どう生きていくかではなく、どう生きているか2011年03月07日 21時53分43秒

★人間とは何なのか

 おかげさまで、母の術後の経過は順調で、今日7日、鼻から入れられ小腸まで延びてたチューブも外された。明日からは、口から流動食を摂れるよう始まるという。本当にほっとしたというか、肩の荷が下りた気がした。何よりも当人が煩わしさから開放されすっきりして、心休まる思いでいると思う。一時の絶望的状況、悲壮感を思い出すと、よくここまで来れたと感動すら覚える。
 今日はこの世の全てに感謝したい。

 母の病苦はまた自らの問題でもあり、おかげで多くのことを学び考えさせられた。それは結果良いことだと今断言できる。つまりこの病気にならなかったら自分は愚かなまま何も考えずに終らない夏休みのまま、今までどおりひたすら遊び呆けていたに違いない。
 それができるうちはそれでも良かった。しかし、モノゴトには必ず終わりが来るし、覚悟の上でならともかく、何も想定すらせず、無責任に青春の夢を見続けていられるはずもない。今ようやく、真になすべきことに気がつき、親たちとの距離と自らの位置も掴むことができたので、それだけでも良かったとつくづく思える。後悔はしたが、幸い母の生きているうちに何とか間に合ったという気もしている。
 目が覚めたのではなく、見えなかったこと、あるいは見ようとせず目を背けていたことがついに見えたのだ。恥ずかしい話ようやく大人になったと思う。

 さて、そして今考えるは、あらためて人間とは何なのかということだ。
 今回の手術で、母の体内の臓器、切り取られた小腸などを医師から見せられ説明を受けた。それは当然覚悟もしていたが、やはりショッキングとしか言えないもので、それはやきとん屋でのホルモン類とまったく変わらないもので、これまで自分が串に刺したものを好んで食べてたものと同じものが母の体内にあったと思い知らされた。
 つまり肉類、特に内臓を食べることはまさに共食いであり、人は骨、臓器、肉、脂肪、それらを皮膚が覆い、人間として生きているが、一皮剥けば中身は豚や牛などと全く何も変わらないのだと気づかされた。母がそうならば自分もまた同じであり、これまではずっと、どう生きていくかということに腐心していた自分だったが、どう生きていくかの問題よりも、どう生きているかが実は肝心なのだと気がついた。

 そう、人はどう生きているのか。当たり前のように息をして、モノを食べ、当たり前のように動き回っているこの人間。しかし、こうして病院通いが続き、病人たちの中に身を置くと、実はそうした当たり前のことすらが実は当たり前でも何でもないことに気がつく。
 病が進めば、動き歩くどころか口から食べられなくなるし、息すらできなくなっていく。そして最後はあらゆる処置が効果なく、死んでいくのだ。

 今まで当たり前のようにしてできたことがやがて出来なくなる。生きているということすら実は当たり前のことではないのかもしれない。考えてみれば、自分がこの世に生を受け、今もこうしてこの歳まで生きていることすら奇跡のような不思議なことのような気がする。大きな病気も事故にも遭わず無事に好き勝手に生きてこれた。社会的には全く勝者ではないが、それだけでも勝ち誇ったような気持ちになる。

 恩寵という言葉があるならば、自分もまた深く感謝して、陳腐な言葉だが、世のため人のために生きていきたい。まだ自分にもできることがある。すべきことがある。人のためにできることがきっとある。残りの人生、生きていく意義が見えてきた。母にもだが、まだ自分はこれまでの恩返しをしていない。

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