全てありのままに、あからさまに ― 2016年06月03日 21時47分15秒
★母のことと、二か月ぶりに電車に乗って、生まれて初めてカラオケボックスに入った話
実はこの数日来母の具合が悪く、下痢が三日も止まらないと昨日は夕方から病院に急患扱いのつもりで行った。父が入院している立川の病院である。
昨日は、幸い夜7時までの夜間外来をやっている日で、診察受けて点滴受けて、下痢止めと整腸剤など薬だけ出してもらい帰ることができた。正直なところ、母も我もまた入院の覚悟で、歯ブラシとかスリッパなど毎度の「入院セット」も用意して出向いた。
先だって腸閉塞に再びならぬよう大腸のバイパス手術を受けてから、いったんは便も整うようになって喜んでいたのだが、5月の連休に一週間ほど便秘が悪化して再入院してからは、下痢が日常化してしまい、少し食べてはみぞおち辺りがチクチク痛むと始終言い出し、食事のつどトイレに駆け込むようになってしまっていた。
そんなで一時期は40キロまで戻った体重も退院後測ったら35キロになり、また下痢が続いたので今は33キロしかなく、まさに骨と皮の生けるミイラ状態となってしまっている。
当然体力はまったくなく、午前中はともかくも午後になるとベッドの中で今だ電気アンカを腹にあててうつらうつら仮眠をとっている。脂肪がないからだと思うが、どんなに外は暑い日でも足が冷えると言い、未だウチはコタツが片付けられないままだ。たぶん今年は通年コタツは夏でも使い続けることになるかと思える。
正直なところ、何を作ってもろくに食べず、いや、食べられず、少し食べては苦しがりトイレに駆け込む母と暮らすのはこちらまで辛く苦しい。どんどん余り物は溜まり、冷蔵庫にも入りらないから我が片付けることになるが、本当にうんざりである。
父も今入院中なのだから、二人してまた入院してくれた方が、こちとらは弁当買ったり外食で済ませば良いわけでどれほど楽かとも考える。
勝手な言い草だが、あれほど母の退院を待ち望んていたのに、その世話、介護というほどでなくても今の状態では、我の負う荷はかなり限界に近づいている。
癌性イレウス、腸閉塞になる前の母は、決して体調は良かったわけではないが、まあ、家のこと、家事などもやってくれたし、食事ならば息子が作れば、母はその後片付けはしてくれたり、親子で分担はできていた。
我が出かけることも、家のことは、父はともかく母に言づけて任せることもできた。が、今は、家事はもはやほとんど何もできない状態どころか、下手すると夜中に吐いたものを突然全部吐いたり、下痢が続いてトイレから出ることもままならないほど衰弱してしまっているから、おちおち都心などに出て人と会ったりライブや映画を観ることすらできやしない。ともかく目が離せない。家を空けられない。家から出られない。
ただ、今日は、近づく6.11の我が責任者となっている、かけこみ亭でのコンサートの件で、どうしても共演する人と会い、打ち合わせ兼音合わせをせねばならず、何とかやっと新宿に出て、カラオケボックスでほんの数時間だが練習のようなことができた。コンサートの本番当日までたった一回だが、音合わせもでき何も決められずいきなりぶっつけ本番という最悪の事態は避けられた。
自分でも信じられないが、電車に乗ったのは、3月末の高坂一潮追悼コンサートで南武線谷保まで行ったとき以来だから、まるまる4、5月+数日で実に二か月ぶりである。
もともとあまり行動的でないし、立川の病院とか近場に行くのはいつもマイカーだったけど、二か月以上も電車を利用しなかったのは大人になってから記憶にない。いや、若い頃フランスや海外をぶらついて日本に不在だったとき以来かと思う。それほどこの二か月は親たちのことで慌ただしかったのだ。
実は今日も果たして約束通り都心に出られるのか昨日の段階では何とも先が見えなかった。しかし、その相手、今回からぶらいあんずのメンバーとして参加されるM氏は、当方の事情も良く理解してくれていたので、母と我の体調優先でかまわないとこちらに合わせてくれていて、何とかやっと今日うまく会うことができた。
母は昨日に引き続き、今日も午前、病院からの送迎バスで立川の系列の診療所で、点滴受けたので、今日はだいぶ元気になっていた。ビタミンなどの栄養素とブドウ糖だけだと思うが、点滴効果は目をみはるものがある。
そんなこんなで、何とか今日は久々に都心、新宿まで電車に乗って出かけることができた。そして練習の後、一時間ほど、西口の思い出横丁で軽くビールを飲むこともできた。感無量というのは大げさだが、今日のビールの味は忘れられないものになるかと思う。
M氏から、有難くもまずはマスダ自身が体を大事にして、どうか無理しないでと諭され、老親のことで時間を奪われて様々なことに不義理して苦しく苛立つ気持ちは少しだが鎮まり救われた気がした。彼も含めて我の仲間たちは皆そうした状況はよくわかっているからと言ってもらい、その言葉に甘えてはならないが、ほんとうに気持ちはだいぶ楽になった。有難いことである。
つくづく我は良い友に恵まれていると思う。
そして思った。ならばこそ、すべてありのままに、この迷える思いも含めてあるがまま書き記していこうと。
恥ずかしいとかみっともないという気持ちもあった。こんな自分にも多少の見栄やカッコよくありたいという気持ちだって少しはある。いや、それよりもあまりに悲惨なことや情けないことは書いても読まれた人を憂鬱にし辛くさせるのではないかと迷っていた。
が、今日帰り道考え直した。やはりここまで書き続けてきたのだ。これからも全て我が迷い惑い苦しむ気持ちすらもそのまま書き記していこうと決めた。むろんのこと、誰か他者を傷つけるようには書いてはならないと心している。
それ以外は、まずは親たちの死と、そして我が残りの人生と我の死の直前まで、書き続けられる最後の時までできるだけ真摯に思うところとあったことを書き残していきたい。
我が敬愛する山口瞳先生は、死ぬ一週間前で彼の日常を綴った「男性自身」を病床からも書き続けていたと記憶する。ならば心の師に倣い我もまた我自身の「男性自身」であるこのブログを書いていく。
長くなった、生まれて初めてカラオケへ入った話はまた別の機会に書くことにする。
実はこの数日来母の具合が悪く、下痢が三日も止まらないと昨日は夕方から病院に急患扱いのつもりで行った。父が入院している立川の病院である。
昨日は、幸い夜7時までの夜間外来をやっている日で、診察受けて点滴受けて、下痢止めと整腸剤など薬だけ出してもらい帰ることができた。正直なところ、母も我もまた入院の覚悟で、歯ブラシとかスリッパなど毎度の「入院セット」も用意して出向いた。
先だって腸閉塞に再びならぬよう大腸のバイパス手術を受けてから、いったんは便も整うようになって喜んでいたのだが、5月の連休に一週間ほど便秘が悪化して再入院してからは、下痢が日常化してしまい、少し食べてはみぞおち辺りがチクチク痛むと始終言い出し、食事のつどトイレに駆け込むようになってしまっていた。
そんなで一時期は40キロまで戻った体重も退院後測ったら35キロになり、また下痢が続いたので今は33キロしかなく、まさに骨と皮の生けるミイラ状態となってしまっている。
当然体力はまったくなく、午前中はともかくも午後になるとベッドの中で今だ電気アンカを腹にあててうつらうつら仮眠をとっている。脂肪がないからだと思うが、どんなに外は暑い日でも足が冷えると言い、未だウチはコタツが片付けられないままだ。たぶん今年は通年コタツは夏でも使い続けることになるかと思える。
正直なところ、何を作ってもろくに食べず、いや、食べられず、少し食べては苦しがりトイレに駆け込む母と暮らすのはこちらまで辛く苦しい。どんどん余り物は溜まり、冷蔵庫にも入りらないから我が片付けることになるが、本当にうんざりである。
父も今入院中なのだから、二人してまた入院してくれた方が、こちとらは弁当買ったり外食で済ませば良いわけでどれほど楽かとも考える。
勝手な言い草だが、あれほど母の退院を待ち望んていたのに、その世話、介護というほどでなくても今の状態では、我の負う荷はかなり限界に近づいている。
癌性イレウス、腸閉塞になる前の母は、決して体調は良かったわけではないが、まあ、家のこと、家事などもやってくれたし、食事ならば息子が作れば、母はその後片付けはしてくれたり、親子で分担はできていた。
我が出かけることも、家のことは、父はともかく母に言づけて任せることもできた。が、今は、家事はもはやほとんど何もできない状態どころか、下手すると夜中に吐いたものを突然全部吐いたり、下痢が続いてトイレから出ることもままならないほど衰弱してしまっているから、おちおち都心などに出て人と会ったりライブや映画を観ることすらできやしない。ともかく目が離せない。家を空けられない。家から出られない。
ただ、今日は、近づく6.11の我が責任者となっている、かけこみ亭でのコンサートの件で、どうしても共演する人と会い、打ち合わせ兼音合わせをせねばならず、何とかやっと新宿に出て、カラオケボックスでほんの数時間だが練習のようなことができた。コンサートの本番当日までたった一回だが、音合わせもでき何も決められずいきなりぶっつけ本番という最悪の事態は避けられた。
自分でも信じられないが、電車に乗ったのは、3月末の高坂一潮追悼コンサートで南武線谷保まで行ったとき以来だから、まるまる4、5月+数日で実に二か月ぶりである。
もともとあまり行動的でないし、立川の病院とか近場に行くのはいつもマイカーだったけど、二か月以上も電車を利用しなかったのは大人になってから記憶にない。いや、若い頃フランスや海外をぶらついて日本に不在だったとき以来かと思う。それほどこの二か月は親たちのことで慌ただしかったのだ。
実は今日も果たして約束通り都心に出られるのか昨日の段階では何とも先が見えなかった。しかし、その相手、今回からぶらいあんずのメンバーとして参加されるM氏は、当方の事情も良く理解してくれていたので、母と我の体調優先でかまわないとこちらに合わせてくれていて、何とかやっと今日うまく会うことができた。
母は昨日に引き続き、今日も午前、病院からの送迎バスで立川の系列の診療所で、点滴受けたので、今日はだいぶ元気になっていた。ビタミンなどの栄養素とブドウ糖だけだと思うが、点滴効果は目をみはるものがある。
そんなこんなで、何とか今日は久々に都心、新宿まで電車に乗って出かけることができた。そして練習の後、一時間ほど、西口の思い出横丁で軽くビールを飲むこともできた。感無量というのは大げさだが、今日のビールの味は忘れられないものになるかと思う。
M氏から、有難くもまずはマスダ自身が体を大事にして、どうか無理しないでと諭され、老親のことで時間を奪われて様々なことに不義理して苦しく苛立つ気持ちは少しだが鎮まり救われた気がした。彼も含めて我の仲間たちは皆そうした状況はよくわかっているからと言ってもらい、その言葉に甘えてはならないが、ほんとうに気持ちはだいぶ楽になった。有難いことである。
つくづく我は良い友に恵まれていると思う。
そして思った。ならばこそ、すべてありのままに、この迷える思いも含めてあるがまま書き記していこうと。
恥ずかしいとかみっともないという気持ちもあった。こんな自分にも多少の見栄やカッコよくありたいという気持ちだって少しはある。いや、それよりもあまりに悲惨なことや情けないことは書いても読まれた人を憂鬱にし辛くさせるのではないかと迷っていた。
が、今日帰り道考え直した。やはりここまで書き続けてきたのだ。これからも全て我が迷い惑い苦しむ気持ちすらもそのまま書き記していこうと決めた。むろんのこと、誰か他者を傷つけるようには書いてはならないと心している。
それ以外は、まずは親たちの死と、そして我が残りの人生と我の死の直前まで、書き続けられる最後の時までできるだけ真摯に思うところとあったことを書き残していきたい。
我が敬愛する山口瞳先生は、死ぬ一週間前で彼の日常を綴った「男性自身」を病床からも書き続けていたと記憶する。ならば心の師に倣い我もまた我自身の「男性自身」であるこのブログを書いていく。
長くなった、生まれて初めてカラオケへ入った話はまた別の機会に書くことにする。
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