これからのこと、TPPについて今思うことなどを少し2011年11月10日 09時46分50秒

★京都旅行報告の途中であるが・・・

 11月10日である。外は薄曇、昨晩は冷え込んだ。暖房が恋しいほどである。
 親たちは昨日朝から入院して、母は今日一日かけて抗癌剤投与、父は下剤飲まされて大腸の検査である。うまく終われば明日の夕刻には二人とも帰れるかと思う。というわけでみょうに広く感じる家に一人ぽつねんとしている。心も家と同じくやや空虚である。

 今回の京都でのこと、精力的に書き進めて今二日目の途中まで来た。あと少しである。最終日は特に書くべきことはしていないので、とりあえず表向きのことは本日のうちに書き終えられるかと思う。反応は何一つないが読んでいただけているのだろうか。案ずる気持ちもあるがまだ中途だからか。ともかく早くとりあえずの報告を終わらせたい。

 実は個人的な行動など毎度のまたバカ話がいろいろあり、それはそれで書きたくも思うので、別ブログ、画像がいくつも上げられるエキサイトブログのほうに近く書きたいと思っている。も少ししたらお時間のある方はそちらも覗いてもらいたい。

 さてこれからのこと。今月は来週は特に用事はないが後半になると、女友達の個展の手伝い、岡大介と遠峰あこさんのライブ、友人の帰国歓迎会、出かける用件がいっぱいで月末までやたら忙しくなる。今ちょうどその前のぽっかり空いたエアーポケットにいる感じだ。これからいったい先ず何からどうしていくか。親たちが退院してこないと身動きもとれないが。

 TPPのこと、今交渉に参加表明するか国論を二分にわけて議論沸騰中である。京都のことはさておき、そのことについても私論を書きたいと思うのだが、なかなかその時間がとれない。
 結論だけ今言わせてもらえば、TPPに加われば、輸出工業に関わる人たち、大企業は恩恵を一時受けるだろうが、やがてこの国は破滅に至る。野田首相も含めて今の政治家たちは政治献金を受けた財界の手先であるから経済界の意のままにすべての関税を撤廃して輸出産業が栄えるよう「開国」すべきだと考えている。

 しかしそうして開国してしまえば、外国産の安い農産物も逆に入って来る。国民にとってそれは良いことだと歓迎するバカもいるかと思うが、結果国内の農業漁業は壊滅的被害を受けてこの国は食糧自給ができなくなる。工業製品の輸出で儲け、いっさいの食べ物を外国に依存することがこの日本の21世紀のあり方であろうか。

 今世界は地球規模の異常気象が多発している。それはアメリカのような農業輸出大国であろうと例外ではない。世界の人口は増え続け、70億。飢餓と貧困はやがては日本にも襲いかかる。世界全体が食糧危機に陥ったときに、国内での自給が出来ない国は、いくら金があろうと食べ物はどこにもない。ひとたび飢餓状態が起きれば工業産業もたちゆかなくなる。
 それこそが国の破滅であろう。今この国がすべきことはTPPというアメリカの世界戦略に乗っかることではなく、まず食料自給率のアップ、被災した農家、漁民への支援、被災地の復興支援である。そのことこそが国力を上げ地方も都市部も連関した真に豊かな国になる。

 それともう一つ、新聞の投書欄に意見として、ともかくまず交渉に参加してみたらどうか、その上で不利なら下りれば良いというような「投稿」があって呆れた。同様に考える人もいるかもしれないので、一言。
 これは世界の常識を知らないバカの意見である。西欧では、スーパーはともかく、きちんと店員が応対する店に入るときは買う覚悟で入る。日本のように冷やかしはありえない。むろん、条件が折り合わず買わずに出ることはある。しかし買う気がないのに様子見で入ることはありえない。
 店に入るということ、つまり交渉の席に付くということは、基本は買う意思があることを意味する。その前提以前に、ともかくまず交渉の席に行くことはありえない。もしそんなふうに話してみたらやっぱり不利だからやーめた、なんてことをしたら他国から呆れ果て相手にされなくなってしまう。交渉の席につくということはもはやいかに自国の得になるようにうまく話を進めるかという段階なのである。

 ゆえに野田首相が交渉に参加する意思を表明すればそれはすなわちTPPにこの国は参加することなのである。それはこの国が破滅に至る道なのだ。その覚悟はあるか、日本人。

2011.秋の京旅行の記録・中・42011年11月10日 23時23分27秒

★京都最終日はほんやら洞で有馬さんと会った。

 今年の京都はいつまでも暖かい日が続いていて黄葉も遅れていたし、雨が降っても梅雨時のように蒸し蒸しした暖かい雨であった。
 京都にいた三日間、連日天気はすっきりせず、春雨のような雨が断続的に曇り空の下降り続いていた。毎度のこと自分は傘もささずTシャツ姿でうろついていたのだが、最終日の月曜になったらようやく秋本来の気温に下がり寒くて閉口した。比叡降ろしの冷たい風が時どきザッーと吹いては冷たい雨を運んできた。

 前日、福知山から戻ったのはもはや夕方であり、それは向こうの道の駅で特産の黒豆のお土産買ったり、おっちゃんの車がパンクしてタイヤ交換したりと毎度もたもたしていたからでもあるが、自分もさすがに疲れてきていた。

 行きのバスではほとんど寝ていなかったし、むろん着いたその日の晩もネットカフェで仮眠とったようなものであるから、そろそろふとんと熱い風呂が恋しくなってきた。夜久野の帰りに京都駅前で下ろしてもらい毎度行きつけの安ホテルでその晩の予約を入れた。素泊まりで5000円弱で以前よりずいぶん高くなっていたが、もう観念した。夜久野で買ったおみやげをフロントに預け、おっちゃんのアパートの近くのお好み焼き屋でその日のことを語らい酒をだらだら呑んだ。
 そしてまた駅前のホテルに歩いて戻り、久々にゆっくり風呂に入り、缶ビール1本空けたらいつしかすぐに寝込んで気がついたら明け方であった。いったん起きてテレビを小さな音で付けて、NHKのニュース聞きながらうつらうつらして8時頃ようやく布団から出た。体力は戻っていた。


 フロントで千円払ってレンタル自転車を借りて、三日目最終日の京都が始まった。東京へ戻る夜行バスは零時頃の発車だから丸々一日ある。
 増坊には京都に行って一日時間があれば必ず立ち寄る定番のコースがある。それは駅地下から始まって、錦市場や古川橋商店街などいくつかの市場であり、新京極、寺町通りなどの繁華街であり、河原町通りに点在する古本屋であり、フォークギターを並べた何軒かの楽器屋、それにオクノ修さんがマスターやっている六曜社や、出町のほんやら洞などのユニークな喫茶店等で、前は北大路の古川豪さんの薬屋までも京都の町を下から上へと借りた自転車で朝から晩まで走り回っていた。ときにそこにのんや拾得などのライブハウスも加わる。
 今回もさすがに上は出町柳までしか上がれなかったが、行ったり来たりときに上ってもまた下がったりと京都の市街をひたすら自転車で走り回った。自分にとって京都の楽しみとは歩くこともだが、バスなどに頼らずあちこちうろつくことに尽きる。

 その他に四条通の無料で公開されている京町家など自分の家作りに参考にした古い家々も京都には沢山ある。町家を再生した喫茶店、ショップなども多く存在しているので、通りすがりに覗いてみるのも楽しい。そこで今回は午前の空いた時間にまだ訪れたことのなかった河井寛次郎旧居へ行こうとふと思い立った。以前その前まで行ったことがあったが、ちょっと迷いようやく発見したものの月曜定休日で徒労に終わった。
 そうこうしているうちに昼時となってしまい新京極裏の食堂で昼飯食べて、河原町通りをひたすら上る。荒神口近くの楽器屋でまた心引かれる中古ギターをみつけ試奏させてもらったりして、有馬敲さんと2時に会う約束をしているほんやら洞へと慌てて向った。

 幸い2時前にその昔から今出川通りにある「ほんやら洞」にたどりついた。やはり予想通りまだ店主の甲斐さんは来ていなく店は開いていない。仕方なく出町の商店街をぶらつき再度行ったら彼も来たところで既に仏人の女性客が訪れていた。甲斐さんと新刊の写真集について話していたら有馬さんも来られ、それから1時間半あれこれ彼が問わず語りに話す言葉に耳を傾けた。
 有馬さんは間もなく八十、傘寿になるわけで、その記念祝いのイベントなどの企画も多々あるそうだが、当人にとっては面倒だとあまり乗り気ではないようで、一昨日の彼原作の公演の成功でもうそのお祝いは終わった気分だと伺った。そんなことよりもまたこれからのことについて彼が今考え思考している事柄に話の熱が入り、また次に東京に来るときまでにこちらもしっかり準備や手配しておかねばと気が引き締まる思いがした。来る前に歯医者へ行きかなり待たされ、やや体調も悪かったようではあったが、終わった公演の熱まだ覚めやらぬという風であった。
 あーしんど、話し過ぎた、と呟いて店を出て出町方面の糺の森の方へ去っていく彼の後姿を見送りながら、これで今回の京都旅行の目的は全て果たせたとほっと肩の荷をおろしたのは言うまでもない。

 結局その晩は、夕方友人壬生のおちゃんの古本倉庫を覗いてから、売り物にならないキリスト教関連書籍を頂いて、二人行きつけの小料理屋へ向った。そこは左京という店で、おっちゃんのマンション近く壬生にある。懇意にしているママが一人でやっている店で、いろんな京都の味をお任せで出してくれる。このところママも事情で店閉めていることも多かったのとこちらも忙しかったので1年ぶりの来店であった。客は誰も来ない。増坊が東京から来たのでわざわざ開けてくれたのかもしれない。歓待されたらふく食べて呑ませてもらい、9時過ぎ二人と別れて京都駅前のホテルへ戻った。

 自転車を返して預けた荷物をとって、バスの出る京都駅南口の八条口へ。まだバスが出るまで何時間かあった。ぼんやりこの旅を振り返り、楽しかったが、行けなかった所、会えなかった人たちのことを思い浮かべた。が、もし生があり機会あればいつかまた来れるだろう、またそのとき、と自らを慰撫した。

 こうして三日間の秋の京旅行は終わって無事東京に戻ってきたのだ。まだまだ書きたいことはいっぱいある。が、またの機会に。

「今」がすべて昔になれば・・・2011年11月10日 23時24分56秒

★どうやら風邪ひいたようで・・・

 今日10日、夕方自転車で親たちの入院している立川まで行ってきた。親父のほうは明日午前退院できるとのことで明日は車で行かねばならない。母のほうはどうやら土曜日になってしまうようだ。連日の病院通いだが仕方ない。

 めっきり冷え込んできたのと旅の疲れが出たのか風邪気味で喉も痛く微熱もあるような気がしている。病院から戻ってきて犬の散歩すませてから早く簡単な晩飯食べて7時すぎから布団にもぐった。今ここで風邪ひくとちょっとマズイのである。抗がん剤で免疫力が落ちている母にうつしたら大変な事態になってしまう。ビタミン剤と風邪薬飲んでブログもそこそこに悪化させないよう早く寝るしかないと考えた。

 だが、早く寝てもそんな長く朝まで寝続けることはできやしない。少しだけうとうとしたようだがすぐ起きてしまい、ベッドの中で枕元の文庫本をめくったりあれこれこれまでのことやこれからのことをぼんやり考えていた。
 今自分はまあ健康で、この歳まで何とか生きてこれた。先のことはわからないが、たぶんまだこれからも生きていけるかと思える。死ぬとしたら突発的事故か癌などの発見が遅れてのことで、たぶん10年はまだ生きていると安易に考える。何の保証もない楽観だが。

 そしてこれまでブログ書いてほぼ毎日、その日その時どきの出来事、したこと考えたことは記してきた。読み返しはしないのでわからないがもう何年になるのか。もし自分が10年先まで生きたとすればきっとそのときもブログは書いているだろう。還暦を過ぎた自分はいったい何を書き記しているのか。

 地球もこの国も自分も天変地異などで滅びていなければその時のブログ、いやそれまでのブログはいったい何を書いてあるのかふと気になった。たぶん、その10年で死ぬ人は大方死んでしまっているだろうし、また新たな登場人物、友人知人もいるのであろう。自分は何をしているのだろう。
 おそらくこの俺のことだから相変わらずそのときも迷い悩みあたふたしているかと想像するが、気持ちはもう少しは落ち着いて今よりは良くなっていたいと切望する。本当にそうありたい。

 それは生活の問題、経済的なこと以前に、もっともっと歳をとって本当の老人として心の「安定」、つまり安心していたいということだ。今気持ちは落ち着いていて大きな悩みはないと報告したが、正直なところまだ今後の先行きが何も見えず、ときどき不安や懊悩で心がかき乱されるときが多々ある。こんなお気楽な自分でもこれからどう生きていけば良いかと酔っぱらったときなど暗澹たる気分に陥る。

 また頭では割り切って、考えても仕方ないと納得させても気持ちだけはなかなかそう割り切れないことも多々ある。それは恋愛感情もあり人間関係でもある。世間では孫がいてもおかしくない歳なのに自分は未だ青臭く生臭い。情けなく恥ずかしいことと自分でも思う。
 何で心はさまざまなことで常にかき乱されるのか。人はみかけは歳相応に老いても内面、つまり心だけはいつまでも若い頃のまま、なかなか老いていかないものなのだろうか。いや、自分は結婚や子作りなど一通りの社会的通過儀礼をしなかったから未だ迷うのか。家庭を持ったひともまた同じなのか。心はなかなか成熟しないものなのか。

 早くもっと歳をとってうんと枯れてそうした迷いがなくなれば良いと心から願う。自分だけでなく周りの誰もが歳をとればすべては落ち着くところに落ち着くように思える。「早く昔になれば良い」と書いたのは久世光彦だったかと思う。若いときはその言葉の意味がわからなかった。今、老いのとば口に立って、それでもなお迷うこと惑うことばかりだからこそそれを願う。

 大っ嫌いな森田公一のうた「青春時代」のテーマは、青春の頃を振り返った大人が青春はそんな素晴らしいものではなく「青春時代の真ん中は、道に迷っているばかり」と単純に結論づける。何の疑いも臆面もなくごく当然のことをうたにする厚顔さに昔も今も呆れるが、道に迷うのは青春時代だけではないだろう。中年だって初老だって後期高齢者であってもやはり迷う人は迷っているのだと思える。それが当たり前なのか。それもわからない。
 だからこそ、10年先の自分の心が知りたい。せめてその頃にはもう少しだけ落ち着いて心静かでありたい。