どちらにせよ選挙に行かねばと思うはずだろう。
 ところが相変わらず、自公が絶対過半数を維持するだろうと「事前」に予測されてしまえば、政権交代に希望かけていた層はもう、ならば行ったってしょうがない、もう行く意味がないと思う人も多いのではないだろうか。
 逆に、過半数維持が難しいと報じられれば、自公政権維持を望む層の人たちは、何としても投票に行かねば、もっともっと呼びかけや動員しないととさらに必死になるだろう。

 結果というのは、実際の話、投票所の蓋を閉めてからの話であって、まだ選挙戦最中、期日前の投票期間の間に、早くも結果の「予測」を報じるのはどちらの支持層にとっても悪影響というしかない。
 まして、支持政党のない、そもそも選挙に無関心な層の人たちは、今回も何も変わらないのなら行く意味がないとさらに「棄権度」は高まるだけだろう。
 我は、選挙が公示前ならともかく、選挙戦が始まってからの結果予測は、投票率低下をも招き百害あって一利無しとして、強く禁止を求めたい。
 こうした新聞社側の思惑なのか、投票動向と結果を大きく左右してしまう、選挙公示後のバイアスのかかった予測報道は本当にやめにしてもらいたいと今更ながら思う。これは報道の自由とかの問題ではない。

 さておき、この世には、選挙全般に関して全く関心のない、そもそも選挙には一度も行ったことがない、行く気持ちがないという人も多数いる。
 このところのせいぜい50%前後の各種選挙の投票率を見ると、おそらく有権者の二人に一人に近くは、「無関心層」と思っても良いのかもしれない。
 そうした人たちにもし、何で選挙に行かないのか、と問えば、たいていの答えは、選挙に行ったって何も政治は変わらない、という返答が返ってくるはずだ。
 確かに、それを裏付けるように、いつまでたっても自公政治は続き、現実社会ではとっくに引退しているような老人たちが大きな顔をして威張りちらし、若者や弱者、貧困層向けの政策や保護対策は何もさせれず、生活はどんどん困窮していく。
 じっさい何度選挙したって、結果はいつも同じで、安倍政権は延々続いたし富裕層はさらに富み栄え、貧乏人はますます苦しくなっていくばかり。
 某大臣が「生活保護があるじゃないか」と放言してくれたが、そもそもそこに至ることのないよう、最低限の生活を老若男女、国民すべてに保障するのが政治の役割のはずだが、国家間の「安全保障」は喧しくとも、国民の命と健康を保障することは、あくまでも自助・公助という順番なのが、この自公政権なのである。
 だから、もう政治には諦めて、選挙には行かない、という人たちの気持ちは実際よくわかる。しかし、こうもまた思う。では、ほかにこの世界、つまり、いまある身の回りからすべての現実世界を変える術はあるのだろうか。

 むろん自分の努力奮励で、才覚や運、チャンスで今の苦境は脱することができるかもしれない。多くのユーチューバーなどはそうして才覚だけで巨万の富を築いてきたのだろう。
 しかし現実的には、多くの人が、我もだが、ともかく日々毎日を何とか乗り切りしのぐ、やり過ごすだけで精いっぱいで、とても文化的・健康な生活などまさに夢のまた夢なのである。
 せいぜい、寝る前にスマホでどうでもいい芸能人やスポーツ選手、皇族の誰それががどうこうしたととかのネット上のニュースを流し読みする程度で、朝になればまたつらい一日を迎えるだけだ。

 だからこそ、我は、この今の人生、この眼前の世界を心から変えたいと願い望む。神にも祈る。
 それは政治だけの問題でないこともわかっている。しかし、父の年金一つとっても、入る金より出る金が多いというのは実におかしな話で、様々な高い税金と介護保険利用料、そして医療費とで、もうどうにも首が回らないのである。
 よほど大企業に勤めていたとか、公務員でも官僚として、天下りした人でもない限り、悠々自適の年金生活などできる人は少ないのではないか。多くの人は乏しい年金でカツカツの切り詰め生活を送っているのではないだろうか。

 ならばこそ、この現実、辛く苦しい現実を変える方法はまずは政治を変えることからだと考えるべきではないのか。他に、方法があればぜひご教示頂きたい。たとえば、絶対に儲かる、損のしない資産運用とかあるのならば。
 政府は年金でさえも自分でさらに老後に備えて増えるよう自ら運用することを勧めているけれど、いくら高齢者社会だとしても、国民の命を守り保証しない政治はおかしいのではないか。
 防衛費やアメリカ軍への思いやり予算、大企業への優遇税制は増えはすれど減らすことは考えになく、さらに消費税を今後も上げることも検討するという政府は、真に正しい政治を為しているのだろうか。

 思うに、選挙に行ったって、何も変わらない、意味がないと思い考えている人たちは、それでもこの「現実社会」に満足しているのであろう。つまり、なんだかんだ言ったって、まあ、これで良し、という現状肯定派なのだと思える。
 我などは、何度も何度も選挙のたびに、失望の結果、うたの文句ではないけれど、「泣き明かした夜、迎える朝のまぶしさ」を味わってきた。そして「涙が渇くときはないけれど」決して諦めもしない、し負けたとは思いはしない。
 
 そう、世界は変わる。変えられる。そう願い信じる人たちが一人でもいる限り、結果は常に同じでも、何も変わらないように見えたとしても、その思いは、「地下水脈」のようにこれからも流れ続けて人々の心の深いところに届いていく。

 世界は変わる、変えられる、まずはそう信じて、今できる、すべきことを少しでも、一つでもやっていこう。
 それは政治だって人生だって、生活だって同じことだ。だけど、まずは選挙の投票日がそこにあるのならば、まずは自らの一票に思いを投じることだからだ。
 ここから世界は変わる、変えられると。