三年目の3.11鎮魂の日に2014年03月11日 23時16分58秒

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 風邪気味だからというわけではないと思うが今日も寒かった。
三年前の今日、自分はウチの改築工事の最中、社員と一緒に、表のキッチンにあたる部屋のフロアの床にニスを塗る作業をやっていた。突然体験したことのない強い揺れがかなり長く続き、慌てて裏の部屋にいた父のところに駆けつけ無事を確かめた。母は癌の摘出手術直後で立川の病院に入院中だった。あの日は今思うともっと暖かい長閑で穏やかな春の日だった気がする。
 その後もほぼ同様の強い余震がすぐまた起きたりと以後しばらくの間は大地は揺れ続けていたが、幸い我家では被害と呼べるようなことは何も起きなかった。せいぜい二階自室の本の山が崩れた程度で済んだ。電車が動かないので来ていた友人は泊まって、テレビで大津波が三陸の街や田畑をのみ尽くす様、火災で燃え続ける港を息を呑んでみていた。

 今日であれから三年がたつ。長いとも短いとも何とも言えないが、一年目のとき、去年の今日に比べると「3.11」という特別な日の意味と重さは今年がいちばん大きくなっているような気がする。それは自分だけでなくマスコミの取り上げ方も今までとはまた違う気がする。
 三年目、というのは一つの節目であるし、それまでの一年目、二年目に比べてある程度混乱も収まり今後についても目途や展望が見え、決断の時期となったからかもしれない。混乱から収拾、そして新たな展開へと動き出す時期となったとも言えよう。

 しかし現実は、その展開は復興をそのまま意味していない。新たに元いた場所に自宅を再建、再就職や仕事再開となった方もいるだろうが、何十万人もの方々が今も避難生活を続けて元の場所、住み慣れた故郷には帰れていないというのが現実なのである。「見えない展望」という文字が各紙を踊っている。
 そうした厳しい現状についてはさんざん新聞やテレビ他、各メディアが報じてているから今さら記すこともないだろう。今も仮設住宅に暮らすお年寄りの震災関連死が増え続けている。政治の責任も大きく問われる。が、そもそも高齢化と過疎に悩んでいた東北という「地方」で起きた大地震と大津波、そして火災であり、さらにそこに原発事故、放射能汚染という問題が複雑に絡んでくる。どう考えてもおいそれと復興がなるわけがない。

 阪神淡路の大震災では、もはやその当時を偲ばせるものはほとんど何もないほど復興は成ったそうだが、それはやはり場所が大都市であったことと、津波や原発事故という被害に輪をかける難題がなかったからだと理解できる。住民が住んでいた場所に再び家を建てれば街は復興するというような単純な図式が3.11の大地震にはことごとく当てはまらない。新たに防潮堤をつくるにしろ、高台へ集団移転するにしろ金と時間がやたらかかるのである。もともと過疎で仕事が少なく漁業、水産加工業ぐらいしかなかった地域を復興させるということはどういうイメージを抱けば良いのだろうか。元通りに、といっても元通りになるわけもないのだ。※政府自民党が「元通りに」と目論むのは、各地の原発再稼働と再び原発に依存する日本社会であろう。

 むろん被災地、東北支援のために向うの生産品を全国民が買って利用し応援するということは出来よう。しかしそれは当然すべきこととしてもそれだけで解決するとはとても思えない。今後もボランティアが駆け付けたり、皆で何かできることで手伝い支援することも大事だと思うが、何かもっと根本的に国家を挙げて壮大な復興計画を立てるべきではなかったのか。
 復興を各自治体、市町村の自主性に任せるだけではなく、首都機能を岩手か宮城に移転させるほどの大規模な国家プロジェクトを立ち上げない限り、元からの過疎地東北には人も企業も集まらない。放射能ももう問題ないレベルとされているのならば福島に国会を移設すればとも考える。それが現実は東北復興そっちのけで東京オリンピックで首都再開発に目の色を変えているのがこの国の政治と土建屋なのである。

 様々な思いがわく。今日は一日憂鬱な気持であった。告白すると3.11が近づくにつれて後悔の念のような苦い気持ちが高まり胸が塞がれそうになる。それは被災地と被災者の方々のために、できることとすべきことは何であるかという問いかけであり、何もしていない、何もできない自分に対する情けなさだ。忙しいとか自分が喰うのでやっとだからというのは言い訳にもならない。汝の隣人を愛せと言われているではないか。

 日本の近代の歴史を見るときに「棄民」という言葉が目につく。国家いうのは、様々な災害や戦争など国家的規模の非常時に、民を捨てる、つまり見捨ててしまうのである。
 渡良瀬川沿いにあった谷中村の住民は廃村を余儀なくされ棄民にされた。王道楽土満州に渡った多くの日本人も結果として日本国家に見捨てられた。国策として募り南米など海外に移住させられた農家の次男三男たちも。
 東北に住んでいて被災された方々、今も仮設住宅に住む、帰りたくても故郷に帰れない被災者たちがこのまま日本国に「棄民」とされないことを強く望む。彼らをまず救わずして、どうして「拉致被害者救出」のため軍事的対応策を考えるなどと言えるのか。

 あれから三年、今年こそは東北の地へ、被災の「現場」にともかくまず足を運ぼうと今日決意した。そして3.11が来ようと来まいと何ができるかすべきことをこれからも常に考えていく。
 災害も天災ならば防災で食い止められるだろう。人災であれば人は何をなすべきかだ。原発事故は天災ではない。フクシマの大惨事は人類の犯した大罪なのである。