あらためて、歌ふことなき人人の 声の荒さよ ― 2014年03月19日 22時25分32秒
★人人が 誰もがうたをもてば アクセスランキング: 186位
天才詩人、啄木に、喰えなくなって北海道を放浪時代、当時は大都会であった小樽にいたときに詠んだうたに、「かなしきは小樽の町よ 歌ふことなき人人の 声の荒さよ 」がある。
自分は啄木こそ真の天才だと認めるが、なかでもこのうたは芸術を持つ者とそうでない人との関係を鋭く端的に語っている。時代がどれほど経とうともこの世には、歌ふ人と歌ふことなき人とがいて、その両者の距離と「かなしさ」は今も埋まることはない。
先日も、何かの折にふいにこのうたが頭をよぎって、まさに「歌ふことなき人の 声の荒さ」を実感して嘆息したことがあった。そう、歌わない人には永遠にわかってもらえない、伝わらないことがあるのだ。
啄木のうたには、こうした真実としか言いようのない、「実感」を巧みにうたにしたものが数多くある。そしてそれらは考えも技巧などなしでまさに自然にふいに口から湧いてきたものであり、天才ゆえ何も苦労せずできた「うた」だと言われている。今の時代ならまさにツイート、ツイッター的なものではないかと思う。そうした魂の本音的「呟き」こそが啄木であり、だからこそ時代を超えて読み手の心を今も揺さぶるのであろう。
うた、歌、唄についてずっと考えてきた。じっさいそれは詩も含めて、どのような文字をあてても全くかまわない。ただ、人がいて様々な現実がそこにあるならば、必然的に「うた」は生まれるし求められるはずだという確信は揺らがない。
ただ、残念なのは、この世にはそうした手段と発想がない人々がいて、それすらの余裕もない現実があるのもまた事実なのだ。ゆえに、短歌であろうと詩であろうと、唄であろうとそうした内的表現を持たない、しない人々がたくさんいるのである。そして彼らは結果として「声が荒」くなる。そのストレスや葛藤、悩みや怒り、哀しみや思いを発散する方法を持たないからでそれは仕方ない。良い悪いではない。
「芸術」というと高尚な美術館やコンサートホールでのそれを思い浮かべてしまうが、実はもっと「芸能」というものに近しく、本来誰もが生活の場で関われるものであったと思う。昔の人は学のない無名庶民でも万葉集のように思いを日々「うた」にすることができた。それはたしなみであり、人は本来そうしたツールを誰もが持っていたのだと思う。
それが近代化と共に生活と仕事がものすごく多忙になっていきそうした庶民文化としての芸能、芸術は失われていく。人々の頭にあるのは金と目先のことだけであり、たまさか金が入れば呑んで食べて博打、買春と刹那的な楽しみに人生を費やすようになってしまった。
そして資本主義の世の中では、芸能やうたすらも商売として商業的に売買されていくようになる。レコードが出て、そうした音楽の缶詰、パッケージのようなものが金でやりとりされる。そして木戸銭を払って見聞きするものとなってしまった。
そしてそれらは、自らが嗜む、行うものではなく、観客として単に鑑賞するもの、消費するものへと変化してしまった。せいぜいカラオケとして出来合いのそれを自らが仮想的に用いる、体験することはできるが、個々の人それぞれの芸能、芸術とは程遠いと思える。
芸術とか芸能というのはたとえどんなに拙い、下手くそなものであっても人それぞれ人の数だけあるのだと信ずる。誰もが啄木のように巧みにその心象をうたにすることなんてできやしない。が、そうした自らの思いを何かカタチに、表現するツールを人は何かしら持つべきではないのか。
さすれば、声の荒い人々も減って、世界から争いや紛争、戦争など減っていくかもしれない。
それは歌でもいいし詩でも唄でも何でも良い。絵画だって思いを雄弁に語ることができる。またこんなブログ、ツイッターのようなものでも同様だと思える。何はともあれ、胸に高まる、心に溜まる思いやもやもやとした気持ちを外へと出していくことだ。そのために大事なのは金を使う「消費」ではなく、芸術的「昇華」だと考える。
よく、芸術はウンコのようなものだと言われる。でも自分はそうは考えない。内側に溜まったから外に出すとしてもそんな汚いカスのようなものであってほしくない。しいて言えば、それは手作り料理のようなものではないか。つまり自分なりに美味しいと思うもの、食べたいものをカタチにしていく行為だと。
そう考えれば、カラオケなどは出来合いの、コンビニで売っているパックされた惣菜だとわかる。それは簡便だが画一的であまり美味しくない。工夫がない。何か安心できない。
そう、自分が欲しているものは、見かけは悪くても、ときに癖があり、口に合わなくても手作りの、ホームメイドの一生懸命に作った手作り料理なのだ。お金がとれなくても当然だろう。でもおそらく世界で唯一のその人だけの味だと思う。
芸術も芸能もそうであってほしい。そしてそういう料理を提供したいし、そうした料理が食べられる場を作りたい。本当のエコライフとは手作りだとするならば、出来合いの、商業路線に乗らない、流通しないものこそが真のエコであり、価値と意味を持つ。
というわけで、3月23日の無頼庵ライブ、手作りながらもしっかりした美味しい「音楽」を提供する。ぜひぜひお越しください。メニューは前菜にみほこん、メインディッシュは館野公一、もしかしたら突き出しとしてマス坊もほんのちょこっと・・・・
天才詩人、啄木に、喰えなくなって北海道を放浪時代、当時は大都会であった小樽にいたときに詠んだうたに、「かなしきは小樽の町よ 歌ふことなき人人の 声の荒さよ 」がある。
自分は啄木こそ真の天才だと認めるが、なかでもこのうたは芸術を持つ者とそうでない人との関係を鋭く端的に語っている。時代がどれほど経とうともこの世には、歌ふ人と歌ふことなき人とがいて、その両者の距離と「かなしさ」は今も埋まることはない。
先日も、何かの折にふいにこのうたが頭をよぎって、まさに「歌ふことなき人の 声の荒さ」を実感して嘆息したことがあった。そう、歌わない人には永遠にわかってもらえない、伝わらないことがあるのだ。
啄木のうたには、こうした真実としか言いようのない、「実感」を巧みにうたにしたものが数多くある。そしてそれらは考えも技巧などなしでまさに自然にふいに口から湧いてきたものであり、天才ゆえ何も苦労せずできた「うた」だと言われている。今の時代ならまさにツイート、ツイッター的なものではないかと思う。そうした魂の本音的「呟き」こそが啄木であり、だからこそ時代を超えて読み手の心を今も揺さぶるのであろう。
うた、歌、唄についてずっと考えてきた。じっさいそれは詩も含めて、どのような文字をあてても全くかまわない。ただ、人がいて様々な現実がそこにあるならば、必然的に「うた」は生まれるし求められるはずだという確信は揺らがない。
ただ、残念なのは、この世にはそうした手段と発想がない人々がいて、それすらの余裕もない現実があるのもまた事実なのだ。ゆえに、短歌であろうと詩であろうと、唄であろうとそうした内的表現を持たない、しない人々がたくさんいるのである。そして彼らは結果として「声が荒」くなる。そのストレスや葛藤、悩みや怒り、哀しみや思いを発散する方法を持たないからでそれは仕方ない。良い悪いではない。
「芸術」というと高尚な美術館やコンサートホールでのそれを思い浮かべてしまうが、実はもっと「芸能」というものに近しく、本来誰もが生活の場で関われるものであったと思う。昔の人は学のない無名庶民でも万葉集のように思いを日々「うた」にすることができた。それはたしなみであり、人は本来そうしたツールを誰もが持っていたのだと思う。
それが近代化と共に生活と仕事がものすごく多忙になっていきそうした庶民文化としての芸能、芸術は失われていく。人々の頭にあるのは金と目先のことだけであり、たまさか金が入れば呑んで食べて博打、買春と刹那的な楽しみに人生を費やすようになってしまった。
そして資本主義の世の中では、芸能やうたすらも商売として商業的に売買されていくようになる。レコードが出て、そうした音楽の缶詰、パッケージのようなものが金でやりとりされる。そして木戸銭を払って見聞きするものとなってしまった。
そしてそれらは、自らが嗜む、行うものではなく、観客として単に鑑賞するもの、消費するものへと変化してしまった。せいぜいカラオケとして出来合いのそれを自らが仮想的に用いる、体験することはできるが、個々の人それぞれの芸能、芸術とは程遠いと思える。
芸術とか芸能というのはたとえどんなに拙い、下手くそなものであっても人それぞれ人の数だけあるのだと信ずる。誰もが啄木のように巧みにその心象をうたにすることなんてできやしない。が、そうした自らの思いを何かカタチに、表現するツールを人は何かしら持つべきではないのか。
さすれば、声の荒い人々も減って、世界から争いや紛争、戦争など減っていくかもしれない。
それは歌でもいいし詩でも唄でも何でも良い。絵画だって思いを雄弁に語ることができる。またこんなブログ、ツイッターのようなものでも同様だと思える。何はともあれ、胸に高まる、心に溜まる思いやもやもやとした気持ちを外へと出していくことだ。そのために大事なのは金を使う「消費」ではなく、芸術的「昇華」だと考える。
よく、芸術はウンコのようなものだと言われる。でも自分はそうは考えない。内側に溜まったから外に出すとしてもそんな汚いカスのようなものであってほしくない。しいて言えば、それは手作り料理のようなものではないか。つまり自分なりに美味しいと思うもの、食べたいものをカタチにしていく行為だと。
そう考えれば、カラオケなどは出来合いの、コンビニで売っているパックされた惣菜だとわかる。それは簡便だが画一的であまり美味しくない。工夫がない。何か安心できない。
そう、自分が欲しているものは、見かけは悪くても、ときに癖があり、口に合わなくても手作りの、ホームメイドの一生懸命に作った手作り料理なのだ。お金がとれなくても当然だろう。でもおそらく世界で唯一のその人だけの味だと思う。
芸術も芸能もそうであってほしい。そしてそういう料理を提供したいし、そうした料理が食べられる場を作りたい。本当のエコライフとは手作りだとするならば、出来合いの、商業路線に乗らない、流通しないものこそが真のエコであり、価値と意味を持つ。
というわけで、3月23日の無頼庵ライブ、手作りながらもしっかりした美味しい「音楽」を提供する。ぜひぜひお越しください。メニューは前菜にみほこん、メインディッシュは館野公一、もしかしたら突き出しとしてマス坊もほんのちょこっと・・・・
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