我が青春のパック・イン・ミュージック ― 2014年03月21日 14時37分24秒
★ラジオが世界の窓だった時代の「同窓会」 アクセスランキング: 221位
春は卒業のシーズンである。「卒業」すればいつかまた再会のとき、「同窓会」という場もあるに違いない。それは何も学校などの教育組織に限らない。ある一定の期間、濃密な関係を結べた人たちにだっておとずれる。
今日3月21日、赤坂BLITZというホール会場で、TBSの主催で、「我が青春のパック・イン・ミュージック」という催しが昼夜二回公演であった。自分は、故・林美雄アナウンサーのファンクラブ的「メモリアルクラブ」をやっている関係上、多少の協力もでき招待券を頂いたので、クラブの会員方とそのイベントに行ってきた。その報告話をすこしする。
かつて60年代後半から70年代全般に、「深夜放送の時代」があった。じっさいのところ、もうメディアの趨勢はテレビに奪われていたが、まだラジオは若者世代を中心に、放送する側と聴き手、つまり今の言葉で言えば、パーソナリティとリスナーとの間に強く熱い関係が結ばれていた。
特にまだ社会に出ていない学生、受験生たちにとって、深夜放送とは情報獲得と伝達の場であり、個々それぞれ皆の様々な思い――悩みやストレス、願いや怒りなどをマイクを通して話しているパーソナリティに手書きのハガキで届け、世に拡散させてもらうべく、せっせっと毎晩寝ないでトランジスタラジオに受験勉強などのふりをしつつ耳を傾けていた。
かくいう自分もそうした一人であった。当時は各ラジオ局ごとに全国各地、そうした若者向け深夜放送番組が花盛りで、「深夜放送ファン」という専門誌さえも出ていたのである。そして自分はずっとTBS東京放送一筋で、むろん他局も聞きかじった時期はあったが、ホームグランド的に今も昔もTBSにはシンパシーを抱いている。
そのTBSの深夜放送枠が「パック・イン・ミュージック」であり、60年代の後半から始まり、80年代の前半まで続いていたのだと今回改めて確認できた。自分が一番熱心に聴いていたのが、主に中学生の頃、72年から75年ぐらいまでであり、ほぼ毎晩平日は小島一慶担当の火曜パックから山本コータローの土曜まで布団の中でラジオに耳を傾けていた。今思うといったいいつどこで眠っていたのか不思議にさえ思う。何しろ、金曜日パックに至っては一部の深夜1時の那智・チャコから林美雄の二部が終わる朝の5時まで聴いていたのだから。
そんな放送など夜通し聴かずに、もっと昼間もしっかり勉強し夜も受験勉強に精を出せば高校も三流都立ではなく、進学校に行けたと思うしさすれば自分のオツムでも国立は無理でも公立の大学へも行けたかもしれない。良い会社に入り生活も安定し今頃は悠々自適、孫を抱いて楽隠居していたかも。人生もきっと大きく様変わりしていただろうと考えなくもない。
しかし、逆に深夜放送というものを聴いていたから今の自分があるのは確かなわけで、その出会いと選択に今は何一つ悔いはない。たとえ東大に入って官僚にでもなったとしたらそれは自分ではないしまったく別の人間なのである。そう、今の自分があるのはラジオの深夜放送がそもそものスタートであった。ラジオが全てを与え教えてくれて道を示してくれたのだった。特にそれは林美雄さんという時代の稀有な目利き、若者文化の熱いナビゲーターがいたからだ。
また、彼に限らず、深夜放送とはリスナーに歳は近いが年上の兄貴やお姉さんが聴き手である若輩の若者たちに対して、やさしく面白おかしくときに厳しくしっかりしろ、頑張れと常に励ましアドバイスもしてくれた。学校や家庭で嫌なツライことがあろうと深夜にラジオのスイッチ入れて彼らの語りに耳を傾ければ癒されもしたしこちらの屈託した気持ちを届けることもできた。
そうしたリクエストハガキという1枚の紙に記された手書きの文字に込められた思いが放送という電波で結ばれ彼らパーソナリティによって「声」として飛び交っていたのだ。今にしてそれはもう一つの学校であり、深夜の解放区であり、もう一つの別の広場、コミューンのようなものであったのだと気づく。まだぴあなどの情報誌もない、まして携帯電話もインターネットもない時代である。が、ラジオを通して人と人が結びついていた実に幸福な良い時代であったのだ。
そんなパックのリスナーたち、今はもはや自分も含めて50代、60代となってしまったかつての若者たちがTBSのある赤坂のBLITZという会場に集った。かなり高額なチケット代だと思えたが、二階席も含めほぼ満席の入りにも驚かされたし昼夜二回の公演ではのべ数千人がこのイベントに参加したことにも感心した。
で、どうであったかというと、予想していたよりも楽しく面白かったし、参加できたことは今とても良かったと思える。満足というか堪能もした。何よりも小島一慶、白石冬美の変わらぬ声が聞け元気な姿が見れたこと、飛び入り的に桝井論平氏らの姿もあり、そうした懐かしい方々と「再会」できたことが何よりうれしかった。
ただ、同窓会としてみたとすると、けっきょく、参加者は時期も教室(聴いていた放送)もバラバラであるので、どうしても総体としてのパック・イン・ミュージックという学校全体での集いとなってしまい、とりとめのなさ、中途半端感は仕方ないものであった。つまりそうした学校全体の同窓会では卒業生皆で集まったとしても何期生なのかで固まるように一体感は望めない。そうしたことを差し引いてもかなり良くできた心温まるイベントであったかと今は思える。※じっさいにチケット代を支払って参加したらまた違う気持ちになっていたであろうけれど。
一慶氏と兵頭ユキの司会進行で、山本コータローから白石冬美、堀内孝雄、山崎ハコ、そして小室等までゲストとして登場して各々2曲づつ歌い休憩なしの二時間半という長丁場であった。誰もが皆それぞれ持ち味をよく出していたしあの頃を思い出しさまざな感慨がわいてきた。とても楽しく懐かしい良い同窓会であったが、結果として、そこに野沢那智と林美雄という表と裏の人気者、パックを語るとき絶対に欠かせないお二方の姿がないことにその不在を強く感じたイベントであった。
そして帰り道、リアルタイムでその二人が担当していた改変前の金曜パックを聴けた、聴いていた自分の青春の幸福を改めて噛みしめた。今まで振り返ればちっとも良い青春だなんて思ってもなかったが、何だ、俺はずいぶん幸せだったんだと、深夜放送の時代に生きていた幸運に感謝した。そしてこれからはまた再びもっとラジオを聴こうと思い直した。
我が青春のバック・イン・ミュージック永遠なれ!!
春は卒業のシーズンである。「卒業」すればいつかまた再会のとき、「同窓会」という場もあるに違いない。それは何も学校などの教育組織に限らない。ある一定の期間、濃密な関係を結べた人たちにだっておとずれる。
今日3月21日、赤坂BLITZというホール会場で、TBSの主催で、「我が青春のパック・イン・ミュージック」という催しが昼夜二回公演であった。自分は、故・林美雄アナウンサーのファンクラブ的「メモリアルクラブ」をやっている関係上、多少の協力もでき招待券を頂いたので、クラブの会員方とそのイベントに行ってきた。その報告話をすこしする。
かつて60年代後半から70年代全般に、「深夜放送の時代」があった。じっさいのところ、もうメディアの趨勢はテレビに奪われていたが、まだラジオは若者世代を中心に、放送する側と聴き手、つまり今の言葉で言えば、パーソナリティとリスナーとの間に強く熱い関係が結ばれていた。
特にまだ社会に出ていない学生、受験生たちにとって、深夜放送とは情報獲得と伝達の場であり、個々それぞれ皆の様々な思い――悩みやストレス、願いや怒りなどをマイクを通して話しているパーソナリティに手書きのハガキで届け、世に拡散させてもらうべく、せっせっと毎晩寝ないでトランジスタラジオに受験勉強などのふりをしつつ耳を傾けていた。
かくいう自分もそうした一人であった。当時は各ラジオ局ごとに全国各地、そうした若者向け深夜放送番組が花盛りで、「深夜放送ファン」という専門誌さえも出ていたのである。そして自分はずっとTBS東京放送一筋で、むろん他局も聞きかじった時期はあったが、ホームグランド的に今も昔もTBSにはシンパシーを抱いている。
そのTBSの深夜放送枠が「パック・イン・ミュージック」であり、60年代の後半から始まり、80年代の前半まで続いていたのだと今回改めて確認できた。自分が一番熱心に聴いていたのが、主に中学生の頃、72年から75年ぐらいまでであり、ほぼ毎晩平日は小島一慶担当の火曜パックから山本コータローの土曜まで布団の中でラジオに耳を傾けていた。今思うといったいいつどこで眠っていたのか不思議にさえ思う。何しろ、金曜日パックに至っては一部の深夜1時の那智・チャコから林美雄の二部が終わる朝の5時まで聴いていたのだから。
そんな放送など夜通し聴かずに、もっと昼間もしっかり勉強し夜も受験勉強に精を出せば高校も三流都立ではなく、進学校に行けたと思うしさすれば自分のオツムでも国立は無理でも公立の大学へも行けたかもしれない。良い会社に入り生活も安定し今頃は悠々自適、孫を抱いて楽隠居していたかも。人生もきっと大きく様変わりしていただろうと考えなくもない。
しかし、逆に深夜放送というものを聴いていたから今の自分があるのは確かなわけで、その出会いと選択に今は何一つ悔いはない。たとえ東大に入って官僚にでもなったとしたらそれは自分ではないしまったく別の人間なのである。そう、今の自分があるのはラジオの深夜放送がそもそものスタートであった。ラジオが全てを与え教えてくれて道を示してくれたのだった。特にそれは林美雄さんという時代の稀有な目利き、若者文化の熱いナビゲーターがいたからだ。
また、彼に限らず、深夜放送とはリスナーに歳は近いが年上の兄貴やお姉さんが聴き手である若輩の若者たちに対して、やさしく面白おかしくときに厳しくしっかりしろ、頑張れと常に励ましアドバイスもしてくれた。学校や家庭で嫌なツライことがあろうと深夜にラジオのスイッチ入れて彼らの語りに耳を傾ければ癒されもしたしこちらの屈託した気持ちを届けることもできた。
そうしたリクエストハガキという1枚の紙に記された手書きの文字に込められた思いが放送という電波で結ばれ彼らパーソナリティによって「声」として飛び交っていたのだ。今にしてそれはもう一つの学校であり、深夜の解放区であり、もう一つの別の広場、コミューンのようなものであったのだと気づく。まだぴあなどの情報誌もない、まして携帯電話もインターネットもない時代である。が、ラジオを通して人と人が結びついていた実に幸福な良い時代であったのだ。
そんなパックのリスナーたち、今はもはや自分も含めて50代、60代となってしまったかつての若者たちがTBSのある赤坂のBLITZという会場に集った。かなり高額なチケット代だと思えたが、二階席も含めほぼ満席の入りにも驚かされたし昼夜二回の公演ではのべ数千人がこのイベントに参加したことにも感心した。
で、どうであったかというと、予想していたよりも楽しく面白かったし、参加できたことは今とても良かったと思える。満足というか堪能もした。何よりも小島一慶、白石冬美の変わらぬ声が聞け元気な姿が見れたこと、飛び入り的に桝井論平氏らの姿もあり、そうした懐かしい方々と「再会」できたことが何よりうれしかった。
ただ、同窓会としてみたとすると、けっきょく、参加者は時期も教室(聴いていた放送)もバラバラであるので、どうしても総体としてのパック・イン・ミュージックという学校全体での集いとなってしまい、とりとめのなさ、中途半端感は仕方ないものであった。つまりそうした学校全体の同窓会では卒業生皆で集まったとしても何期生なのかで固まるように一体感は望めない。そうしたことを差し引いてもかなり良くできた心温まるイベントであったかと今は思える。※じっさいにチケット代を支払って参加したらまた違う気持ちになっていたであろうけれど。
一慶氏と兵頭ユキの司会進行で、山本コータローから白石冬美、堀内孝雄、山崎ハコ、そして小室等までゲストとして登場して各々2曲づつ歌い休憩なしの二時間半という長丁場であった。誰もが皆それぞれ持ち味をよく出していたしあの頃を思い出しさまざな感慨がわいてきた。とても楽しく懐かしい良い同窓会であったが、結果として、そこに野沢那智と林美雄という表と裏の人気者、パックを語るとき絶対に欠かせないお二方の姿がないことにその不在を強く感じたイベントであった。
そして帰り道、リアルタイムでその二人が担当していた改変前の金曜パックを聴けた、聴いていた自分の青春の幸福を改めて噛みしめた。今まで振り返ればちっとも良い青春だなんて思ってもなかったが、何だ、俺はずいぶん幸せだったんだと、深夜放送の時代に生きていた幸運に感謝した。そしてこれからはまた再びもっとラジオを聴こうと思い直した。
我が青春のバック・イン・ミュージック永遠なれ!!

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