人生をいかに使い込むか・1 ― 2013年03月04日 23時19分34秒
★これから新しいパソコンについて書いていくその前に。
今さらながらだが、人は何のために生きているのか、人生の価値や意義について思い考えることがままある。
もう人生の残りが見えてきて老い先短い五十男がである。嗤ってください。
ただ、最近になってようやく少しはわかってきたこともある。人生の意義、人は何のために生まれ生きるのか。その意義、価値とは何か。
一番の理由は、子孫を残すためだ。生まれてきたことだって、その「法則」基づいて、親たちが出会い種の保存のために子を作り、それが自分だということだ。そこに理屈も意味もない。犬猫だって魚たちだって、植物だって生まれてくれば当たり前として行う行為なのである。
だから人も子孫を残せばもうそれでとりあえずの義務、生まれてきた理由、使命は果たしたのである。ほんとそれだけで十分なのである。
が、ならば自分のように子も孫もない、元より結婚もしていない、出来なかった者はどうなのかということになる。ただ、犬猫を見ても生まれた子全部が子孫を残すことができるわけではないし、子を残さずに死ぬ者もまた多くいる。つまり個々の問題ではなく、総体として種は絶えずに続けば良いわけであって、マス坊には子がなくてもマス坊の妹のところには3人の息子がいるように、まあ親たちの遺伝子的にはまた次世代へと続いていくのである。「家」的には絶えたとしても遺伝子はたぶん続いていく。
しかし、もしそれだけが人生の意義、価値だとしたら自分など全く生きている意味がない。つまり子孫生産できない者も生きていくとしたらそこにどんな意味があるかということだ。
思うに、子孫を産み残す「本能」的なことならば犬猫ら他の動物だってやっている。人が人として他の動物とは一線を画すとしたらやはり「社会性」を持ち、その中で共に組織だって生きていることに尽きるのではないか。
昔から「世のため人のため」という使い古された格言がある。実は五十を過ぎてからようやく人は自分のためだけに生きるのではなく、世のため人のため生きているのだと気がついた。いや、そう生きなくてはならない。汝の隣人のために。
そしてそのことはとりもなおさず、自らの生をせいいっぱい生きること、つまり人生を存分に使いこなしていくことだと気づく。世の中には、年に何億円も稼ぐ人がいる。しかし、自らが使う金はたかが知れている。どれほど贅沢したって月に千万の単位で金は使えないはずだ。つまり大金は持っていてもまさに宝の持ち腐れで全財産使わずにその人はおそらく死ぬ。そしてその金はどうなる。
いや、金持ちに限らない。コツコツと少ない給料を溜め込んで貧困の内に死んだとしても全く同じことだ。死んで身寄りが無ければその金は国庫に没収されてしまう。それは全く意味がない。ならばその使わない金は困窮に喘ぐ人、餓死していく者、生きるだけがやっとで教育が受けられない第三世界の子供たちに用いれば良い。ただ溜めて使わないのなら全く意味がない。
そうしたことは何でも同じで、例えば映画が大好きで年間300本も映画を観る人がいたとする。しかしその人がただ観ただけならば「消費」したに過ぎずそれも何にもならない。せめて映画の感想をどこかに書き綴るとかブログとかでそれを外に発信するのでなければ何にもならない。その人だけの楽しみだとしたらまったく無価値である。人は生きているからにはそこに社会性、外との繋がりが無くてはならないしそれこそが生きたことの証だと断言する。
翻って、自分も例えばギターを何十本も持ってはいる。が、そのギターで何かしない限り、せめて弾いて、唄って、あるいは教材として使わない限り死んでしまえば全く意味がないだけだ。つまりギターをいくら沢山持っていたとして、それらを使いこなさない限り、死んでしまえばギターを沢山持っていた人が死んだというだけであり、それらは四散してしまうだけの話なのである。
自分、マス坊は、世間様よりは広い家も含めて何でも持っている。金はないが道具も機材も楽器も本もレコードも何でも沢山持っている。しかし、それらは持っているというだけで実はほとんど使いこなしていない。最近そのことに思い至った。欲しいからと手に入れたはずでも手に入ったら「あること」に満足して実は使っていないこともままある。
パソコンもいくつも持っている。しかしじっさいのところ十二分に使いこなしているとは言いがたい。せいぜい主にメールとブログぐらいしかやっていない。全て宝の持ち腐れではないのか。そしてもう人生の黄昏が近づいてきた。これでは、何でも沢山持っていたけれど何もしないでそれだけで死んだ人になってしまう。
人生をもっと使いこなしていく。それも人のタメになることで。でないと第一義的、本能の義務を果たしていない者としてこれでは救われない。死後裁きにあおう。
陽はだいぶ傾いたけれどまだ陽射しは残っている。今さらだが陽射しのあるうちに人生を存分に使いこなしていきたい。パソコンもその延長線上にある。
幸福も楽しみも自分のため、一人だけのものであるとしたらたかが知れている。他人の不幸や困窮を片目に自分だけ楽しみや快楽に耽溺はできやしない。人は一人のために、一人は皆のために生きてこそ人なのである。
今さらながらだが、人は何のために生きているのか、人生の価値や意義について思い考えることがままある。
もう人生の残りが見えてきて老い先短い五十男がである。嗤ってください。
ただ、最近になってようやく少しはわかってきたこともある。人生の意義、人は何のために生まれ生きるのか。その意義、価値とは何か。
一番の理由は、子孫を残すためだ。生まれてきたことだって、その「法則」基づいて、親たちが出会い種の保存のために子を作り、それが自分だということだ。そこに理屈も意味もない。犬猫だって魚たちだって、植物だって生まれてくれば当たり前として行う行為なのである。
だから人も子孫を残せばもうそれでとりあえずの義務、生まれてきた理由、使命は果たしたのである。ほんとそれだけで十分なのである。
が、ならば自分のように子も孫もない、元より結婚もしていない、出来なかった者はどうなのかということになる。ただ、犬猫を見ても生まれた子全部が子孫を残すことができるわけではないし、子を残さずに死ぬ者もまた多くいる。つまり個々の問題ではなく、総体として種は絶えずに続けば良いわけであって、マス坊には子がなくてもマス坊の妹のところには3人の息子がいるように、まあ親たちの遺伝子的にはまた次世代へと続いていくのである。「家」的には絶えたとしても遺伝子はたぶん続いていく。
しかし、もしそれだけが人生の意義、価値だとしたら自分など全く生きている意味がない。つまり子孫生産できない者も生きていくとしたらそこにどんな意味があるかということだ。
思うに、子孫を産み残す「本能」的なことならば犬猫ら他の動物だってやっている。人が人として他の動物とは一線を画すとしたらやはり「社会性」を持ち、その中で共に組織だって生きていることに尽きるのではないか。
昔から「世のため人のため」という使い古された格言がある。実は五十を過ぎてからようやく人は自分のためだけに生きるのではなく、世のため人のため生きているのだと気がついた。いや、そう生きなくてはならない。汝の隣人のために。
そしてそのことはとりもなおさず、自らの生をせいいっぱい生きること、つまり人生を存分に使いこなしていくことだと気づく。世の中には、年に何億円も稼ぐ人がいる。しかし、自らが使う金はたかが知れている。どれほど贅沢したって月に千万の単位で金は使えないはずだ。つまり大金は持っていてもまさに宝の持ち腐れで全財産使わずにその人はおそらく死ぬ。そしてその金はどうなる。
いや、金持ちに限らない。コツコツと少ない給料を溜め込んで貧困の内に死んだとしても全く同じことだ。死んで身寄りが無ければその金は国庫に没収されてしまう。それは全く意味がない。ならばその使わない金は困窮に喘ぐ人、餓死していく者、生きるだけがやっとで教育が受けられない第三世界の子供たちに用いれば良い。ただ溜めて使わないのなら全く意味がない。
そうしたことは何でも同じで、例えば映画が大好きで年間300本も映画を観る人がいたとする。しかしその人がただ観ただけならば「消費」したに過ぎずそれも何にもならない。せめて映画の感想をどこかに書き綴るとかブログとかでそれを外に発信するのでなければ何にもならない。その人だけの楽しみだとしたらまったく無価値である。人は生きているからにはそこに社会性、外との繋がりが無くてはならないしそれこそが生きたことの証だと断言する。
翻って、自分も例えばギターを何十本も持ってはいる。が、そのギターで何かしない限り、せめて弾いて、唄って、あるいは教材として使わない限り死んでしまえば全く意味がないだけだ。つまりギターをいくら沢山持っていたとして、それらを使いこなさない限り、死んでしまえばギターを沢山持っていた人が死んだというだけであり、それらは四散してしまうだけの話なのである。
自分、マス坊は、世間様よりは広い家も含めて何でも持っている。金はないが道具も機材も楽器も本もレコードも何でも沢山持っている。しかし、それらは持っているというだけで実はほとんど使いこなしていない。最近そのことに思い至った。欲しいからと手に入れたはずでも手に入ったら「あること」に満足して実は使っていないこともままある。
パソコンもいくつも持っている。しかしじっさいのところ十二分に使いこなしているとは言いがたい。せいぜい主にメールとブログぐらいしかやっていない。全て宝の持ち腐れではないのか。そしてもう人生の黄昏が近づいてきた。これでは、何でも沢山持っていたけれど何もしないでそれだけで死んだ人になってしまう。
人生をもっと使いこなしていく。それも人のタメになることで。でないと第一義的、本能の義務を果たしていない者としてこれでは救われない。死後裁きにあおう。
陽はだいぶ傾いたけれどまだ陽射しは残っている。今さらだが陽射しのあるうちに人生を存分に使いこなしていきたい。パソコンもその延長線上にある。
幸福も楽しみも自分のため、一人だけのものであるとしたらたかが知れている。他人の不幸や困窮を片目に自分だけ楽しみや快楽に耽溺はできやしない。人は一人のために、一人は皆のために生きてこそ人なのである。
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