本日4/29日は無頼庵詩朗読ライブ!2014年04月29日 09時47分24秒

★三留カレーは出ないけど、どなたでもお気軽に        アクセスランキング: 190位

 このところ季節的に定期的に催している「無頼庵詩朗読ライブ」、いよいよ本日となった。
 基本的に出演者=詩人と、聴衆=観客との差のほとんどない、つまり詩人≒ほぼ観客という状態が続いていたが、どうやら今回は一般参加者も数人は来られて新たな展開となりそうだ。実にうれしい。

 まあ何事もあきらめずあせらずあわてずに地道に長く続けていくことだ。結果はすぐには出ない。そして大事なことは結果を求めることではなくそのプロレスを含めた「行為」なのだと気がつく。
 むろん参加者が多いほうが有難い。しかし、すべてのことは多寡ではかるべきではなく、少数でも声を発し行動していくことだ。

 世界を変えていくのは一人の勇気ある行動からだと、中川五郎も唄っている。そう、人ひとりづつそれぞれの思いがあり、考えや理想、願いを抱えている。それは皆違っているが、それを発して他者に伝えるところから世界は動いていく。変わっていく。

 初めに言葉がありき。その言葉を大事にして、伝えたいことをつたえていこう。詩とうたはそのために生まれた。

詩の朗読ライブを終えて、今思ったこと。2014年04月29日 22時08分04秒

★「詩朗読」の価値と意味とは

 ブログは基本的に一日に一度の更新を、と心がけている。が、今晩は予定よりイベントも早く終わりまだ寝るまではすこし時間がある。思うところやこれからの連絡事項について書かせて頂きたい。

 今日の詩朗読の集い、おかげさまで一般客も多く来られて良い理想的集いとなった。二けたにはきりぎり届かなかったが、宣伝も動員もかけていないのだから成功した催しとなったかと思う。
 嬉しかったのは、拙ブログの読者の女性と映画塾のほうからも参加者があったことで、自分のギター講座の生徒も含めて詩を作らない側から3人も参加してくれたことだ。有難いことだ。

 いつもこうした集いをやって思うのは、仲間内だけ、レギュラーの参加者だけ常に集まるのならば、それは自慰的行為でしかなく、興行的に成功したとしても自分にとってはあんましやる意味がない。
 人が集まらなくても常にいろんな人が次々と来てくれたほうがやりがいがあるし、そこからまた派生するものがあると信ずる。いつも同じ顔触れで同じことを語り繰り返すのならそこに自分は労苦はかけたくない。そもそもこれは商売ではないのである。モノゴトは往々にしてそうした「同窓会」乃至「狭い世界のオフ会」的展開に発展していく危険性をはらんでいる。むろんそれは楽しいはずだし参加者は嬉しいだろう。ただ、裏方の身としてはちっとも楽しくも面白くもないということだ。

 詩の集いのほうは、今日で三回目。映画塾を1年裏方として関わった者としてやや意外なのは、「詩」は、参加者は少ないものの常に毎回新たな人が来て出会えることで、またその人たちも皆ユニークでマンネリ気分に陥らずにすんでいる。
 思うに、詩のほうが映画よりも窓口が広く何でもありということもある。映画はいわば、自主製作はともかくも基本的に市場の流通の世界の中で重箱の隅をいかにつつくかという世界であった。となれば業界の人のほうに利があり、公平に見えて誰にでも入れる世界ではなかったのではないか。そう書くのは内容の良し悪しではなく、運営側のスタンスとして漠然とそう感じるからだ。

 詩の利点は、今回初めて気がつき諭され見えてきたことは、この世界は基本的に絶対に食えないということだ。谷川俊太郎レベルの方になれば、職業詩人という方もいるのかもしれない。が、基本的に自分が知るどの著名な詩人方も基本は詩なんかでは飯が食えている方は一人もいない。皆、自腹切って詩作活動をして詩集を出したりしている。
 と、自分のフィールドである、フォークソングの世界を振り返れば、実は本来のフォークソングとはその「詩」の世界ときわめて近しいものであったことに気がつく。

 つまり初期のフォークソングムーブメントに関わっていた方たちは皆、まさかフォークで生活ができるなんてそれが職業になるなんて誰も思ってもいなかったはずだ。ゆえに、高石さんも岡林も皆、コンサート、営業活動よりも自らの実生活を優先させたいと、「おいらいち抜けた」とすぐにトンズラしてしまったのである。
 問題なのは、そうしたフォークソングが、拓郎、陽水という二大スーパースターを得て、商業的に売れて大ヒットをとばし、これは金になる、金が動くと皆が気づきだし、ヤマハのポプコンとか、新たな金の卵を求めて大企業が動きだし、愚かな若者たちは競って自分も売れたいとその競争に飛び込んでいったことだ。

 それまでの高石、岡林はある程度社会的に知名度は得ていたが、しょせん多くて万単位の商いであり、いくら才人URCの秦さんが儲けたとしても高が知れていた。ところがアルバムで百万枚という世界が生まれれば、誰もが第二の陽水やユーミンを探すし皆あやかろうと思う。そしてそうした売れっ子に自分もなろうと、売れ線の楽曲でコンテストに応募していく。となれば当然のこと、最初のスピリッツ=いったい何を歌にして、なぜ己は唄うのかという基本姿勢は失われていく。

 数年前、京都の拾得で、晩年の藤村直樹さんと、高石友也の最後の共演ライブを観たとき、彼らがずっとこだわっていた彼らの「うた」とは何であったか、今にしてはっきりわかる。売れること、売れてしまうことで、なくしてしまう何かが確かにあり、うたとは実はそこがいちばん大切であり絶対になくしてはならないものであったのだと二人は伝えたかったのだと。

 詩の世界は幸いにして、売れた人は一人もいない。むろん、著名人は何人もいる。しかし、サトウ八チローとか、北山修のように、作詞家として歌謡曲でヒットを飛ばさない限り基本的には詩では絶対に食えない。つまり詩では金が動かないようにできている。そこがそれこそが良いと思うし素晴らしい。
 フォークの世界は大いに残念なことに、ヒット曲がいくつも生まれて大金持ちとなる術、ケースを示してしまったことだ。結果として、目的がそこに定められ、売れる曲、ヒットするかどうかということだけが最重要課題となってしまった。売れれば善、正しく、売れない者、マイナーは悪という図式が成立してしまった。
 そうした誤った価値観で縛られていない「詩」の世界は、逆に経済原理で語られない分だけなんでもありであり、正しい土俵が成立しているのではないか。むろん詩の派閥のようなものは厳然と存在し実績のない大家が多くいることも問題とすべきであるし、くだらない詩と詩人も多数いると自分は判断するがどうだろうか。

 が、今自分が知る、このところ出会っている詩人の方々は皆誰もきわめてユニークで、その世界の可能性を真摯に追及していると思える。そして金にならないことを真剣に一生けんめいにやってその活動を続けている。ちょっと感心した。
 自分の知るフォークの世界よりよほど純粋だと思った。逆に売れる手筈のないことだからこそ真摯に真剣に向かいあえるのではないかと気づく。つまるところ、この世はすべて金なのである。

 先だって、アリスのベーやんこと堀内さんを生で聴き、本当に感心した、実に巧く大したものだと感嘆した。が、谷村さんにしろ、昔のアリスを少しでも知る者としては、もう今の彼らには何一つ思うところはない。そうした音楽をやることもご当人の勝手だしそれで彼らが満足しているのなら良いことなのであろう。
 ただ、自分ならばあんな音楽は死んでもやらないし、いくら金になったとしてもそれで飯を食おうとは思わない。フォークの世界から売れるために商業音楽、「演歌」の世界に行った方々もかなりいる。むろんそれは飯のため、職業としてそこに移ったのであろう。それは他者がとやかく批判できるものではないしすべきではないと思う。

 が、それがもともと自らが諒解と納得できる程度の「フォークソング」ならそれで良いわけだし、逆に故藤村さんのように、アマチュアとしてずっと拘り続けた人もいるわけで、人さまざまだとつくづく思う。つまるところ人は金になるならば、手段として何でもやる動物なわけで、当初のスピリッツや根源的な思い、拘りなんて札束の前に何の効力もないものなのかもしれない。

 よく言う、歳とっても赤旗を振り続ける者は、結局社会の中で落ちこぼれなのだと。ナベツネ氏ら転向者たちの栄華を思うとき、それは真実だと思うものの、あえて問う。ならばこの世は金を得た者、売れた者だけが正義なのかと。金と引き換えにあんたは本当に大切なもの、若い時にずっとこだわってきたものを失ってしまったのではないかと。
 まあ、金持ちにそんなこと言ったとしても真摯に耳を貸すはずもない。ただ、この世には金という価値基準でははかれないもの、売れる、売れないという基準だけでは問われないものが確かにある。本当に大事なもの、大切なことこそ、実は金では換算できないものではないのか。ならば、極論すれば「金が動かないもの」こそが、実は意味があり、価値があるのではないか。
 「詩朗読」の世界、自ら参加するようになってそんなことを考えている。たかが詩である。されど詩なのだ。