動物を飼うこと、看取ること2014年05月13日 22時11分24秒

★老々老犬介護という日常が続く    アクセスランキング: 152位

 季節の変わり目である。このところずっと無頼な強い風が吹き荒れている。日中晴れれば暑いが夜などは上着だけでは寒いほど冷え込む。暑いんだか寒いんだかよくわからず体が戸惑っている。そんなこともあって風邪気味、体調を崩したのかとも思える。

 このところもう覚悟決めて無理せずあれこれビタミンとか摂って寝込んでたらようやく体調はやや上向いてきた。が、基本的に不規則な生活は変わらないのでいつ起きてもスッキリせず寝足りない倦怠感は続いている。
 特に午後、昼食食べてから本格的に3時間ほど眠ってしまうと夕刻5時頃に起きたときのだるさはひとしおで、食後の胃がもたれているせいか必ず悪夢を見る。一昨日は、知らない街でホームレス状態になってどこそこの建物の中のトイレで暮らしている夢を見たし、先ほどの夢は、何かのライブイベントでうたう羽目になったが、持ち歌がなく大いに焦ってうろ覚えで知ってる歌謡曲を演っている情けない夢だった。覚えていない夢でもたいてい辛い苦しい夢だという味わいが残っている。
 どの夢もちょうど映画1本ぐらいの長さと密度があり、かなり内容ある本格的な夢で、その夢だけでどっと疲れてしまう。ならば昼寝などしないで起きて作業すれば良いはずなのだが、もう今は生活時間がめちゃくちゃなのでどこかでしっかり眠らないと体がもたない。

 さておき、老犬バドが後ろ肢がマヒして自力では歩けなくなってからちょうど一年が経つ。去年の今頃の拙ブログにそのことを記してベルトで持ち上げて散歩させている画像も載せたはずだ。
 それから実にしぶといと言うべきか、強い生命力だと感嘆もするが、ほぼ寝たきり状態となりつつも猛夏を越し大雪の厳冬を越し、今また夏を迎えようとしている。さすがにこの数日食欲も落ちてきて心配したが、いろいろ餌をまた変えたりしたら回復したのでもうしばらくは生き長らえると思える。
 秋になると19歳。ゴールデン・ラブラドルの家系を考えると大型犬としてはギネスブック級ではないかと思う。普通大型の犬は12歳、長くても15歳までしか生きないとされている。まさかこれほど長生きするとは長くたくさんの犬を飼ってきた自分も驚いている。
 基本頑健で、大した病気もしたことがなく、好き嫌いは一切なく何でもしっかり食べる犬だったからここまで生き長らえたのかと思える。また、経験上、夏の暑さで熱射病で弱った犬もいたので、今は細心の注意で犬たちの様子を見ている。そうして人間がほぼ24時間介護しているからこれほどの長寿であるのだとの自負もある。しかしウチにはニンゲンのボケ老人もいるので正直こちらがバテテ来ている。

 先日、新聞で、そうした家族も疲れて面倒見切れなくなってきた犬たちを預かる介護保養施設が載っていた。そこに入れれば専門の職員が24時間交代で世話してくれ最後まで看取ってくれるのだ。むろん飼い主は好きな時に会いに行けば良い。それは心ひかれたがお値段も半端ではない。入居費用の他に毎月の介護費も何万もかかる。よほど生活に余裕のある人しか利用できない。
 そんな金があるならばウチではまずニンゲン=親父のほうを預けたいと思う。それに動物の側でもやはり最後まで長年住み慣れた自宅で死を迎えたいと願っているのではないか。大変であろうとも生まれて数か月でこの家に来て以来20年近く過ごした家と家族と共に最後の日まで過ごしたいと犬も飼い主も願う。あと何か月、いや何週間彼が生きているのかわからないが、最後の最後まで面倒を見てやりたいしまだそれは可能だと思える。

 ただ、それは自分が今50代で体調悪いといってもまだ動けるからで、これが母たちの世代で彼らだけであったらやはりその世話は無理であろう。となると今一番若いベル子はバドに倣えばまだあと15年は生きるはずだから、自分は70代半ば、そのとき果たしてどうなっているか。
 ということは今でさえもう動物はそろそろ飼える限界の歳だと気づく。もしそのときにバドと同じく寝たきりとなってしまえば同時に飼い主の人間も寝たきりとなっているかもしれない。それではそうした介護施設に人も犬も同時に入らねばならない。しかしそんな金はどこにあるのか。

 先のことをあれこれ考えて憂鬱になるのはバカらしい。そのときはそのときだし今仮定の話で悩むのは意味がない。ただこうも考える。
 たぶん、自分はどんな歳になっても動物、犬もたぶん猫も飼っていることだろう。猫は大して好きではないが、幼少の頃より常に欠かさず共に暮らしている動物であるし、犬も考えてみれば子供の頃からずっと飼い続けている。いないときがない。近年でも一時は5匹もいたことがある。大人の犬でそれも最近流行りの小型犬でもない本格的な犬をそんなに飼うなんて常識外れだと今は思うが、それでも散歩と餌代が大変ぐらいで、苦なんて思ったことはなかった。
 今だってベル子たちの間に子犬が産まれたらと願い一昨年栃木県佐野まで行ってもらってきたぐらい犬が好きだからたぶん自分が将来もっと老いてもやはり犬は飼っていると思う。

 この世にはペット、それは小鳥でも金魚でも亀であろうとも動物がいなくても平気で生きられる人間、動物なんて飼ったことがない人間と、動物なしで生きられない人間がいると考える。それはそれぞれの生き方、志向であり、個人のライフスタイルの違いでしかないから人のことはとやかく言わない。
 しかし、動物好き、動物を飼っている人と動物嫌いで飼わない人とどちらにシンパシーを抱くかといえば当然動物好きの人であり、動物に寄せる愛情を持つ人は無条件に信頼している。むろん動物嫌いは悪、動物好きは善なんて単純な図式は間違っている。しかし、大事なことは植物などの自然も含めた他者への「愛」こそが実はもっとも大切なのではないだろうか。この世にはむろん自己愛というものは大事である。しかし、家畜ではないペットの動物という基本大して役立たずの生き物を飼い養うことに人間にとって何か大切なものが潜んでいるような気がしている。その気持ちをなくさず育てることこそが人としての教育や成長なのではないか。

 ペット動物は基本ほぼ何の役にも立たない。実に世話と金がかかり大変だ。しかし彼らは自分に多くのものを与えてくれこちらが与えたものの何倍も返してくれる。
  ならば最後の最後まで面倒を見てともに過ごしたい。そこまで面倒みれることこそが至福なのだから。