喪うこと、不在を受け入れていくこと2014年08月13日 21時23分24秒

★動物を家族として共に暮らしてきて         アクセスランキング: 97位

 バトの訃報に関して何人かの方々からお見舞いのメールを頂いた。有難いことだ。個々に返礼すべきところ、勝手ながらこの場で厚くその思いやり慈しみのお志に深く感謝いたしたい。

 たかが犬なのである。自分でもそう思う。しかし世間はどう思おうと彼もまた家族の一員であり、下等ないきもの、ペットだと考えたことなど一度もない。
 犬でも猫でもそれぞれ人格と個性があり、彼らなりの考えと意志で生きている。むろん人の都合と合わないときも多々あるが、彼らの意思も尊重しなければならないし我慢してもらうときもある。
 こちらが飼ってやっているのではなく、縁あって飼わせて頂いているのだと考えている。そう、すべては縁であり、縁あって出会い家族となっていく。

 ウチでは、彼らも犬とか猫とか生物の種類では扱わない。全て家族なのだから、「バドおじさん」とか「外の黒いヒト、ブラ彦」とか「ベルコさん」とか呼んでいる。そう、彼らも種族は違えど我々と同じ「ヒト」だと思っている。
 だから当然ウマが合わないヒトもいて、かなり折り合いに苦労もしたこともある。ワガママでこちらの言うことはちっともきかず手を焼いたヒトもいれば、バドのように子供のころから従順でおとなしく手がかからない利発なヒトもいた。

 ただ残念というか哀しいのは、彼らは人間より命が短く、うんと長生きしても20年ほどで死んでしまう。中には交通事故や病気で若くして死んだヒトも多く、なかなかその天が与えたフルの人生を全うできたものは少ない。
  そうした別れの都度哀しみ落ち込み辛い日々を過ごすが、彼らが我々人間に与えてくれたものはとても大きく、おそらくこれからも自分は命ある限り動物たち、犬や猫を家族として一家で暮らしていくと思う。
 
 この世には動物は汚いから嫌だとか、手がかかり面倒、好きだけど忙しくて飼えない、死んだとき辛いからと様々な理由で飼わない人も多い。むろんそれは人それぞれで彼ら無しで生きていける人は強い、良い人なのだとも思う。そうした関係が不要で、いなくてもちっとも困らないのは良いことだ。
 ただ、自分は家自体が動物好きだったことと、うんと幼児の頃から動物と暮らしていたので彼ら無しの生活は考えられない。むろん金もかかるし世話も掃除も散歩も餌やりもともかく大変だ。しかし、そうしたマイナス面以上をはるかに上回る楽しく素晴らしいこと、喜び、楽しみ、そして癒しを彼らは与えてくれている。彼らは常に基本無私であり、飼い主の心を読み取り心配しこちらが与えたもの以上のものを返してくれる。

 自分はもともと寂しがりやであり、愛情に飢えている。が、残念だが人間からはあまり好かれないし愛されもしない。動物たちはそんな人間社会では落ちこぼれてしまった人間を損得なしの無私の愛で受け入れてくれる。バドもだが、その他のこれまで共に暮らした多くの犬、そして猫はそうしてこんな欠点だらけの問題ある人間を愛想尽かさず愛し慕ってくれた。かつて自分が苦しく自殺すら考えたとき彼らの存在が救ってくれたこともある。

 そして今、バドが死に、覚悟はしていたがその「不在」がやはり辛い。まだ家の中あちこちに彼の臭いが残っているし、彼がいつも寝ていたところに目をやるとその姿を探している自分に気づく。無意識にバドの食事のことを考えている。でももう心配しなくてもいいんだと気づく。そして哀しい。

 今朝がた庭のイチョウの木の下に埋め、もう今は冷たい土の下だとわかってはいるのに、今までずっととても長くいたために、その不在を受け入れて慣れることがまだできない。
 埋めたときはこの肉体はもう魂の抜け殻だとわかっていたからちっとも哀しくなかった。が、今もまだすぐそこに、いつもどおり「いる」という「感覚」はあるのにその姿がもうないことが哀しいく辛い。さびしい。

 自分も死ねばまたあの世で彼らと思う存分野原を走り回ったり撫でくりまわすこともできるだろうが、その日までこの淋しさを受け入れて慣れていくしかない。
 幸い、ウチには彼らの一族がまだ残っている。ブラ彦もいつまで生きるかわからないが、大事にバドおじさんのぶんまで、その妻のベルコさんともども大切にしていこう。

 こんなこと動物嫌いの人、飼ったことのない人には全く関係ない無意味かつ不要な話だ。ただ、動物好きな人にはきっと伝わると信じて書いた。動物は素晴らしい。彼らは人間ではないけれどまたヒトなのである。その関係こそが愛なのだと思う。

 生きていくことはこうして喪っていくことであり不在を受けていくことなのだ。歳をとることとは喪うことと同義なのだ。でも死んでいった彼らにもやがてまたきっと会える、そう信じている。彼らは必ず待っていてくれる。