人はこんなふうに死んでいくのか2016年09月02日 04時42分42秒

★我の「限界」よりも、逝く者にとって最善の死に方は何なのか

 9月になった。いろいろ本当にご心配おかけして申し訳ない。つい書くべきでないことまで吐露してしまったかと反省している。そしていろいろお気遣いご心配されている皆さんに心から感謝いたしたい。

 母はまだ生きている、が、やはり確実に日々少しづつ弱ってきている。そしてそのことに我は動じ苦悶しどうして良いか苦しんでいる。
 考えてみれば、仮に余命一か月だとしても、その日まで元気でしっかり意識もあって突然熟した柿の実が落ちるように死ぬのではないのだ。
 つまり死ぬためにはじょじょに弱っていき、意識もなくなりすべての機能が低下して、熾火が立ち消えるように静かに、死ぬべきして死ぬのだと思える。

 世の中には、元気な人が交通事故に遭うがごとく、突然何らかの身体の異常で急死することも多々ある。が、病み衰え、まして高齢ともなるとその死は緩く緩慢になって最後はまさに多機能不全状態で、意識もなくなって死ぬべくして死んでいくのであろう。まさに「老衰」、自然死という言葉もあてはまる。
 母も今年の12月には、87歳となる。女性の平均寿命もその辺りか。ならば、もはや老衰的自然死だとも考えられる。癌という病気が原因で、それに罹らなければ、あるいは治癒出来たらもう少し生きたかと信ずるが、それもまた天命であり、もっと若くして亡くなる人たちが多々いることを思えば、まあ十分に、満足いかなくても生きたと思えなくもない。

 が、家族としては、やはりこうした現実は受け入れがたく、何とかもう少し時間を戻せないものか、あるいはこちら側に引き留どめるように何かできないものかと頭を痛める。
 我もまた、先にも書いたが、家に連れ戻したからには懸命の世話をして、癌は治らずとも何とか元気に、高熱で入院する前ぐらいの状態に、つまり掘りごたつのある居間で親子三人でテレビ見ながら食事して団らんができるような状況に戻せたらと戻せたらと願っていた。
 そして、何くそっ、ここから巻き返してやる!と心に誓った。

 しかし、それはどうやらかなわず、常に付き添っている者としてはさほど状態は悪化してきたとは思えないし認め難いが、やはり食事の量も確実に減ってきて、言葉も少なくなり、返す反応も鈍くなってきていることは間違いなく、もうそれが自然の流れなのかとようやく思えてきた。
 我もかなり心身疲れて来てはいるが、問題はそれよりも母の介護の質であって、そうして弱って来た母をどう当人も満足できる十分な看護ができなくなってきている。
 むろん今ベッドの枕元には母が押せば鳴るチャイムのリモコンは置いてあり鳴ればいつでも我はすぐに駆けつけてオムツ交換なり何でもしてやるつもりだが、もっと弱って来てしまえば母自らそうした異変なり要求を知らせることは不可能なるだろう。
 また、近くへの買い物や犬の散歩でもこれからさらに弱ってくれば心配でおちおち行けなくなろう。父がデイケアへ行かない日は、父に言いつけてベッド脇で母の様子見を頼めなくはないが、もし何かあったとして、認知症の彼としてはオムツ交換どころか何一つてぎやしなく、我の携帯に連絡できるか119に電話できるかだって怪しい。
 やはり病院など施設に入れて24時間看護体制が整っている状況の方が母も安心するのではないか。

 家で死期を看取りたいという願いは今も強くある。また当人もそれを望んでいる。が、我一人で、たとい母の夫である父がいたとしても、我だけでその最後の日まで介護して看取るのはやはり無理なのではないか。病院などなら交代でプロの看護師たちが様子を見ていてくれている。そして些細な異変にもすぐに対処できる。
 我はたった一人で、24時間対応していてもどこかで寝たり他のこと、家の生活の用事もしないとならない。母の介護だけに専念できやしない。
 今我が家はまさにゴミ屋敷と化してしまい、台所も生ゴミや買ってきた食品トレイなどが散乱し、庭もものすごい状態となってしまった。理由は簡単で、もともと片付ける処理能力が劣っている我が、母の介護に追われて家事のために割く時間がなくなってしまったからだ。
 毎食少しでも食べてもらえるよう、苦労して献立を考え品数をそろえる。そして、母のベッドのある部屋に父を連れて来て二人で食べさせる。しかし、少しは口付けても母はすぐにもうお腹いっぱい、ごちさうさん、、お腹が苦しいと言い出しベッド倒してとせがむ。ときに腹痛が激しければ、それから我は数十分母のお腹をさすってやる。
 残ったものは後で我が食べて片づければ良いが、母だけでなく父も食事量は減っているので、ともかく大量に残ってしまう。
 冷蔵庫に入れて、後でまた出して食べてもらえればと願うが、父はともかく母は目先の変わった、今買ってきたり作ったものなら箸つけるが、以前つくったものはまず食べてくれない。ぜいたく以前にもう食欲かなく、食べたい気力が衰えてしまっているのだろう。
 しかも我も母がそんなだと落ち着いて食事する時間すらない。この数か月座って食べた記憶もなく、冷蔵庫も満杯で結果としてこの季節、あちこちにすえて腐ってハエがむらがる残り物が溢れることになる。野菜を買ってきてもほとんど常に腐らせてしまう。全てに時間がなく、かろうじて汚れ物は洗濯できてももう後片付けという家事すらできず、生活環境は劣悪になってしまった。

 どうしたものかと思う。
 家で死期を看取るということは、そうした体制が整っていてのことだと今にして気づく。つまり、ある程度の大家族で、死に臨む者の配偶者の有無はともかく、介護する側、つまりたいていは子供、つまり息子や娘だが、その夫婦にプラスしてその兄弟などもときに加わってチームで後退してやってどうにかなるかもしれない。あるいは介護専門のヘルパー、看護経験者、昔でいう家政婦のような人を雇い来てもらうかだ。戦前は少し裕福な家は、家事も含めてそうした家政婦さんを雇っていた。
 しかしウチにはそんな余裕はまったくない。今、毎日看護師や介護ヘルパーは来てくれるが、そのどれも30分~1時間の枠の中だけなのである。しかも家事は一切してはならないのである。
 
 さらに告白すれば、我一人でたとえ体力的、諸条件的に、母の最期をこの家で看取れたとしても我自身の精神がそれに耐えうるのだろうか。今何よりそのことが不安でたまらなくなっている。
 誰か側にいてくれてその不安を分け合ってほしいと願う。が、そんな人はいたとしてもそのとき、その場にいてくれるとは限らないのである。妹は、もう九州から葬儀のときでもないと来てくれない。

 ただこうしたすべてのことは、この事態が起きて自ら体験してみるまでまったく未知のことであり考えることすらなかった。母の介護を通しておおくのことを学び得た。そのことだけは本当に良かったと思う。有難いことだ。

 我にもっと揺るがない怖れることのない強い信仰を、ただ願う。

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