長かった「青春」がようやく終わる2011年02月26日 07時34分03秒

★何を今さらと嗤うなかれ

 昨晩は深く眠れた。夢も見なかった。昨日の強い南風はやはり春一番で、季節はまた一巡したという思いがした。道理で汗ばむほど暖かかった。

 その春一番が吹いた日の朝に見た夢は、自分が大阪春一番コンサート会場にいる夢で、どうしたことかうまく録音機が作動せず、いや、行ったらもう始まっていたのか、ともかく行ったのに記録に失敗して焦りまくるというものだった。どうやら無意識の世界では、また今年も大阪へ行くことを模索し想定しているようなのだ。しかし現況ではもはや今年はどうあがいても参加不可能だ。

 最近、病院への行き帰り、車を運転しているときなど道傍らの木々草花などから季節の移り変わりを目にしつつ様々な感慨にとらわれる。どんなことにも終わりが来るものだが、ついに自分の「青春」も終わったなあという思いだ。

 50過ぎのオヤジがいい歳して何をほざくかと嗤われるかもしれないが、サムエル・ウルマンの詩ではないが、青春とは何歳までというある年代でもないし、誰かが規定するものでもない。あくまでも当人の意識、気持ちの問題であり、この増坊にとっては十代の頃、本当に若く青春真っ盛りの頃から何一つ意識も取り巻く状況も変わっていなかったのだからずっと「青春」は続いていたのである。見かけは白髪交じりの腹の出たオヤジ姿に変わってしまっていたが。


 青春とはある世代とか年齢ではなく心の有様だといってもやはり青春の条件とでも呼ぶべきいくつかの状況があると考える。
 自分が思うに、青春とはともかくまず自由であるということだ。自由とは心の自由もあるが肉体的、時間的自由のことであり、経済的には不自由でもやろうと思えば何でもできたしどこへでも行けた。
 その自由とは結果として無責任であり、好きなやりたいことを深く考えずに何でも可能な限りやれた。無分別と言ってもよい。つまるところ無鉄砲、つまりバカでもある。

 人は主に学生時代とか、十代~20代の一時期、そうして無責任に好き勝手なことをやれる時期がある。まだ社会に出て、社会的責任を負う前の段階である。それを「青春時代」と呼ぶ。

 翻って自分は、十代後半の頃よりずっと何十年もそうしたことを続けていて、むろん就職もしたことはあったが、まだフリーターという言葉もない時代から基本はアルバイトしつつ、、やりたいこと優先に好き勝手なことをしまくって生きてきた。ならばずっと青春は続いていたと言えよう。

 家を出て女友達と暮らしていたこともあったけれど、結婚もきちんと就職もできず結局親の老化と自らも経済状況逼塞のため実家に戻り、家事は担当していたが、世間的にはパラサイト息子と思われても仕方ない状況であった。
 家も子供のときから何も変わらないし、親たちも老いたとはいえまあ健康だったから任せて家を空けることも可能で、一週間程度なら行き先もろくに告げずふらっと関西に旅に出ることもできた。そして何よりも自分の趣味、好きなことに存分に時間をかけうつつを抜かすこともできたのである。だから自腹切ってまで音楽の企画に夢中になっていた。

 しかしそんな終わりのない青春にもついに終わりが来る。結局その青春はこの家と両親の庇護の下、意識はしていなかったが、彼らに精神的、あるいは経済的にも頼っていたから可能だったことを今回親たちが倒れて思い知った。キリギリスは覚悟の上で冬の備えもせず夏中遊びまわっていたわけではない。単にバカであり愚かだったからだ。

 今そのことを悔やむ気持ちも強いが、逆にそれだけ長く青春を続けられたことはとても良かったと思うし、過ぎたことは戻せないのだから悔いは一切ない。好き勝手にやりたいことは何でもやったのだから満足している。ただ、行く春を惜しむような気持ちで、ついに自分の青春も終わったのかという感慨だけがわく。

 自分は今ようやく「大人」になった。いや、まだなってないが大人になろうとしている。子供の時代はついに終わった。さてそしてこれからだ。それはそれで楽しみでわくわくしている。もうこれからは一気に老人となるだけかもしれないが。帰ってきた浦島太郎にもいくばくかの余生はあっただろう。