ギターの思い出ばなしを少し2012年10月05日 22時16分09秒

★明日のフォークソング・ワークショップを前に

 先だっての台風により一週間延期した、ウチ無頼庵でのフォークソングのワークショップがいよいよ明日となった。参加予定者はごく少数であるのはいたし方ないが、焦らず諦めずゆっくり続けていこうと思う。何事も継続は力だと信じて。

 まだ万全の準備完了とは言い難いもののとりりあえず場所は作ったし揃えるものはだいたい用意した。まったく初めて明日会うという方はいないようだし、ならばかまえずにのんびりやっていけば良い。気心しれている方は安心だが本当は新しい出会いを求めていたのだがこれも時の運と縁であろう。まだ自分にその力もなく時が満たないから縁がないのである。それは仕方ないことだ。

 さて、今回、ギター講座のようなこともやる。この自分に人様を教える資格がそもそもあるかとご批判もあろうが、自分のような準初心者だからこそ教えられることもあるかと考える。というのは・・・

 昔読んだ雑誌、たぶん「話の特集」だか「面白半分」だったか忘れたが、筒井康隆の「サックス講座」の広告が載っていて、それが講座だったか教室だったか、果たしてそれは本当に実施されたかも知らないのだが、ともかくあの作家の筒井氏がサックスを教えるという記事であった。今も彼はサックスを吹いているのか、それがどれほどの腕前なのか全く知らない。実は その記事が載ったときは彼がサックスを習い始めて間もない頃であった。なのでその広告に目をひかれ驚かされた。

 その広告文面の筒井氏の文面がふるっていた。確かこんな内容だった。「世の中にはサックスでも何でもプロとしてその腕前が達者な人が先生としてできない初心者に教えるのが当たり前だと思われているがそれは間違っている。何故なら、巧い人はもう巧くできるのが当たり前だから、できないときのことをすっかり忘れてしまっている。自分はまだ初心者でようやく少しづつできるようになってきたところだからできない人の気持ちはよくわかる。だからきっと良く教えられるはずだ」という論旨であった。なるほどと思った。まあ一理あろう。

 たしかに上手い人、できる人はそれが当たり前になっているから、できない人の気持ちがわからない。自分も昔はできない人だったのにいつしかその気持ちをとっくに忘れてしまっている。ゆえに、ようやくできるようになってきた人のほうができないときのことがわかり、できるようになるコツを体得したばかりだから教える側として最適だという論は成り立つ。この論を進めれは、虫歯のない人は歯医者になるべきではないということでもあるし、金持ちは貧乏人の痛み、苦しみはわからないということに繋がる。それは裕福な苦労知らずの世襲政治家達ばかりだからこの国の政治が悪くなったということと同じなのだ。まっそれはともかく・・・

 自分もギター歴は長いけれど、ギターを弾いていなかった時期も長い、ブランク永井であるから、宵闇せまれば悩みも果て無し、の気分がよくわかるのである。じっさい、再びギターを再会、いや、再開したのは岡大介と出会って以降、この数年なのだ。そして今もまだ初心者気分で少しづつ練習している。
 昔、高校生の頃は相応に弾け、唄い、それなりに音楽活動もやっていたはずだが、もう今は声も出ないし指も動かないただの素人オヤジである。でもだからこそ、昔より真摯に音楽と向き合い、ギターと向き合っている。わからないこと、出来ないことばかりだからこそもっと学びたいと願っている。だから他人に、もっとできない人に教えたいことがあるしきっと教えられるかと思う。

 でも、実はギターに関しては人から教わったという記憶はほとんどない。大昔、自分がまだ高校生の頃に、福生の基地側、北口青線地帯にあった「フォークビレッジ」というスナックで、そこのマスターにうたを聴いてもらいアドバイスを受けたぐらいだ。向かいの高名な喫茶店「家なき子」はまだあるのかもしれないが、その店はもうとっくにない。もう40年近く前の話なのだから。
 今頃になってウチの在庫に山ほどある古いギターテキストを開いては、アルペジオとかスリーフィンガーとか目で学びなおしているところだ。耳では聴いて指は動いていたけれど、きちんと体系的に勉強したことはほとんどなかった。それもこれもこうした講座をやるからである。古人曰く、教えることは学ぶことだと。今そのことを実感している。