怖れるな、全ての元凶は「不安」からだ。 ― 2011年09月04日 07時13分52秒
★一人“どもりのジョージ”のみならず。
ようやくのろまの大型台風は日本海へと、山陰沖に去ったようだ。
朝7時前に起きた。東京多摩地区はまだ曇っていて時折カーテンをゆらす風も吹く。でもようやく涼しくなった。安堵している。
今、これを書いている増坊が、性格的、人間的にかなりの問題ある人物、ダメで変であることは一度でも会い少しでも関わりを持った人なら誰でもわかる、知っていることであろう。よって常にトラブルを引き起こす。失敗ばかりの人生である。
今風の言葉で言うならば、その「キャラ」は意図して、つまり意識して作り上げたのではなく、自分としては改めたい、矯したいと願うものだが、何故か常に同じ愚を引き起こす。医者にかかるほどではないけれど、いや、真剣に自分に向き合う人ならばとっくにそうしたであろうしすべきであっただろうが――悩みつつもだらだら50年以上も生きてきた。
若いときはバカだからまずその「問題」に気づかなかったが、近年いろいろあってさすがに思うところがある。このところ同傾向の友人と電話で話す機会があり、いったい何が原因でそうななったのか、そうさせるのか考え続けている。
映画『英国王のスピーチ』は第二次大戦時に即位したイギリス国王ジョージ6世の吃音症、つまりどもりの問題をテーマにした意欲作だ。むろんフィクションではあるが、実在した人物、それも現エリザベス女王の父上のことなのだから、これは「事実」なのであろう。
彼は即位前からどもりに悩み苦しみ、様々な治療法を試したが効果なく、妻がみつけた新聞広告から風変わりなオーストラリア人言語療法師ローグのもとを訪れる。ローグは、吃音は機能障害ではなく、幼少期の心の傷が原因だという立場から、対等な関係を求め「過去」の出来事を語らせるところから「治療」を進めていく。
王になる男と当時異端の言語療法士はときに反発しあいながらも立場を越えて親交を深め、ついにはドイツとの開戦の詔勅をラジオを通して国民に向け生放送で読み上げるときが来る。果たして王様はどもらずにスピーチを無事に終えることができるのか。ストーリーはざっとそうしたものだ。
人間としては素晴らしく上質ながらどもりという屈託を抱えて常に憂鬱に苛まれ、ときにかんしゃくを起こす王様をコリン・ファレルが気品損なうことなく丁寧に演じている。この映画の成功はアカデミー主演男優賞をとった彼の演技にかかっている。いかにも王族らしい気高さと傲慢さを巧みに表現した彼の名演を観るだけでも足を運ぶ価値があった。
王様は家庭内とか日常会話ではまずどもらない。大事なとき、公的な場で話さねばばならないとか重圧があると緊張して必ずどもってしまう。どもりに限らずそうした似た経験がある方も多いかと思う。
増坊も常にそうしたもので、例えばギター演奏なども家で弾いているときは完璧で間違えることなど絶対ないはずなのに、人前で、しかも大事なライブの場だと100%失敗する。それは緊張するからであり、緊張はどこからくるかというと、不安があるからで、それは心の奥底にどす暗い「怖れ」が巣くっているからなのだ。そのパターンはいつも決まっている。
昔、車の免許をとるため立川の自動車教習所にずいぶん歳とってから通っていたときのこと。今はあれもサービス業の一種だから無礼な教官は少ないかと信ずるが、とてもいやな威圧的かつ常に人を馬鹿にする教官が何人かいた。そいつらはこちらが運転に失敗するたびに、「あ~あ、またかよ」と溜息をついたり「俺も長いことこの仕事やっているけれとあんたみたいな人初めてだよ、呆れたよ」と率直な感想、それは放言であり暴言だと思うのだが――を述べた。
自分は常に何事にも最初は緊張して臨む性格だしもとよりものすごい不器用だから、基本的にたいがい最初は失敗する。しかし、真剣になれば多少は学習するところもなくもないので、やがてはできるようにもなっていく。だが、そのイヤな教官たちが助手席に乗る番に当ってしまうと、運転の前から、ああ、ダメだ、また失敗すると覚悟して、案の定必ず失敗した。
また逆に、こちらを誉めてくれる優しいタイプの教官に当ると、安心するからかミスも少なく、自分でも予想外に巧く運転できることもあった。つまり最初から緊張してしまい失敗するのではないか、きっと失敗するぞという「怖れ」があると結果はその通りに必ずなる。そして悪い教官は、こいつはまた失敗するぞ、ダメなやつだというプレッシャーを与え続けていた。
不安など無しに、構えずにやれば失敗しないはずなのに、緊張して臨めばまず失敗してしまう。どもりもまた同じことで、自分もまたどもらずとも大勢の人前で何かきちんとしたことを話さねばと構えると、頭が真っ白になってわけのわからないことを口走っては慌てて早口になり尻切れトンボとなって終わってから悔やむ。いったい何でそうなるのか。何が原因なのか。
ローグに限らず、現在の心理学の世界では、そうしたパニック的障害が起こる原因として、幼少期に受けた心の傷、トラウマが大きな影を落としているからだとしている。そこには家庭環境、特に親の存在が大きい。古本屋として数々のそうした心の病の本を手にしてきて、思い当たるところが多々あった。
恥ずかしいが増坊の親たち、特に父の事を書かねばならない。自分のダメの原因、怖れは彼に拠るところが大きい。
《この話、ここまで書いたらもっと長くなるのでもう少し続く》
ようやくのろまの大型台風は日本海へと、山陰沖に去ったようだ。
朝7時前に起きた。東京多摩地区はまだ曇っていて時折カーテンをゆらす風も吹く。でもようやく涼しくなった。安堵している。
今、これを書いている増坊が、性格的、人間的にかなりの問題ある人物、ダメで変であることは一度でも会い少しでも関わりを持った人なら誰でもわかる、知っていることであろう。よって常にトラブルを引き起こす。失敗ばかりの人生である。
今風の言葉で言うならば、その「キャラ」は意図して、つまり意識して作り上げたのではなく、自分としては改めたい、矯したいと願うものだが、何故か常に同じ愚を引き起こす。医者にかかるほどではないけれど、いや、真剣に自分に向き合う人ならばとっくにそうしたであろうしすべきであっただろうが――悩みつつもだらだら50年以上も生きてきた。
若いときはバカだからまずその「問題」に気づかなかったが、近年いろいろあってさすがに思うところがある。このところ同傾向の友人と電話で話す機会があり、いったい何が原因でそうななったのか、そうさせるのか考え続けている。
映画『英国王のスピーチ』は第二次大戦時に即位したイギリス国王ジョージ6世の吃音症、つまりどもりの問題をテーマにした意欲作だ。むろんフィクションではあるが、実在した人物、それも現エリザベス女王の父上のことなのだから、これは「事実」なのであろう。
彼は即位前からどもりに悩み苦しみ、様々な治療法を試したが効果なく、妻がみつけた新聞広告から風変わりなオーストラリア人言語療法師ローグのもとを訪れる。ローグは、吃音は機能障害ではなく、幼少期の心の傷が原因だという立場から、対等な関係を求め「過去」の出来事を語らせるところから「治療」を進めていく。
王になる男と当時異端の言語療法士はときに反発しあいながらも立場を越えて親交を深め、ついにはドイツとの開戦の詔勅をラジオを通して国民に向け生放送で読み上げるときが来る。果たして王様はどもらずにスピーチを無事に終えることができるのか。ストーリーはざっとそうしたものだ。
人間としては素晴らしく上質ながらどもりという屈託を抱えて常に憂鬱に苛まれ、ときにかんしゃくを起こす王様をコリン・ファレルが気品損なうことなく丁寧に演じている。この映画の成功はアカデミー主演男優賞をとった彼の演技にかかっている。いかにも王族らしい気高さと傲慢さを巧みに表現した彼の名演を観るだけでも足を運ぶ価値があった。
王様は家庭内とか日常会話ではまずどもらない。大事なとき、公的な場で話さねばばならないとか重圧があると緊張して必ずどもってしまう。どもりに限らずそうした似た経験がある方も多いかと思う。
増坊も常にそうしたもので、例えばギター演奏なども家で弾いているときは完璧で間違えることなど絶対ないはずなのに、人前で、しかも大事なライブの場だと100%失敗する。それは緊張するからであり、緊張はどこからくるかというと、不安があるからで、それは心の奥底にどす暗い「怖れ」が巣くっているからなのだ。そのパターンはいつも決まっている。
昔、車の免許をとるため立川の自動車教習所にずいぶん歳とってから通っていたときのこと。今はあれもサービス業の一種だから無礼な教官は少ないかと信ずるが、とてもいやな威圧的かつ常に人を馬鹿にする教官が何人かいた。そいつらはこちらが運転に失敗するたびに、「あ~あ、またかよ」と溜息をついたり「俺も長いことこの仕事やっているけれとあんたみたいな人初めてだよ、呆れたよ」と率直な感想、それは放言であり暴言だと思うのだが――を述べた。
自分は常に何事にも最初は緊張して臨む性格だしもとよりものすごい不器用だから、基本的にたいがい最初は失敗する。しかし、真剣になれば多少は学習するところもなくもないので、やがてはできるようにもなっていく。だが、そのイヤな教官たちが助手席に乗る番に当ってしまうと、運転の前から、ああ、ダメだ、また失敗すると覚悟して、案の定必ず失敗した。
また逆に、こちらを誉めてくれる優しいタイプの教官に当ると、安心するからかミスも少なく、自分でも予想外に巧く運転できることもあった。つまり最初から緊張してしまい失敗するのではないか、きっと失敗するぞという「怖れ」があると結果はその通りに必ずなる。そして悪い教官は、こいつはまた失敗するぞ、ダメなやつだというプレッシャーを与え続けていた。
不安など無しに、構えずにやれば失敗しないはずなのに、緊張して臨めばまず失敗してしまう。どもりもまた同じことで、自分もまたどもらずとも大勢の人前で何かきちんとしたことを話さねばと構えると、頭が真っ白になってわけのわからないことを口走っては慌てて早口になり尻切れトンボとなって終わってから悔やむ。いったい何でそうなるのか。何が原因なのか。
ローグに限らず、現在の心理学の世界では、そうしたパニック的障害が起こる原因として、幼少期に受けた心の傷、トラウマが大きな影を落としているからだとしている。そこには家庭環境、特に親の存在が大きい。古本屋として数々のそうした心の病の本を手にしてきて、思い当たるところが多々あった。
恥ずかしいが増坊の親たち、特に父の事を書かねばならない。自分のダメの原因、怖れは彼に拠るところが大きい。
《この話、ここまで書いたらもっと長くなるのでもう少し続く》
コメント
_ 今井くるみ ― 2011/09/07 01時13分33秒
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でドンドン書いてドンドンギャラリー古本屋カフェライブスポット
複合的たまり場をはやくかいてんしてほしい。。。。
読者自身。ノ望みですよねぇ。
また詩を送ってもいいですかまた今度。がんばれますぼう