諦めずに少しでも歩を進めていく ― 2016年06月20日 07時44分08秒
★死に行く人と死に行く国家、死に行く地球と共に生きること
(我をとりまく状況も含め)すべては楽観できず先行きの見通しは立たない。聖書に、刈り入れの時期なのに働き手が少ないという喩えがあったと記憶するが、今は種を蒔く者もそれを育て育む者も、刈り取る者も全てが少ないというような思いがしている。
誰もがそれぞれの大なり小なり思いがあり、ささやかな幸せを願っている。が、現実問題としてそのために何をどうしていくかその答えがみつからない。
ただ日々の暮らしに追われて目先のことに囚われて時間だけが好きでいく。束の間の慰安に癒される者はまだしも出口のない日常から抜け出せず自他も含めて「死」だけに救いを求めている者も多々いる。
出口が見えず救いのない現実は、アメリカならばトランプ氏のような過激な一国独善主義者を誕生させる。英国では、英国一番!と叫ぶ狂信的愛国者?がEU残留を呼び掛ける議員を射殺した。
日本でも、強い日本を取り戻すとか東京を世界一の都市に、と公約に掲げた者たちが大きな支持を得たが、じっさいのところ彼らは何を成し得たのか。彼らを支える大企業、富裕層と自らの私腹を肥やすことだけではないか。アベノミクスで生活が豊かになった者よ出でよ。そんな人がいるのならぜひ話が聞きたいと願う。その金もうけのヒケツは庶民も応用できますか。
外国人やマイノリティたちを差別し憎み排斥する思想はそうした社会が成立したとしてもかつてのナチスドイツ的現実しかもたらさない。国家の自殺行為である。
地震大国日本で、性懲りもなく老朽化した原発を稼働させていく。それだけが地方振興、一億総活躍社会のヒケツなのだろうか。その先に来るのはバラ色の未来だとはどう考えても想像できない。
誰もが皆、自分のことと自分の地域と自らの国家の繁栄しか考えない。自分たちだけが豊かに幸福になれば隣に飢えと貧困に苦しむ者がいようと見て見ぬふりをする。怠け者には手を差し伸べるべきではないというトランプ氏的自己責任論が大手をふってまかり通る社会である。
すべての人が、すべての国家が自らのことを優先し自らのことだけしか考えないのならその先には何が待っているのであろうか。EUの理念は先の欧州大戦の悲劇を繰り返さぬために、国と民族という枠組みをできるだけ取っ払うために考え出されたもののはずだ。
それを再び、国家は国家という枠組みに中に、人は個々の家の中に閉じこもり閉じ込めてしまうのならば、人類の進歩と発展は何世紀も前に戻ることでしかない。
そう嘆く我も、時間の進みに追いついていくのがやっとで、この数か月は老親たちのことで手いっぱいで何一つ成すべきことができないでいた。
気がつけば六月も半ばが過ぎ、今年も一年の半分が終わろうとしている。出口が見えず倦み疲れる現実ではあるけれど、刹那的快楽に溺れるのではなく、今さらだが、少しでも我が隣人のために、隣人と共に生きたいと願う。
世界は今、様々な不安と憎しみ、怒りと不満で満ちている。その原因はいったいどこにあるのか。移民や在留外国人、性的マイノリティ、子どもを産まない女性、長生きした高齢者に課してはならない。
ほんの一部の富裕者層が金と権力を握り、支配者として富とシステムを思うがままにしているという、人間社会が成立したときからの支配と搾取の構造こそ問題として誰でも認識しないとならない。
金持こそ、エリートこそとことんドケチだということはマスゾエ氏で証明されたであろう。彼らはどれほど稼いだって自らのタメにしか金を使わない。余ればひたすら溜め込む。海外にまで資産を移して隠す。
アベノミクスでまず大企業を儲けさせればその恩恵が下層、中小企業、ひいては庶民にまで及ぶと言う。今はまだ道半ばなのだと安倍晋三たちは口々に説く。
そんなことは未来永劫絶対にない。金持はケチだから金持になったのである。どれほど儲けが出ても従業員に気前よくベアしたりバイトや派遣を正社員へ格上げしたりなどしない。金持とはそうした輩なのだ。どんなに金が入ろうともっともっと稼ごう、さらに儲けようと考えるのである。
ならばこそ、奴らとは違う生き方、価値観でもって同じ思いを持つ仲間たちと争うことなく助け合い励まし合い生きていくべきだと気づく。
共生と連帯、自らの豊かさと幸福は大事だが、道に倒れた者に誰が手を差し伸べるのかだ。我がそうであるように、誰もが倒れる側にだって当然なりうる。そのとき通りがかって、面倒なことになると見て見ぬして通りすぎていく者と手を差し伸べる者がいる。
この日本では、いや、この社会、地球では誰もがときに被災者になり障害者になりマイノリティにも成り得る。幸福も安定も豊かささえも永久に続くはずがない。弱者と強者が存在するならば、自らが強者になろうとするのではなく、弱者に手を差し伸べその格差や差別、「差」を埋めていく、失くしていくことに尽くすべきであろう。
人は平等だとか自由だとかは建前である。今の憲法だって机上の空論と言われても仕方ない。だからこそ、その理想を下げて現実に合わすのではなく、現実こそ理想や建前に少しでも近づけるべく努力していくしかない。
すべては実際とは違う。思い通りにはならない。だからこそ努力目標で良いのだと、諦めずに少しでも歩を進めていけば良いのだと考えなおした。
止まらずに、いや、立ち尽くすことはあろうが、ともかくほんの少しづつでも前へと先へと歩を進めていく。世界は破滅に向かっているからこそ、声を上げて行こう。異を唱えて行こう。それこそが人が人であるがためにだ。
(我をとりまく状況も含め)すべては楽観できず先行きの見通しは立たない。聖書に、刈り入れの時期なのに働き手が少ないという喩えがあったと記憶するが、今は種を蒔く者もそれを育て育む者も、刈り取る者も全てが少ないというような思いがしている。
誰もがそれぞれの大なり小なり思いがあり、ささやかな幸せを願っている。が、現実問題としてそのために何をどうしていくかその答えがみつからない。
ただ日々の暮らしに追われて目先のことに囚われて時間だけが好きでいく。束の間の慰安に癒される者はまだしも出口のない日常から抜け出せず自他も含めて「死」だけに救いを求めている者も多々いる。
出口が見えず救いのない現実は、アメリカならばトランプ氏のような過激な一国独善主義者を誕生させる。英国では、英国一番!と叫ぶ狂信的愛国者?がEU残留を呼び掛ける議員を射殺した。
日本でも、強い日本を取り戻すとか東京を世界一の都市に、と公約に掲げた者たちが大きな支持を得たが、じっさいのところ彼らは何を成し得たのか。彼らを支える大企業、富裕層と自らの私腹を肥やすことだけではないか。アベノミクスで生活が豊かになった者よ出でよ。そんな人がいるのならぜひ話が聞きたいと願う。その金もうけのヒケツは庶民も応用できますか。
外国人やマイノリティたちを差別し憎み排斥する思想はそうした社会が成立したとしてもかつてのナチスドイツ的現実しかもたらさない。国家の自殺行為である。
地震大国日本で、性懲りもなく老朽化した原発を稼働させていく。それだけが地方振興、一億総活躍社会のヒケツなのだろうか。その先に来るのはバラ色の未来だとはどう考えても想像できない。
誰もが皆、自分のことと自分の地域と自らの国家の繁栄しか考えない。自分たちだけが豊かに幸福になれば隣に飢えと貧困に苦しむ者がいようと見て見ぬふりをする。怠け者には手を差し伸べるべきではないというトランプ氏的自己責任論が大手をふってまかり通る社会である。
すべての人が、すべての国家が自らのことを優先し自らのことだけしか考えないのならその先には何が待っているのであろうか。EUの理念は先の欧州大戦の悲劇を繰り返さぬために、国と民族という枠組みをできるだけ取っ払うために考え出されたもののはずだ。
それを再び、国家は国家という枠組みに中に、人は個々の家の中に閉じこもり閉じ込めてしまうのならば、人類の進歩と発展は何世紀も前に戻ることでしかない。
そう嘆く我も、時間の進みに追いついていくのがやっとで、この数か月は老親たちのことで手いっぱいで何一つ成すべきことができないでいた。
気がつけば六月も半ばが過ぎ、今年も一年の半分が終わろうとしている。出口が見えず倦み疲れる現実ではあるけれど、刹那的快楽に溺れるのではなく、今さらだが、少しでも我が隣人のために、隣人と共に生きたいと願う。
世界は今、様々な不安と憎しみ、怒りと不満で満ちている。その原因はいったいどこにあるのか。移民や在留外国人、性的マイノリティ、子どもを産まない女性、長生きした高齢者に課してはならない。
ほんの一部の富裕者層が金と権力を握り、支配者として富とシステムを思うがままにしているという、人間社会が成立したときからの支配と搾取の構造こそ問題として誰でも認識しないとならない。
金持こそ、エリートこそとことんドケチだということはマスゾエ氏で証明されたであろう。彼らはどれほど稼いだって自らのタメにしか金を使わない。余ればひたすら溜め込む。海外にまで資産を移して隠す。
アベノミクスでまず大企業を儲けさせればその恩恵が下層、中小企業、ひいては庶民にまで及ぶと言う。今はまだ道半ばなのだと安倍晋三たちは口々に説く。
そんなことは未来永劫絶対にない。金持はケチだから金持になったのである。どれほど儲けが出ても従業員に気前よくベアしたりバイトや派遣を正社員へ格上げしたりなどしない。金持とはそうした輩なのだ。どんなに金が入ろうともっともっと稼ごう、さらに儲けようと考えるのである。
ならばこそ、奴らとは違う生き方、価値観でもって同じ思いを持つ仲間たちと争うことなく助け合い励まし合い生きていくべきだと気づく。
共生と連帯、自らの豊かさと幸福は大事だが、道に倒れた者に誰が手を差し伸べるのかだ。我がそうであるように、誰もが倒れる側にだって当然なりうる。そのとき通りがかって、面倒なことになると見て見ぬして通りすぎていく者と手を差し伸べる者がいる。
この日本では、いや、この社会、地球では誰もがときに被災者になり障害者になりマイノリティにも成り得る。幸福も安定も豊かささえも永久に続くはずがない。弱者と強者が存在するならば、自らが強者になろうとするのではなく、弱者に手を差し伸べその格差や差別、「差」を埋めていく、失くしていくことに尽くすべきであろう。
人は平等だとか自由だとかは建前である。今の憲法だって机上の空論と言われても仕方ない。だからこそ、その理想を下げて現実に合わすのではなく、現実こそ理想や建前に少しでも近づけるべく努力していくしかない。
すべては実際とは違う。思い通りにはならない。だからこそ努力目標で良いのだと、諦めずに少しでも歩を進めていけば良いのだと考えなおした。
止まらずに、いや、立ち尽くすことはあろうが、ともかくほんの少しづつでも前へと先へと歩を進めていく。世界は破滅に向かっているからこそ、声を上げて行こう。異を唱えて行こう。それこそが人が人であるがためにだ。
世界は少しづつ変わる ― 2016年06月20日 20時55分19秒
★立場の違いを越えて一つの思いで結ぶ付く
今日は、父の担当医に呼ばれて午前から面談に出向き、いちおうの予定だが、父は来週末、つまり月は替わるが、7月の2日に退院できることになった。
そもそも誤嚥性肺炎で急きょ入院したのが4月の11日だったので実に約二か月半の入院生活でやっと退院できるということになる。
肺炎で入院してからすぐに病室のベッドから寝ぼけて?落ちて右の大腿骨の付け根を骨折してしまったからこんなに長い病院生活となったわけだが、それでも父の歳を考えれば実に早い順調な回復だと言えるかと思う。
実は退院後のウチでの生活のほうがこれから大変なのだが、それはともかく待ちかねた退院の日程が出たので本当にほっとしている。何より当人があと二週間だと大喜である。認知症も予想したより進まず、実によく持ちこたえたと我が父だが感心するしかない。
やはり軍隊生活を体験し戦地にも赴いた元日本軍兵士は基礎的体力、精神力、胆力が我らとは違うのだと今さらながら讃えたい。
もう今日のぶんのブログは先に書いたので、明日報告をと考えていたが、まずはこの拙ないブログの読み手の方々にお知らせしてこの喜びをお知らせしたい。本当にご心配おかけしました。皆様の応援と励ましに改めて深くただ感謝いたします。
ついでにいくつかランダムなこと。
父の入っている病院は民医連系のそれだからか、我が昨日行った国会前集会の話を、母が今日の説明会に同席したケアマネに話していたら、父の担当医の整形の医師が、私も昨日そこに行ってたんですよ、と話に加わって来た。
ギター持って唄っている人たちがいたけど、あれは息子さんだったのか、今度は声かけますからと言われてしまい突然のことに言葉に窮した。
集会には、参加者にもしものときがあった場合の救護のためにも医師が参加しているはずだからその関連で行かれたのかもしれないが、世界は狭いと思ったし、あまり反応はないようでもどこかで誰かは見ていてくれているのだと思い至った。ならば心するしかない。
我の車の後ろの窓ガラスには、一枚「アベ政治を許さない」というあの沢地さん呼びかけの墨で書かれた紙が今も貼られている。後ろを走る車からは常に見られるようになっている。
今まで何人かそれに対して見た人から停まっているときに良くも悪くも「反応」はあったが、今日の立川からの帰り、二車線の交差点で止まったときのこと。
後ろを走っていて、車線を変えるべくすっと左側の車線に並んだトラックの運転手が、いきなり窓越しにこちらに話しかけて来た。何を言われるかと思ったら、
「面白いステッカー貼ってあるね。オレもあの男は大嫌いだ。まったく信用できない」と言う。母は「だから、参院選がんばらないとね」と返したら、その人は、笑いながら拳を上げてハンドルを切って去っていった。
ほんの一瞬のことだったが、走りながらそんな反応があったのは初めてのことで、その短い出会いに嬉しくなった。
今日はそんなで、朝から父のいる立川の総合病院に行く予定があった。ところが朝食時に電話があり、それは前から頼んでいたあきる野の植木屋からで、今日そちらに行ってお宅の庭の松の木を剪定すると言う。これから病院に行くので、と母が伝えると、誰もいなくてもかまわない。一人でやるからと、じっさい我らが家を出る前に、梯子など一式載せた軽トラックで爺さんの職人がやってきた。
そして立川から戻ったら、松の木は手際よく見栄え素晴らしく刈り込まれてついでに並びの伸びた梅もやっちやうという。代金はきいてなかったが、なんと二本で1万5千円でいい、とのこと。
元々我が借りていた倉庫の大家さんの知り合いで、大家を通して紹介受けたこともあるが、実に格安である。さっそく手持ちの金をかき集めて取っ払いで支払った。まあ、別途消費税分が付いたけれど。
母は物怖じしない人だから、その爺さんにも戦争法廃止を求める統一署名を頼んだ。そしたらば彼は「俺は根っからの自民党なんだよう」と言いつつも戦争は反対だからと快く、オスプレイ来るなの署名まで書いてくれた。
じっさい、近所の大家さんもその植木屋も元々は農家だから、当然のように根本のところが自民党なのである。しかし、だからといってこうした署名は拒まないし、自民党支持者、創価学会員でもこの戦争廃止の署名を記してもらっている。戦争は良くない、憲法を守れという一点のみで呼びかければ誰でも賛同してもらえるのだ。
世界は、この人間社会は、どんどんさらに悪くなっていくと思う時も多々あろう。我もつくづくそう思いときにこのブログでも書いて来た。
この社会は螺旋状に発展していくという教えを我はかつて社会学の教室で受けた。歴史は一見過去起きたことをまたも繰り返しているようで、何の発展も進歩もないように見えてもだ。
その答えは今も正直わからない。が、今日あったことを振り返ると世界は少しづつだけど間違いなく変わっていくように思えて来た。
ひとそれぞれ立場も考えも違う。しかし思いはひとつにできると。ならばやがていつかは変わっていくかもしれない。そう、朝陽は上るよ、少しづづだけどね と。
今日は、父の担当医に呼ばれて午前から面談に出向き、いちおうの予定だが、父は来週末、つまり月は替わるが、7月の2日に退院できることになった。
そもそも誤嚥性肺炎で急きょ入院したのが4月の11日だったので実に約二か月半の入院生活でやっと退院できるということになる。
肺炎で入院してからすぐに病室のベッドから寝ぼけて?落ちて右の大腿骨の付け根を骨折してしまったからこんなに長い病院生活となったわけだが、それでも父の歳を考えれば実に早い順調な回復だと言えるかと思う。
実は退院後のウチでの生活のほうがこれから大変なのだが、それはともかく待ちかねた退院の日程が出たので本当にほっとしている。何より当人があと二週間だと大喜である。認知症も予想したより進まず、実によく持ちこたえたと我が父だが感心するしかない。
やはり軍隊生活を体験し戦地にも赴いた元日本軍兵士は基礎的体力、精神力、胆力が我らとは違うのだと今さらながら讃えたい。
もう今日のぶんのブログは先に書いたので、明日報告をと考えていたが、まずはこの拙ないブログの読み手の方々にお知らせしてこの喜びをお知らせしたい。本当にご心配おかけしました。皆様の応援と励ましに改めて深くただ感謝いたします。
ついでにいくつかランダムなこと。
父の入っている病院は民医連系のそれだからか、我が昨日行った国会前集会の話を、母が今日の説明会に同席したケアマネに話していたら、父の担当医の整形の医師が、私も昨日そこに行ってたんですよ、と話に加わって来た。
ギター持って唄っている人たちがいたけど、あれは息子さんだったのか、今度は声かけますからと言われてしまい突然のことに言葉に窮した。
集会には、参加者にもしものときがあった場合の救護のためにも医師が参加しているはずだからその関連で行かれたのかもしれないが、世界は狭いと思ったし、あまり反応はないようでもどこかで誰かは見ていてくれているのだと思い至った。ならば心するしかない。
我の車の後ろの窓ガラスには、一枚「アベ政治を許さない」というあの沢地さん呼びかけの墨で書かれた紙が今も貼られている。後ろを走る車からは常に見られるようになっている。
今まで何人かそれに対して見た人から停まっているときに良くも悪くも「反応」はあったが、今日の立川からの帰り、二車線の交差点で止まったときのこと。
後ろを走っていて、車線を変えるべくすっと左側の車線に並んだトラックの運転手が、いきなり窓越しにこちらに話しかけて来た。何を言われるかと思ったら、
「面白いステッカー貼ってあるね。オレもあの男は大嫌いだ。まったく信用できない」と言う。母は「だから、参院選がんばらないとね」と返したら、その人は、笑いながら拳を上げてハンドルを切って去っていった。
ほんの一瞬のことだったが、走りながらそんな反応があったのは初めてのことで、その短い出会いに嬉しくなった。
今日はそんなで、朝から父のいる立川の総合病院に行く予定があった。ところが朝食時に電話があり、それは前から頼んでいたあきる野の植木屋からで、今日そちらに行ってお宅の庭の松の木を剪定すると言う。これから病院に行くので、と母が伝えると、誰もいなくてもかまわない。一人でやるからと、じっさい我らが家を出る前に、梯子など一式載せた軽トラックで爺さんの職人がやってきた。
そして立川から戻ったら、松の木は手際よく見栄え素晴らしく刈り込まれてついでに並びの伸びた梅もやっちやうという。代金はきいてなかったが、なんと二本で1万5千円でいい、とのこと。
元々我が借りていた倉庫の大家さんの知り合いで、大家を通して紹介受けたこともあるが、実に格安である。さっそく手持ちの金をかき集めて取っ払いで支払った。まあ、別途消費税分が付いたけれど。
母は物怖じしない人だから、その爺さんにも戦争法廃止を求める統一署名を頼んだ。そしたらば彼は「俺は根っからの自民党なんだよう」と言いつつも戦争は反対だからと快く、オスプレイ来るなの署名まで書いてくれた。
じっさい、近所の大家さんもその植木屋も元々は農家だから、当然のように根本のところが自民党なのである。しかし、だからといってこうした署名は拒まないし、自民党支持者、創価学会員でもこの戦争廃止の署名を記してもらっている。戦争は良くない、憲法を守れという一点のみで呼びかければ誰でも賛同してもらえるのだ。
世界は、この人間社会は、どんどんさらに悪くなっていくと思う時も多々あろう。我もつくづくそう思いときにこのブログでも書いて来た。
この社会は螺旋状に発展していくという教えを我はかつて社会学の教室で受けた。歴史は一見過去起きたことをまたも繰り返しているようで、何の発展も進歩もないように見えてもだ。
その答えは今も正直わからない。が、今日あったことを振り返ると世界は少しづつだけど間違いなく変わっていくように思えて来た。
ひとそれぞれ立場も考えも違う。しかし思いはひとつにできると。ならばやがていつかは変わっていくかもしれない。そう、朝陽は上るよ、少しづづだけどね と。
最近のコメント