今年一年を振り返る・後~昨日のダメさに別れを告げるんだもの2014年12月31日 07時32分53秒

★がんばりも無理もしないが、すべてをきちんとさせていく        アクセスランキング: 175位

 先日、25日のクリスマスの日に、老親たち連れて山梨県北杜市の古民家に一泊してきた。その夕刻、さらに山奥の増冨の湯に久々に行き、一時間半そこらだったが、ひたすら温い湯の中に浸かって無念無想の忘我の境地になってきた。そしてようやくわかった。

 聖書の中、磔刑への捕縛の前に、ゲッセマネの園で祈るイエスをよそに、何度起こしてもひたすら眠りこけるペテロら弟子たちに、イエスは呆れ「なんで眠るのか、一時も目を覚ましをること能わぬか、《略》実に心は熱すれども肉体弱きなり」と諭したとあるが、自分もまた、実に「心は燃えていても肉体が弱かった」のだと気づく。大晦日に今年を振り返ってつくづくそう悟る。

 体が病弱というのではない。熱い思いはある。が、それを入れる器が脆く弱く、意志の弱さのゆえ大事において腰砕けとなり肝心のことが成し得なかったのである。
 それは「甘さ」ということに尽きる。甘さとは甘えであり,他者にも自分にもすべてに甘く、それはだらしなさ、中途半端ということと全くの同義であった。おまけに臆病で怠け者でもあったから、祈る人がいる傍らでひたすら眠りこけていたのである。ペテロたちも師が去った後に初めて真に悟り悔やんだことであろう。

 人生を一からリセットしたいと心から願う。しかし究極のそれはもういったん死んで生まれ直すしかない。あるいはどこか別の町で名前も変えて1からやりなおすしかない。が、老親や犬猫、家族を残してそれはできやしない。つまるところせいぜいこうして1年という区切りの中で、あらためて気持ち新たに、真に悔い改め生まれ変わるしかない。
 しかし愚かなシモン・ペテロのように口先だけで約束したとしてもまたすぐに三度も師を否認するが如く、芯のない弱き者は果たしてそれが守れるかわからない。ならばこうして世間に書き記すことなく不言実行で臨むべきだと思うが、愚かな自分は愚かゆえその「決意」をあえて書いていく。

 狂人、つまり発狂している人は自らはそのことに気がつかない。つまり自分がくるっていることに気づいていない。
 増富の湯で、気づかされたことは、いったい自分は何を焦り苛立っていたのだろうかということだ。今思うに、今年はどうかしていた。さまざまなことに囚われあれもこれもと焦り慌て興奮していた。まさに地に足がついていなかった。喧騒と狂乱の最中である意味発狂していたと気がついた。
 そしてそれは結果、11.30へと続き、全ての甘さは中途半端となり、詰めの甘さとして現実化してしまったのだ。今にしてその流れが手にとるように見える。が、その頃は何だかわからないがコーフンしていて気ばかり焦りまったく落ち着いて冷静に考えられなかったのだ。

 新年を前に今願うのは、今さらあれこれ求め願うことではなく、ともかくひとつひとつ、全てをきちんとさせていきたいということだけだ。いわばすべてが中途半端のままに投げだしてそのままにしてきていた。ある意味それは自らの人生をもネグレクトし投げだしていたのだった。
 のんびりではなく、もっとゆっくりと丁寧に人生を生き直したいと心から願う。欲深い我はついあれもこれもと多くを望み過ぎた。我がまますぎた。
 がんばりたいとは思うがもう老いた身ではそうがんばりもきかないだろう。ならば頑張ろうなんて思わず無理せずに、ともかく関わることのすべてをきちんとさせていくしかない。そして人様の役に立ちたい。迷惑や不快な思いをかけるだけでなく。

 自分の人生に対してさえもずっと無責任であった。これでは誰からも相手にされない。神すらも愛さない。まずは自分を愛し自らのためにも人生を投げ出さずきちんとしていくしかない。

 内に熱い思いは今も変わらずある。しかしそれを現実化するためには強靭な肉体が必要なのであった。来年はその構築のための年としたい。昨日までの愚かさ、甘さ、ダメさと本当におさらばしたい。

 皆様に神のご加護を、天にみ栄えを、地に平和を! 今年一年、すべてに有難うございました。